(一)ベッセンダーク事件②
フルールノ商会と言えば、穀物を主体とした食糧を取扱う大手で、領地の特産品販売のために利用している貴族も少なくない。王都でも複数の店舗を構え、国内にも広く販路を持っている。
それだけに会頭の愛娘に怪我を負わせた馬車の所有者次第では、どんな影響が出るかも分からない。
本来、王都では身分に関わらず馬車による事故が発生した際の対処方法を、明確に定めている。とはいえ独自の示談交渉で済ませてしまう場合なども有り、王都内で発生した事故全てでそれが厳格に守られる訳ではないが、今回はその一切をも無視した形となる。謝罪して治療するならまだしも、無視して走り去ったとなれば重罰に処される可能性もある。
「この方は?」
少女が命の危機を脱したことが目に見えて分かるようになり、安堵した女性は思い出したようにエレノールに尋ねた。
「……王国の騎士です」
答えは短かった。
「そうですか……だから治癒魔法を……」
戸惑いを見せつつも女性は納得したようにうなずいた。
ここでわざわざ名を明かせば、売名行為ともとられかねない。昨今の事情を鑑みれば見ただけで分かる者も居るかもしれない。とはいえ、エレノールの立場からすればラーソルバールを優先させるので当然であり、まずは起こりうる面倒な事柄を極力避けたいという思いが先行したのである。
「こっちです!」
ラーソルバールの三度目の治癒魔法が終了した頃、ようやく王都の警備兵と医者と思われる人物がそれぞれ誘導されてやってきた。
「負傷者はこの娘さんですか?」
医者は血だまりの上に横たわる少女を覗き込んだ。
「はい、治癒魔法で傷口を塞ぐなどの応急処置は済ませましたが、出血も多く体力も落ちているのは間違いありません。あとをよろしくお願いします」
「分かりました。善処します」
初老の医者は白くなりつつある髭を揺らしながら微笑んだ。
「それと……」
ラーソルバールは少女の頭を優しく撫でると、少し言いづらそうにしながら医者の顔を見上げた。
「な……何でしょうか?」
医者は驚いたような表情を浮かべたものの、すぐに笑顔で問い返した。
「……女の子なので、なるべく傷痕が残らないようにして頂けると……」
「え、ええ……お任せください。エイルディアの聖女と呼ばれる方のお願いですから、各所と連携して精一杯努力することをお約束します!」
医者は自らの胸を力強く拳で叩くと、満面の笑みを浮かべた。
「えっ!」
医者の言葉に少女に付き添っていた女性や、警備兵の視線がラーソルバールに集まる。
「あぁ……いや、私はただの通りすがりの騎士でして……」
憧憬のような表情を向けられ、ラーソルバールは頬を染めながら気恥ずかしそうにうつむき、少女に視線を戻した。
エレノールはその傍らで、ひとつ小さく吐息を漏らした。
ラーソルバールの顔を知る者が居るのは想定していたものの、ここまで早く気付かれる程に名と姿が浸透しているとは思っていなかった。配慮したつもりが全く意味が無かったのである。
だがこれで事件の加害者が貴族だったとしても、治癒を施したのが同じ貴族であるラーソルバールであった事で、今回の事件による平民と貴族との間にある溝の深まりは避けられるかもしれない。
複雑な心境に、意図せずエレノールは苦笑を浮かべていた。
医者とのやり取りが済むのを見計らったかのように、声が上がる。
「それでは、どなたか事情をお聞かせ願えますか?」
誰に尋ねれば良いか分からない、といった様子で警備兵が尋ねた。
「通りを歩いていたところ物凄い勢いで馬車が駆けてきたので、お嬢様が驚いて大事な手鞄を落とされて拾おうとした直後に接触しました。馬車は一旦止まったものの、すぐに走り去ってしまいました」
「その子は平民だから構わないとか言っていたぞ。あれは絶対に貴族だ!」
医者を連れてきた男が拳を握りしめ、怒りを露にしながら吐き捨てるように言った。
「馬車の特徴は……?」
「茶と黒を基調としていて、縁取りに金の装飾が施されていたな……。乗ってた奴の顔は覚えたんだが」
男は詳しく覚えていないのか、最後は悔しそうにつぶやいた。
「ああ、申し訳ないが貴族の馬車は似たようなものが多く、それだけで特定することはできない。確たる証拠無なく動けば、下手をすればこちらが吊し上げられてしまう……」
「蔦に鹿……」
ラーソルバールはぼそりとつぶやいた。
「何と仰られました?」
聞き取れなかったのか、警備兵は慌てて聞き返す。
「馬車にあった家紋です。蔦に鹿の紋様。走り去ったのは城の方角です。恐らく城から何らかの呼び出しでも有ったのでしょう。目撃情報と併せて、この時間に登城した人物を調べれば間違いは起きないと思います」
「なるほど、しっかり調べれば貴族が相手でも戦えますね!」
警備兵は目を輝かせつつ、ラーソルバールに向かって敬礼をした。




