(一)前触れ②
八月三日。
日没まであと僅かという頃、王都は普段とは別の喧噪に包まれていた。
事前の公示もなく四つの騎士団が王都の主要道を埋め尽くすように、慌ただしく北へと向かう。
この時点ではまだ帝国が動いたという報は無い。だが、被害が出てからでは遅いのだ。騎士達は十分な準備もできぬまま、悲壮感さえ漂わせながら沈みゆく太陽に染まる空を見上げていた。
騎士団本部では混雑を避けるため外に出ることが許されておらず、ラーソルバール達は出発していく騎士達の背中を執務棟の中から静かに見送る事しかできない。
「皆さん無事に帰ってきて欲しいね……」
シェラの言葉に黙って首を縦に振る。
傭兵や一般兵の補充は後回しで、動ける正騎士だけを送り出した形であり、人員数は多くない。それでも道中の領地で幾分かは補充しつつ進むはず。
とはいえ、帝国側が用意周到に準備をしていたならば、戦力差は抗えないものになるだろう。この先どのような事が起きるのか、誰もが全く予見できない状態になっていた。
同じころ、修学院の校舎で声高に不満を口にする者が居た。
「王太子殿下の婚約者が発表されたと思ったらこの事態ですか。不吉、まさに不吉でございますわ。こんな不吉な事を呼び込むようなお相手、見直した方が良いのではないでしょうかね?」
アストネア・ジェストファー侯爵令嬢である。周囲に取り巻きを集め、煽るように喧伝する。発言内容には王家に対して不敬にあたるものも含まれるが、相手が侯爵令嬢だけに誰も咎めようとしない。
アストネアの行為はエラゼルの耳にも届いていたが、全く動く気配を見せなかった。本人が出て行ったところで火に油を注ぐようなものと分かっているからだ。
エラゼル自身、先日の晩餐会以降は彼女に関わると面倒だという認識を持ったのか、極力近寄るのを避けている。
「傲慢な娘ですわね。自分が口にしている事が王家を批判しているのだという事にも気付いていないとは……」
ファルデリアナが苦笑いを浮かべながらエラゼルの元へとやってきた。
「全く……呆れて物も言えません」
エラゼルも言葉少なに同意する。
かくいうファルデリアナも、自身が三番手に並べられているので下手な事は言えない。王家に対してさえ悪口を抑えないのだから、横から口を出そうものなら何を言われるか分かったものではない。
「ファルデリアナ様、よろしいのですか? あの娘、先程ファルデリアナ様の御名まで口にしておりましたが……」
ファルデリアナが無関心を装うので心配したのか、小さな声でささやいて行く者もいる。
「放っておけば良いのですわ。口にしているのは不敬にあたる言葉。いずれその罪が自らの身を焼くことになりますわ」
ファルデリアナはそう言ったが、巷でも同じような声は小さくない。
アストネアとは違い、こうした噂に類するものは誰が言ったとも判別が出来ず、罪に問われる事は少ないのだが。
そこで「聖女様を選べば良かったのだ」という声が大きくなるようだと、火消しには困るのだろうが、今回に限ってはそうはならなかった。
「あの方が戦場に赴いて何とかして下さるに違いない」
同時にそんな声も聞かれる。
ここでいう「あの方」とは当然ラーソルバールを指すのだが、そこをぼかしたのには少なからず国民の配慮がある。
個人名を出してしまっては、あからさまにラーソルバールを戦場に送れと言っているようなものだし、派遣された騎士達では役に立たないと揶揄するようにも聞こえる。
誰でも裏の意図は分かるが、あえて言わないのである。
出征した騎士団も後方でこんな事を言われていようとは、夢にも思わなかったに違いない。
話を戻そう。
先日の一件以来、エラゼルとファルデリアナに自尊心を痛く傷つけられたアストネアは、ここぞとばかりに悪口雑言を繰り出した。
当然、二番手のラーソルバールなどは「所詮男爵家の娘」と切り捨て、自身が候補者にすら選ばれなかったという点は置き去りにしている。その上で、再選考をすれば私が選ばれるに違いないと言い始めた。
見かねた校長が止めに入るまでそれは続けられたのだが、果たしてアストネアが共感を集めようとした策は全く効果を上げることはなかったのだが……。
逆に侯爵家の評判を一気に落とすことに繋がり、後日ジェストファー侯爵自身が尻拭いに奔走することになるのだが、その話はここでは触れない。




