(四)ルベーゼと夜の風②
バルコニーから優しく風が吹いてくる。
風は悪戯をするように。ルベーゼの髪をふわりと躍らせる。
「婚約の件は何度もお断りさせて頂いたかと思います。まともに動くことも叶わぬような身ゆえ、私の事はお忘れになって下さい」
たおやかにお辞儀をすると、薄く笑みを浮かべた。
「我が妻になれば、そのような呪いなど、すぐに消し去ってみせましょう!」
その言葉を聞いた瞬間に、エラゼルはガドゥーイに鋭い視線を向けた。
言葉も繋ぎ止める術にはならず、さらりと手の内から零れ落ちるように目前から去りゆくルベーゼに目を奪われたままのガドゥーイは、己に刺さる視線には気付かない。
一顧だにせずに、ルベーゼは近くのテーブルへと向かって歩いていく。
悔しさを滲ませるように、拳を握るとガドゥーイは背を向けた。
「姉上……」
振り向くことなく静かに酒を口にしていたイリアナの耳元で、エラゼルは囁くように呼びかけた。
「聞こえていましたよ。自らを犯人だと名乗る愚者でしたね」
イリアナの目が冷たく、グラスの中で静かに揺れる酒の波紋を見詰める。
デラネトゥス公爵家はルベーゼの体調が悪化した原因のひとつが、呪いにあると公表した事はない。使用人でも一部の者にしか知らされておらず、呪いの可能性を指摘したラーソルバールを除き、外部の人間が知りえる情報ではない。
付け加えるなら見ただけで、原因が呪いだと明確に分かるようなものでもない。
ルベーゼの体調不良の原因が呪いだと断言するということは、それに関与していると証言しているようなもの。
「問い詰めますか?」
怒りを堪えるように、エラゼルは歯ぎしりをする。淑女としては失格だが、今にでも掴みかかって顔面を殴りつけてやりたいとさえも思う。
「このような場で問題を起こすわけにはいきません。晩餐会を終えて王宮を出た後にでも捕えれば良いでしょう」
冷静を装っているが、怒りを滲ませた声は僅かに震えた。このようなイリアナをエラゼルは見たことがない。これを父と母にはどう伝えるべきか、エラゼルに迷いが生じる。
そこへ飲み物の入ったグラスを手にルベーゼが戻ってきた。
「あら姉上もエラゼルも、何やらお怒りのご様子ですね……」
「大事な妹を苦しめている相手が近くに居ると分かったのです。これが怒らずにいられましょうか」
ルベーゼは姉の発した言葉の意味が理解できず、小さく首を傾げた。
その様子を見たエラゼルは小声で話しかける。
「先程の男が何と言っていたか……お聞きになっていないのですか?」
「さあ? あまり具合が良くなくて……、それに少し考え事をしていたので、あの方のお言葉はほとんど聞いておりませんでしたから」
ふふ、とルベーゼは悪びれずに微笑んだ。
この人らしい。
エラゼルは怒りも吹き飛ばされたように、思わず笑いだしてしまった。
「クソっ、あの女……」
ルベーゼに袖にされたガドゥーイは苛立ちで、床を蹴るように歩く。
無視された事への怒りが収まらぬと言わんばかりの表情で、会場から廊下へと出た。
才能は弟に劣ると言われ続け、想い焦がれた女も手に入れられない。
このまま会場に居ては、どんな失態を見せるか分からない。父に叱責されるばかりか、王族にまで目をつけられかねない。
大きく息を吸い、拳を握り締めて柱を殴る。
怒りは自らに向けられたものか、それとも自らを顧みない公爵家の娘か、それとも憎い弟か……。
「ガドゥーイ様、どうされました?」
警備についていた近衛配下の衛士が駆け寄ってきた。彼の行動を見ていたのだろう。
「おお、イェスガーではないか! 久しいな」
見知った衛士が現れたことで、ガドゥーイは口元に卑しい笑みを湛えた。
その頃、晩餐会が始まったばかりであるにも関わらず、リファールは少々現状に飽いてきていた。
扱いが悪い訳ではない。
内心がどうあるかまでは分からないが、誰もが王族として礼節を守って接してくれている。こちらがどうあるか見定めるように、心を出さないよう開いた距離から踏み込んでこない。自分の立場を考えれば当然だ、という思いはある。
対して自身も無難に乗り切ろうと、我を出すことは控えている。それだけに面白味のかけらもない。
ヴァストールに来て面白かったのは、あの女騎士と話した時だけではないか。誰にも気付かれぬよう、小さくため息をつく。美しい娘であったが、心を奪われたわけではない。
自分には想い人が居る。幼い時に見た少女の姿が今も目に焼き付いていて離れない。思い出すといつも心揺り動かされる。
ああ、あの人は今は……。その笑顔を思い浮かべ吐息を漏らすと、グラスの中の酒が僅かに波立つ。
ふわりと夜の風が前髪を揺らし、リファールは顔を上げた。




