19.指導する話
放課後、司波は早足で廊下を歩き、科学準備室の扉を開けた。
「お、先に来てたか」
科学準備室にある実験テーブルと、背もたれのない椅子。
そこにはアオが座っており、小説を読んでいた。
「悪い。会議長引いた」
「い、いえ、お気になさらず」
アオは読んでいた本を閉じた。
司波は向かいに座る。
アオがこの場所にいるのには、理由がある。
中学の頃にいじめを経験したアオは、精神的に参っていた時期があった。
現在は普通に学校に通えるまでに回復したものの、それでも彼女の母は心配していた。
アオは自分のことを、あまり話せない。
さらに、家族に心配は掛けたくないという思いも持っており、いじめられていることをなかなか話せなかった。
そこで司波は、毎週月曜日にアオを呼び出し、話を聞くことにしたのだ。
「怪我の方は大丈夫か?」
「はい。問題ないです」
アオは頭に包帯を巻いていた。
先週の休日、カラスによって負わされたものだった。
その日のうちに病院に行き、手当を受けた。
「この時期のカラスは神経質になってるからなぁ。あんまり刺激するなよ」
「はい……」
「それで、先週どうだった?」
「………あの、この怪我をした日のことなんですけど………」
アオはその日のことについて話した。
アオがカラスに攻撃された場所は、幽霊団地と呼ばれる廃墟である。
アオはその場所に望んで来たわけではない。
原因は中学時代の元同級生、小田という男子。
その日、小田はアオを見つけると、自分の物にするために追いかけ回した。
そうしてアオは幽霊団地に逃げ込んだことにより、小田だけでなく、カラスの群れにも追われることになったのだ。
「逃げ切れたんだな。よく頑張った」
「はい……」
「その小田って奴はどうなった?」
「解りません。小田君がカラスに襲われたのを最後に、見てません」
「なるほど。幽霊団地だな?後で警察に連絡しておく」
「えっ……」
アオは目を見開いた。
「もしかしたら行方不明になってるかもしれないからな。一応生存確認ってところだ」
「あ……あぁ……、あ………」
アオは震えながら頭を両手で覆った。
「そうだ、あの時通報するべきだったんだ。私のせいだ。私のせいで、小田君が……」
「日之道……」
司波は立ち上がり、アオの元まで来ると、そっと背中に手を置いた。
「お前は悪くない」
「でも、小田君が…。もしかしたら、死んでしまってるかも……」
「お前は被害者だ。仕方なかったんだ。お前の方が危険な目に遭ってたかもしれなかったんだ。お前に何かあったら、俺はお前の親に合わせる顔がない」
司波はアオの背中を優しく摩りながら、そう言った。
司波に渡された麦茶を、アオはゆっくりと飲み干した。
「落ち着いたか?」
「……はい」
アオの声は、最初と比べて暗い。
「悪かったな。まさかお前が、小田のことそんなに心配してるとはな」
「先生、私、小田君にはもう会いたくないだけで、死んで欲しいなんて思ってません」
「……そうか。お前優しいな。加害者なんだぞ?」
「そんなことないです。私がパニックになっちゃったのはきっと、自分のせいで人が死ぬのが怖いだけかもしれないので。私なんて、結局は自分のことしか考えてないんですよ。あはは……」
アオは自虐的に笑った。
「それが普通だろうな。今回はもうこれくらいにしておこう。また来週来てくれ」
「はい、ありがとうございました。………失礼します」
アオは最後には優しく微笑み、科学準備室を後にした。
“コンコン”
アオが出て行って約2分後、科学準備室の扉が叩かれた。
「どうぞ」
自分の机で仕事をしようとしていた司波は、扉の向こうの人物に応えた。
「はい、失礼しま~す」
「……村山?」
科学準備室に入ってきたのは、村山だった。
彼は若いが、1年1組の担任を務め、生徒からはイケメン教師として通っている。
司波は村山の先輩にあたる。
「何の用だ?」
「いやぁ、暇でしたので、ちょっとお話をですね……」
「仕事しろよ……」
司波は呆れて目を机の上の書類に移した。
村山はニヤリと笑って言った。
「アオさんと話していましたよね?」
「……聞いてたのか?」
司波は村山をジトリと見つめた。
「はい。『お前に何かあったら、お前の親に合わせる顔がない』、でしたっけ?」
「がっつり聞いてんじゃねぇよ……」
「随分アオさんのことを大事にしてるんですねぇ」
村山は司波の顔を覗き込む。
「日之道だけじゃない。俺は生徒に対等に接してるつもりだ。ただ日之道には、こういう指導が必要なだけだ」
「ですよねぇ。やっぱりアオさんは違います!」
「そんなこと言ってねぇよ……」
呆れ顔の司波を無視して、村山はアオについて語り出した。
「彼女は美しい。あのきめ細やかな髪。白い肌。一度絶望を経験したような、闇を含む目。そしてあの腰の低さ。謙虚さ。全てが私の理想です。あぁ……」
村山はうっとりと溜息をし、こう言った。
「自分の物にしたい」
“ガタッ!!”
その言葉を聞いた司波は、突然席を立った。
勢いで椅子が倒れる。
「お前、何考えてやがる?」
司波は村山を睨み付ける。
村山は相変わらずニヤニヤと厭らしく笑う。
そんな村山に、司波は危機感を覚えた。
「私はそれほどまでにアオさんが気に入っているんですよ」
「……、一応言っておく」
司波は椅子に座り直して言った。
「生徒に手を出すな。俺達は教師。生徒を導く立場にあるんだ。俺達が悪になったら、生徒達は誰を信じりゃいい?」
「はい。わかっています」
「わかったら仕事に戻れ。まだ残ってるだろ?」
「そうですね。これで失礼します」
村山は入り口に向かう。
扉を開けたところで、彼は振り返った。
「……もしですよ?もし私がアオさんに手を出したら、司波先生はどうしますか?」
司波は村山を見据えて言った。
「………そん時は覚悟しておけ。散々ぶん殴ってから警察に突き出してやる」
「やっぱりアオさんのこと、特別扱いしてませんか?」
「日之道じゃない。お前のために言ってるんだ」
「それは素直に感謝しますよ。では、失礼致しました」
終始笑顔の村山は、科学準備室を出た。