地球のゴースト
宇宙船ガリバーは、十数年にも及ぶ太陽系を巡る長い旅を終えて地球に戻ろうとしていた。クルーは人間が六人と優秀な人工知能が一体。ただし、人間のクルーは乗客と表現した方がむしろ相応しいかもしれない。何故なら、航行に関わる様々な操作はほぼ全て人工知能が行ってくれるので、人間にはあまりやる事がないからだ。その為、この宇宙船ガリバーにおいては、人工知能のメンテナンスを行う技術者達の方が重要な役割を担っていると言えた。ところが、あと少しで地球に着こうかという時期になって、突如として運行担当の役割が重要になってしまったのだった。原因は宇宙船の不調である。
まず、何故か地球からの通信を宇宙船は受信しないようになってしまった。地球の研究施設から自動的に情報が発信されているはずなので、情報が送られていないとは考え難い。その為、クルー達は受信機器の故障を疑ったのだが、技術者のチニックによれば機器類は正常だという。ソフト面の不調を疑った方が良いというのが彼の意見だった。ただし、この程度の不調は誰もそれほど気にしなかった。長い航行の過程で、何度か起こって来たことだったからだ。
だが、もう一つの問題は無視する事ができなかった。
「まだ、人工知能は見当違いの方向に進もうとしているのか、チニック?」
そうクルーの一人のゼン・グッドナイトが言った。チニックという名の技術者はそれを聞くと肩を竦める。
「ああ、ダメだね。何故か、太陽を挟んで正反対の場所に地球があるって言い続けている。しばらくは君らに運転してもらうしかないな」
二人は休憩室で寛いでいた。休憩室からは外の光景を見る事ができる。宇宙空間が広大に広がっている。美しい。もっとも彼らはそんな光景は既に見飽きてしまっていたが。グッドナイトが口を開く。
「別にそれは構わないんだ。長い間、出番がなくて退屈だったしな。ただ、セルフリッジのやつが妙にそれを気にしていただろう? ちょっと心配でね」
それにチニックは頷く。
「ああ、セルフリッジの旦那はとても聡明だが、多少心配性なところがあるからね」
彼らが語っている通り、宇宙船ガリバーに搭載されている人工知能は何故か地球の位置を誤って捉えてしまっているのだ。常識的に考えるのなら、これはあり得ない。地球の位置計算は人工知能にとってみれば非常に簡単で間違うようなものではないからだ。
「まさか、地球のゴーストが発生するなんてな。まぁ、不安にもなるか」
時折、人工知能が実際には存在しない小惑星などを観測する事があるのだ、それを彼らは“ゴースト”と呼んでいるのだ。この宇宙船内だけで通じる呼び名なのだが。
グッドナイトはそう言い終えると、宇宙空間に目を向けた。その先には地球がある。心なしか彼は嬉しそうにしているように見えた。チニックがこう言う。
「なんだか、嬉しそうだね、グッドナイトさん」
すると、グッドナイトは自嘲気味に「ククッ」と笑うとこう返した。
「正直に認めるよ、嬉しいね。ようやく、地球に戻れるかと思うとさ。まったく、地球が嫌で宇宙に飛び出したってのに、情けない話だ」
一応断っておくと、上機嫌なのは彼だけではない。このところ、宇宙船内は明るいムードに包まれている。皆、彼と同じ様に地球に戻れるのが嬉しいのだろう。
グッドナイトの言葉を聞くとチニックは少しだけ驚いた表情を見せた。
「地球が嫌で宇宙に飛び出した?」
「おや? 言ってなかったか? 僕は地球が嫌だったんだよ。あの国粋主義って言うか、国家主義的な雰囲気が特に」
それを聞くとチニックは頷いた。
「ああ、それは分かるよ。僕もそーいうのは苦手だった」
「ほら、一時は核軍縮に向きかけた雰囲気が簡単になくなっただろう? あっちこっちの国で核武装を始めてさ。水爆なんて威力が高すぎて“使えない兵器”って言われているんだぞ? そんなもんを装備してどうするつもりだ?ってんだ。地球を滅ぼすつもりかよ。
なのに、国家主義に陶酔する連中は考えなしだった。あれは感覚が麻痺してたんだな…… いや、兵器の破壊力が高すぎて、上手くイメージできていなかったのかもしれない。ま、ただ、それから逃げ出す為に、この宇宙旅行プロジェクトを利用するってのもちょっと皮肉だけどな。これだって、国家主義の産物みたいなもんなんだから」
彼の言う通り、この宇宙旅行プロジェクトは、実は国の国威発揚の意図もあって行われたものだったのだ。
「オヤジなんかは、僕がこの宇宙旅行のクルーになったって話を聞いた時、大喜びしていだけどな。“お前は国の誇りだ”とかなんとかさ。僕は本当はそーいうのが嫌でクルーになったってのに……」
チニックはそのグッドナイトの告白を複雑な思いで聞いていた。彼にもある程度はグッドナイトの気持ちは理解できる。しかし、彼は純粋に宇宙旅行に憧れ、厳しい訓練をパスしてこの宇宙船のクルーになったのだ。そんな彼にはグッドナイトの動機はいささか不純に思えてしまっていた。その所為で、気まずい沈黙が流れる。しかし、その沈黙は長くは続かなかった。
「キャー! 誰か来てー!」
そんな悲鳴が聞こえて来たからだ。クルーの一人、ティナの声だった。二人は声のした方に慌てて向かう。そこはオリバー・セルフリッジの部屋で、ドアは開いたままになっていた。中には震えながら口を押えるティナの姿があり、もう少し奥には同じくクルーの吉田誠一がいた。
そして、部屋の片隅では、部屋の主のオリバー・セルフリッジが首を吊ってぶら下がっていたのだった。
自殺だ。
間違いなく既に死んでいるだろう。
「彼がしばらく部屋から出てこないから、心配になって訪ねてみたの。そうしたら、首を吊って死んでいて……」
ティナが震える声で言った。グッドナイトは首を横にゆっくりと振る。
「心配が的中しちまったな……。ここ最近、こいつの様子はおかしかったから」
閉鎖空間で長期間を過ごす宇宙旅行では、精神疾患を患うケースが多い。彼はセルフリッジもそうだと言ったのだ。しかし、それに吉田が疑問の声を上げる。
「本当にそうだろうか?」
彼は床に転がっていた望遠鏡を拾いながらそう言った。眉をひそめながら、「何が言いたいんだ、吉田?」とグッドナイトは返す。
「彼は精神的にも安定した優秀な人間だった。そんな彼が、簡単に死を選んだりするだろうか?」
グッドナイトは肩を竦める。
「でも、実際に死んじまっている。他にどう説明するんだ?」
吉田は淡々と答えた。
「何か、とてつもないものを観たのかもしれない。例えば、これで……」
そして、彼は拾った望遠鏡を持ち上げてみせた。
「この宇宙のド真ん中で、何を見たって言うんだよ? 宇宙人か?」
「そんなものを観たくらいじゃ、自殺なんてしないよ。もっと他の何か……」
吉田はグッドナイトの冗談混じりの皮肉に真面目に応えてから、部屋から見える宇宙空間を見やった。
何も変わったところはない。
吉田誠一はクルー唯一の日本人だ。国威発揚の為の宇宙旅行プロジェクトに、日本人が参加しているのは、国が日本と同盟関係にあるからだった。つまり、彼の存在には多分に政治的な意図が含まれてあるのだ。しかし、誰も吉田に対して文句を言う者はなかった。彼は間違いなく有能な技術者で博識な学者でもあったからだ。多少、マイペース過ぎる嫌いはあるが、諍いを起こすような性格でもない。しかしその彼が今は苛立っているように思えた。そして、それはグッドナイトも同じだった。間違いなく二人はオリバー・セルフリッジの死にショックを受けている。
「二人とも、落ち着こう。今はとにかく地球に無事に辿り着くことが重要だよ」
チニックがそんな二人を宥める。ティナがそれに同意した。
「そうよ。とにかく、今はこの事は忘れましょう」
この中で最も動揺していたティナからそう言われたからだろう。二人とも素直に「そうだな」と頷いた。
――。
それからクルー達は寡黙に淡々と作業をし続けた。ただそれは作業に打ち込むことで、現実逃避をしているだけなのかもしれなかった。全員、何かは分からない正体不明の不気味な予感を感じていたのだ。人工知能は相変わらずに太陽の反対側に地球があると主張していたので、彼らは自ら宇宙船を運転するしかなかった。それは集中力を要する作業だったが、順調に宇宙船ガリバーは地球に近づいていた。
やがて、確りと地球の姿が肉眼でも観測できる程の距離にまでやって来た。久しぶりに見る地球は美しく、漆黒の宇宙空間の中の唯一の希望のようにすら思えた。
だが、更に進み、そろそろ大気圏突入の準備をし始めなくてはならない頃になって、クルー達は異常に気が付いたのだ。
「オイ、何か地球がおかしくないか?」
グッドナイトがそう言った。誰もそれに返さなかったが、皆も同じ気持ちだった。具体的には説明ができないが、質感が違う。まるで地球に重みがないように彼らには感じられていたのだ。
彼らはそれを目の錯覚だと思おうとした。しかし、どう考えてもそれは異常な光景だった。
……人工知能は相変わらずに地球は太陽の反対側にあると告げている。
「行ってみるしかないだろう」
吉田が言った。
無言のままクルー達はそれに従う。やがて大気圏へと突入した。しかし、何の衝撃もない。大気との摩擦で高熱を発するはずなのに、それすらも。まるで何もない空間を進むように、宇宙船ガリバーは地球へと落ちていく。真っ青な海が見えた。草木に覆われた大地も。美しい光景だ。だが、美し過ぎた。まるでこの世の光景ではないように思える。大地が近づいてい来る。遠くの方に街があるのも見えた。やはり美しい。その時、その街を見たクルー達には何故かそこで人々が幸せに暮らしているのが分かった。遠すぎて人の姿は確認できなかったにもかかわらず。もう地面はすぐそこまで迫っていた。ゼン・グッドナイトが叫ぶ。
「地面に激突するぞ!」
吉田誠一が返す。
「地面なんかない!」
そして、宇宙船はそのままその地球らしきものの内部に突進した。
――その瞬間、辺りは暗くなった。とても静かだった。まるで音というものが概念ごと掻き消えてしまったかのようだった。時間が止まったように感じられた。その刹那、何かが闇の中に浮かんだ。
それはオリバー・セルフリッジだった。
彼はクルーを見渡すと、そっと微笑みを浮かべた。淋しがっているようにも彼らを憐れんでいるようにも思えた。それはほんの数秒にも数時間のようにも感じられた。彼はクルー達に向けて優しく手を振った。
別れを告げたのかもしれない。
次の瞬間、その暗闇を抜けた。音の概念が戻って来る。気付くと宇宙船ガリバーは、宇宙空間を漂っていた。
「今のはいったい、何だったのよ?」
そう言ったのはクルーの一人のキャサリンだった。チニックが返す。
「分からない。でも、あそこが地球じゃなかったって事だけは確かだね」
「なら、地球は何処にあるってのよ?」
その質問には吉田誠一が返した。
「恐らくは、人工知能が訴え続けていた場所にだろうさ」
そう言うと、宇宙船に装備されてある大型の望遠レンズを起動させる。彼は続けた。
「なぁ、誰か、人工知能が示していた地球の場所を確かめてみたかい?」
その質問に皆は首を横に振る。
「だろうね。僕もだ。セルフリッジさん以外は誰も確かめなかったんだ。あの、さっきの地球が本物の地球だとすっかり信じ込んでいたからね」
それからコクピットの大きな画面に、見た事もない惑星の姿が映し出される。
「なによ、これは……」
そうティナが言った。グッドナイトは頭を抱えると、まるで独り言でも言うようにこうそれに返した。
「……地球だろうよ」
彼はどうやら全てを察したようだった。
その惑星はどす黒い色の煙に覆われていた。光の反射が鈍く、だから目立たなかったのだ。
「核戦争が起きたんだ。それで、地球は死んだ。だから、あんなものが出来てしまったんだろう。宇宙船が着地できない訳だ」
呟くように彼はそう続けた。
「そう考えるのが妥当だね」
と、吉田がそれに同意する。
途方もない威力の核兵器を世界中の国々が使い、地球上を破壊しまくった。結果として、凄まじい量の放射能混じりの煙が地球全体の大気を覆い、その美しい姿を闇の中に吞み込んでしまったのだ。
チニックが言う。
「ちょっと待ってくれ。もしかして、さっき見たあれは地球が死んで幽霊になったものだって、そう君らは言っているのかい?」
「そう考えるしかないだろう?」と、吉田誠一。
「そんなバカな……」
「僕もそう思うさ。バカげている。だけど、現実にあんなものが存在していたんだ。そして僕らの知っている地球は死んでいる。なら……」
虚しくなったのか、吉田は途中で言葉を止めた。そして、「これからどうする?」と誰にともなくそう問いかけた。戸惑った表情で全員が顔を見合わせる。ショックを受けていると言えば受けているが、あまりの事に現実感がなく、誰もこの事態を受け止め切れないでいた。やがて、観念したようにグッドナイトがそれに答える。
「食糧が尽きる限界まで宇宙で過ごして、それから地球に降りるしかないだろう。もう死んでしまったあの地球に。もしかしたら、南極になら、まだ人の住める場所が残されているかもしれない」
「そうだね」と、吉田はそれに返した。しかし彼はどことなくまだ何かを言いたげだった。
「どうした?」とグッドナイト。
「いや、オリバー・セルフリッジは僕が今までに会った事のある人間の中で一番の善人だった。信じられないくらいに。そして、その彼はさっきの地球に召されていったように思える。もしかしたら、あそこは天国だったのじゃないかと思ってね……、なら、」
それを聞くとゼン・グッドナイトは大きくため息を漏らした。そして、くたびれたように肩を竦める。
「僕らがこれから向かおうとしているその天国の反対側にあるあの死んでしまった地球は、“地獄”なのかもしれないってか。笑えない冗談だな……」
しかしそれから彼は、“いや、人間には地獄の方が相応しいのかもしれないな”などと虚しく心の中で呟いたのだった。
核戦争のリアリティがここ最近になって増している気がしたので……