火曜の夜01
雨は夜の八時頃から、本格的に降り出していた。
大学の構内はどこもかもしんと静まり返り、やかましく響くのは、外のテラスのひさしから時おりコンクリートの床に落ちる雨粒の音くらいだった。
智恵子は動かしていた筆を止め、左横に大きく開け放たれた窓をみる。
外は真っ暗で、はるか下界、高速道路に赤いテールランプと白いヘッドライトがそれぞれのラインで流れていくのが、唯一動きらしい動きだった。
「ふう」
今朝から、何度目になるのだろうか、ため息がまたひとつこぼれ落ちる。
もうすぐ夜中の十二時になるというのに、ほとんど思ったように描き終わっていない。
キャンバスの中、海の色が、気分に合わせてなのか、だんだん鈍くなっていくのが分かる。
パレットは、出した色全部が混じり合って、一大混沌を形成していた。
見ているうちに、ムンクの「叫び」みたいな顔してみたい、無性に、そう思い始めた。
ようやく智恵子はパレットから親指を外す。
それでも、陰鬱な気分は晴れない。
足元のガラクタの上に、上手くバランスをとりながら、パレットを置いた。
ガラクタといっても、捨てるに捨てられないものばかり。古本屋で買った倫理学の参考書四冊(きっと数年前から同じ内容なので以前履修した学生のお古だろう)、彫塑のゴミ捨て場から拾ってきたアグリッパの左半面、おやつに学生協で買ったものの食べかけて袋に戻したパン――いちごジャムがはみ出して袋をはがす気にもなれない――、座っていたら取れた椅子の背もたれ、等々。
「やだ、また服についちゃった」
のろのろと、智恵子は入り口近くの流しに向かった。
コンクリートの水槽は、長年の水の流れで少し、くぼみができている。
智恵子は、ていねいにティッシュで汚れをふき取り、それからちびた石鹸を擦りこみ、色をもみ出すように水で洗い流した。
藍色のポロシャツに、ごていねいにイエロー・オーカーなぞつけている。彼女は、眉根を寄せて、何度も何度もそこを水洗いしてから、ようやく手近なタオルをあてがった。
シンクにもたれかかるようにして、ポケットの煙草を探る。が、入っていない。
ぼんやりした頭で昼間の光景を思い起こそうと天井を眺めた。
そう言えば、お昼に学食から帰ってきたときには、すでになかったような気もする。
板切れを運んでいたチカちゃんが、坂道で荷物をばら撒いてしまったのにちょうど行きあい、いっしょになって拾ってやったんだっけ。きっとあそこで落としたんだ。
この雨じゃあ、溶けて流れてみなオジャンだ。
智恵子は大きくため息を吐いた。そのままうつろな目線で、アトリエを見渡す。
ノイズの多い音楽が、聞こえるか聞こえないかくらいに流れている。
吉田拓郎らしい。池やんの趣味だ。
十人の学生が百号程度の油絵を制作しているそのアトリエには、今は三人しか残っていない。
「ねえ、誰かコーヒー飲みたい人」
智恵子の呼びかけに、冷蔵庫の向かい側、入口のすぐ近くに巣を作っている池やんが、のろのろとふりむいた。
「ちょーだい」
「声が死んでるね」
池やん、今度はただうなずくのみ。智恵子、今度は振り向いて声を張る。
「さくらいちゃんは」
イーゼルの向こうから声だけ聞こえてくる。「ありがと、でももういいや。帰る」
「えー、この夜中に。この雨の中」
「うん」
「バイク?」
「まさかしょ。お迎えよ、お、む、か、え」
だよね、幸せ者め、二人で世界の果てまで流されてしまえ。智恵子はまた空しく胸ポケットを探る。もちろん、指は何もないすき間を空しく彷徨うだけだった。
アタシはこの世の終わりまで一人さびしく真面目にここで絵を描き続けるしかない、なぜってこれが卒業制作でこのキャンバスを埋め尽くすまではアタシはどこにも抜け出せないから。
もう一度大きなため息を吐いて、智恵子はホーローの細長いポットに半分ほど水を汲み、古びたガスコンロにかけた。
「池やん、砂糖ないからね」
「がーん」
特にショックを受けた様子もなく、池やんは一本調子のまま答える。
「まあ、甘くしすぎるとすぐ腹が下るんだよね、こないだもさ、ひっどい目に遭ってさ」
「聞きたくないですから」さくらいちゃんが打てば響くように返した。
「こないだトイレが逆流した話ならもう聞いたよ」
「え、何それ」
智恵子がそう突っ込んだばかりに、池やんは急に顔を輝かせて身を乗り出してきた。
「便所入って用足してたんだよ、個室でしゃがんでさ。したら急に落雷! がーん、ときた瞬間にトイレの電気が消えてさ、」
さくらいちゃんはすでに上着のボタンを止めて、マフラーまできっちりまいている。
「真っ暗な中であわててレバー押したらさ、水は流れたんだけどなぜか排水が詰まってて、今出たばっかりのが、ぶわ……」
「じゃあねー」
さくらいちゃんは爽やかに手を振り、アトリエを出て行った。池やん、ひるむことなく続ける。
「―っと溢れだしちゃってさ、オレ、あわててよけたんだけどもう逆流便を踏まないようにするのが一苦労だった」
「……もしかしてそのサンダルでトイレ入ったの」
「だってこれ一足しか持ってないもん」
「うげー。もしかして」
智恵子は鼻にしわを寄せたまま尋ねる。「アタシがこないだちょっと借りた時より前の話?」
「あー、あの前の週だったなあ」
「信じらんない、もう捨てろよそんなボロサンダル」
「とてもとても気に入ってるんだけどなー」
「ガムテで止めてあるし色もさー」
「素敵なゲロカラーでしょ?」
元々灰色のサンダルの上から、池やんは何層にも絵具をぬり重ねている。智恵子のパレット以上に、混迷度が深かった。
真夜中の教室内に男女ふたりきりでする会話じゃあないよね、そう言いながらも智恵子はカップにそれぞれインスタントコーヒーを二さじずつ入れて沸いたばかりの湯を注ぐ。
「ほい」
「ありがとございます」
ふざけている時でも、オゲレツな話題になった時でも、池やんはたいがい穏やかで紳士的だ。そしてこんな御礼の言葉もすっ、と口から出てくる。
何か、池やんに少しだけ優しいことばをかけてやりたい。
智恵子がそう感じたせつな、突然ドアが大きく開け放たれた。
智恵子と池やん、ぎょっとしてふり返る。