市立桜谷高校陸上部
「で? 結局入るんだ。」
午後9時。
リビングのソファでテレビを見ていると、姉ちゃんに話しかけられた。
片手は腰に当てモデルのような体制で立ち、もう片方の手にはダイニングテーブルに置いてあったはずの入部届がある。
母さんから承諾の判子をもらったままで、しまうのを忘れていた。
「あー‥まぁ? 」
「なにその煮えきらない返事。はっきりしないからモテないんだよお前。」
「うっせーよ。」
煮えきらないってことはまだちょっとだけ迷ってんだよ。
察しろ。
「‥今日体験入部行ってきたんだけどさぁー」
話しかけたつもりなのに、姉ちゃんに向けて言った独り言のような、小さい声だった。
ぽつりと話し始めるって表現ってよくわかんなかったけど、今の俺みたいな話し方がきっとそうなんだろう。
「高田先輩って知ってる? 」
「知ってるよ。」
そう言いながら姉ちゃんは俺の向かいまで歩いてきた。リビングのテーブルに俺の入部届けを置いて、テーブルを挟んだ俺の向かいに座る。
昨日と同じ位置だ。違うのは、俺がソファに座ってるから姉ちゃんより少し高いところにいるくらいだ。
「京一君でしょ? 不真面目そうだしチャラいけど足は速いよね。てか、知ってるに決まってんじゃん。」
「やっぱ学校でも有名人なんだ。まぁ目立ちそうだしな、高田先輩。」
「いや、そーだけど。目立ってたけどそーじゃない。私陸上部だったって忘れてない? 」
「あ、そっか。」
「葉祐の先輩はみんな私の後輩だからね。」
確かにそうだ。忘れてた。
姉ちゃんは去年インターハイに行ったし、それは確かに凄い事だと思う。
でも、部活に入ってないから全国がどれくらい凄いのかもいまいちピンと来ない。
かつ受験勉強真っ盛りだった俺は、凄いとは思ったが母さんたちほどはしゃいではいなかった。
すげーじゃんおめでとう、くらいしか言わなかった気がする。
インターハイは一応見には行ったけど、あー速いなーくらいにしか思わなかったし。
それ以外の大会も見に行ったことないから普通どのくらいのタイム出すのかわかんねーし、姉ちゃんも部活の話は俺にあんまりしてこなかったから正直印象には余り残ってない。
「で? 京一くんがどうしたの? 」
「なんか今日、タイム測ってさ。」
「あー、1年に毎年やってるやつでしょ。いきなり100のタイム測るやつ。」
「そーそー。それで、なんか、今までで1番いい記録?とか出て‥。」
「え? 葉祐が? 」
「うん。」
「すごいじゃん。」
「で、なんか、白雪先輩? 」
「あぁ、姫ちゃん。」
「そーそー。白雪先輩に、たぶん高田先輩越せるよって言われて‥ちょっと、いい記録出る見込みあるなら、まぁ? 他の部いって平凡な記録出すよりも、こっちやりたいかなって‥。」
「ふーん。」
姉ちゃんは興味無さそうに、テレビに一瞬顔を向けたあと、再び俺の方に向き直って言った。
「‥夢を壊すようで悪いけど、京一くんを抜く可能性なんて誰にでもあるよ。」
「は? 」
「どんなスポーツでもそうだけどさ。すっごい調子がいい人とか、急に自分の才能が開花した人とかがもし今年いたら、どんな記録でも抜ける可能性あるんだからね。てか何自分が特別だと思ってんの? 」
驚いた。
誰にでもあるのかよ。
なんだ。
俺だけしか高田先輩を抜けないのかと思ってた。
「そーなんだ‥。」
「お前だけしか越せないわけないじゃん。バカじゃないの。自意識過剰。」
ちょっと言い過ぎだろ。
「でも、まぁ‥。」
姉ちゃんは俺の目を見て、にやーっと笑って言った。
目元が似てるって言われてたけど、俺こんな目してんのか? だとしたらちょっと嫌だな。
「だから面白いんじゃない? 」
まるで小さい子のように、にこにこして言われてしまう。
「次は絶対自分が抜いてやる! とか。来年こそ! とか。思っちゃうんだよねー。なんかわかんないけど。」
「そーゆーもんなのか。」
「私はね? だから、興味もったならやればいいと思うよ。私の弟なんだから、それなりの記録出るでしょ。てか出せよ。」
最後の言葉はおかしいけど。俺は机に再び置かれた入部届けを、もう一度手に取った。
ーーーー
放課後の多目的室には、学年がバラバラな男女7人と先生1人が集まった。
入部届けを貰ってから10日間。
そして提出してから1週間経った今日、俺は1番廊下側の1年生の席に1人座っている。
教壇の前には、今日も茶髪のウェーブをなびかせた、やたら目力の強い先輩が立っている。
「それではこれから、陸上部のミーティングをはじめます。」
凛とした高くない声が教室に響いた。
「本当は入部期間はもう1週間あるんだけど、陸上部だけ大会の日程がずれてるので大会が近いうえに、もう今年はこれ以上の入部が望めないだろうとのことなので、まだ学校的には正式な部員ではないけれど、一足先に新入部員の紹介と大会連絡を兼ねたミーティングを行うことにしました。」
大会の時期違うのか。知らなかった。
「まず最初に、部員の紹介ね。」
白雪先輩がそう言うと、今まで前を向いていた先輩達がいっせいに俺の方を見た。
こんなに急に視線を浴びる機会、あまりない。ましてや先輩に。
窓際から2番目の列の前から2番目に座っていた先輩が椅子の音を教室に響かせて立った。
「3年A組の倉沢 梓です。種目は800と1500。よろしくね。」
少しだけ垂れ目の、焦げ茶のような髪色をした先輩が俺の方を向いてにこりと笑い、会釈をする。
背中くらいまで伸びた髪に、優しい声。先輩って感じはあるけど、ふわふわした雰囲気。女の子って感じの先輩。顔も可愛い。モテそう。
てか、俺は高田先輩と白雪先輩以外の先輩を知らなかった。今更だけど。
今日までの1週間、休みである水曜と土日練以外は、俺は毎日仮入部に行っていた。にも関わらず、毎日俺と高田先輩と白雪先輩しかいなかった。
数少ない部活に力を入れてるところなのに、こんなに来ないのは驚いた。強いのが嘘なんじゃないかと疑ったくらいだ。
倉沢先輩が席に座ると、今度は窓際から3列目の1番前に座った男の先輩が立つ。
「2年A組、九条 冬麻。種目は同じく1500と800。よろしく。」
俺より少し低い声の先輩は、くすりともせずに俺の方を向いて淡々と言う。
黒髪で切れ長の目。イケメンだけど、少し怖い。
九条先輩が座ると、次は俺の左隣に座る坊主頭の先輩が立った。
「2年B組! 岩室 剛! 種目は砲丸! だけど投てき系は基本なんでもやります! よろしくな! 」
まるで発声練習のように大声を出した先輩に、若干面食らう。
背が高くて、肩も広くてがっちりしてて、野球部にいそうな先輩だ。
「ちなみにこいつ、あだ名はゴリだから。ゴリマッチョだからゴリ。ゴリ先輩って呼んでやって。」
九条先輩が岩室先輩‥もといゴリ先輩のうしろから、ゴリ先輩を指さして言う。
淡々とした口調は相変わらずだけど、こんなふうに話しかけられると雰囲気はそこまで怖くない。
次に、九条先輩の後ろに座っていた金髪の女の先輩が立った。
「2Cの林 樹奈でーす! 種目は100と幅跳び! ちなみにこの金髪は地毛だよ! 私クォーターで、ママ方の血が強かったみたいなのー。だから怖がんないでね! よろしくっ! 」
にこーっとこっちを向いて笑って、最後にピースまでしてくれた林先輩。
ショートの金髪は、猫っ毛なのか下の方が少しはねてる。漫画とかによく出てくる元気な子は、たぶんみんな林先輩みたいな声なんだろうなってかんじの声だ。
制服のリボンは結んでなくて、首にかけてるだけになったリボンの紐はお腹の少し上くらいまで垂れ下がってる。
ブレザーはどこに置いてきたのかワイシャツだけで、しかもそのワイシャツも腕をまくってる。
でも、あどけない性格っていうか、少し子どもっぽくて元気な雰囲気のせいか、1人だけ着崩してても別に浮いてる感じはしない。
座ってからも、前に座る九条先輩の背中を押しながら「ちょっと緊張したー! 」とか話しかけてる。
九条先輩にはやめてって言われてるけど。
そして次に、教壇の隣の椅子に腰掛けた高田先輩が立つ。
「改めて、3年A組、高田京一です。種目は100と200。副部長です。よろしく。」
「ちなみに高田先輩の髪の毛は染めてるよー! 」
林先輩が高田先輩の紹介に口を挟む。
少し言い合いしてる2人を見ると、仲がいいんだなって思ってしまう。
部の雰囲気が、なんだかいい。
「最後に、部長の3A内野白雪です。改めてよろしく、弟くん。」
白雪先輩がいつもの声で、俺の目をしっかりと見ながら言う。
「え、姫ちゃん先輩の弟なの? 」
そう聞いたのは林先輩だった。
確かに今のやりとりじゃそう聞こえるかもしれない。
「違うよ樹奈ちゃん。言わなかったっけ、春花先輩の弟なんだよ。」
「えぇ!? そーなの!? 」
オーバーに驚く林先輩に、九条先輩が「昨日の休日練で言ってたじゃん」って呆れた顔で言っている。
やっぱり姉ちゃんのこと、みんな知ってるんだよな。
当たり前だけど。
俺の先輩はみんに姉ちゃんの後輩、この前言われたけど改めてその場にいるとなんだか不思議な気分だ。
「まぁ、そんなわけで‥」
白雪先輩がそう言って教壇を降りてくると、奥に座ってた先輩‥倉沢先輩がガタっと立ち上がり、机の後ろにあるロッカーの方に向かう。
ほかの先輩方も次々と教壇の前に集まってきて、1列に並ぶ。なんだ?
俺が呆気にとられたまま先輩方を見ていると、倉沢先輩は白い布をロッカーの上から持ってきた。
そして、列の俺から1番遠いところに並んだ。
高田先輩は倉沢先輩の真ん前に立ち、倉沢先輩のもつ布の片端を、高田先輩がもつ。
「せーの! 」
高田先輩のかけ声とともに、高田先輩が俺の方に向かって一気に走ってくる。
白い布が目の前に広がる。
「「桜谷高校陸上部へようこそ!! 」」
白雪先輩、高田先輩、倉沢先輩、九条先輩、ゴリ先輩、林先輩。全員の声が聞こえた。
倉沢先輩と高田先輩が広げたものは横断幕だった。白い布いっぱいに、黒い達筆な文字で『桜谷高校陸上部』と書いてある。
俺が驚いていると、林先輩に「ありがとうとか言ってよ! 」って笑いながら言われてしまった。
少し会釈して、ありがとうございますと告げた。
たぶん途切れ途切れだったと思う。
「そーいえば、1年生くんの名前なんて言うの? 」
横断幕のちょうど真ん中くらいをもってる林先輩が聞いてくる。
「あっ、新入生の自己紹介忘れてた‥」
白雪先輩がポツリと言った。
一瞬だけ、きつい雰囲気がなくなる。‥その一瞬、可愛いと思った。
てかこの人、ミスするんだ。
いや、人だからするけど。なんとなく雰囲気からしなそうだったから、ついそう思った。
「姫ちゃんってたまに抜けてるよねー。」
「高田うるさい。」
高田先輩への対応は、いつもどおりに戻っていた。あの一瞬が錯覚なんじゃないかって思うほどいつもどおりの対応だった。
「1年A組、瀬尾 葉祐です。種目はまだ決まってません。改めて、よろしくお願いします。」
俺がぺこりと頭を下げると、林先輩が「よろしくねー! てかそんな固くなくていいから! 」と再び明るく声をかけてくれた。
「これで葉祐くんも、晴れて陸上部員だね。」
高田先輩が俺の方を見て、にこっと笑う。相変わらず女子がいたら黄色い声が上がりそう笑顔だ。
陸上部員‥。
そうか。俺、入ったのか。
まだあまり実感ないけど。
中学の頃は、部活なんて真面目にやろうとも思わなかった。
高校でだって、やろうとは思ってなかった。帰宅部でいいやとも思ってた。
なんとなく、鳥羽の体験入部についていって。そしたら、陸上部について。
姉ちゃんのツテで話しかけてもらえて。練習やってみて、すごい(らしい)タイム出て。入部届け出して。
入ろうと思ったきっかけなんて単純だ。
走ってみて全然違うと思った高田先輩を、俺が越せるかもしれないってこと。
そして、陸上部を見て、楽しそうだと、思ったからだ。
白雪先輩も、高田先輩も、今日初めて会った先輩方も、姉ちゃんも。みんな楽しそうにやっている。だから、そんな場面を見せられたら、なんとなくやりたくなってしまった。
これからどうなるかなんてわからない。
けど、桜谷高校陸上部の部員になれたことは、純粋に嬉しいと思った。