プロローグ
3月9日。市立桜谷高校卒業式。
少し前まで真冬みたいに寒かったのに、一昨日くらいから少しずつ気温が上がってきて、今日は雲ひとつない快晴だ。
風が吹くと寒いけれど、日なたにいれば暖かい。
門出にふさわしい日っていうのは、きっとこんな日のことを言うんだろう。
1年生の俺は卒業式の最後の準備を終え、ふと教室前の廊下の窓から外を見る。
4階にあるその窓からはグラウンドとその脇の道が見える。登校時間がいつもより遅い卒業生が、グラウンド脇を歩いているのが目に入った。
うちの学校は離任式の方が卒業式より遅いけれど、卒業生の離任式への参加は強制ではないから、全員が集まるのは今日が最後だろう。
歩いてくる先輩たちの表情は見えないけれど、最後の登校をしてくる姿は、嬉しそうで、少し大人びていて、心なしか寂しそうにも見えた。
そうだ。俺が先輩と会ったのもこんな日だった。4月だから桜が咲いていたけれど、雲ひとつない快晴で、風が吹くと少し寒い。そんな春の日だった。
ーーーー
4月16日。入学式も新入生の交流合宿も無事に終わり、友達もそれなりにでき、入学から1週間して俺はそれなりの高校生活を送る準備が整ったと思う。
「葉祐、はやく行こうぜ。」
同じクラスの鳥羽雄大が声をかけてくる。
入学後一番最初に話したやつで、クラスの中では1番話をする相手だ。今日は一緒に部活見学に行くことになっている。
体操着にひと足早く着替えた鳥羽は、俺のことを急かす。今日は運動部をひととおり見に行く予定だ。体操着に着替えたが、体験入部をするつもりはない。取り敢えず全部の部活を回って、雰囲気だけ見てこようという算段だ。だから着替える予定はなかったのに、鳥羽が「運動部を見に行くのに制服で行くのは失礼。」と言い出したので、仕方なく俺も鳥羽にならって着替えることにした。
サッカー、野球、バスケ、バドミントン、卓球‥。5分見ては次に行く、という回り方。
おまけに鳥羽が後先考えず、パンフレットを見て行きたいと思ったところに行くというまわり方をしたので、外に出たり中に入ったり登ったり降りたり、無駄に体力を使った気がした。
「あとなんだ? 見てないの。陸上か? 」
「外かよ。さっき行ったじゃん。」
「わりーわりー! これで終わりだから行こうぜ! 」
ここ最近ずっと一緒にいてわかったが、鳥羽は初対面の奴にも一切気を遣わない。
自分が話したいだけ話し、やりたいことをやる性格だ。悪くいえばデリカシーがまるでないし空気も読めないが、良くいえば付き合いやすいしこっちも気が楽だ。だから俺は性格があまり似ていない鳥羽と、なんだかんだで一緒に過ごすことが多い。
「でもほんとどこも微妙だよなー。」
「まぁ、進学校だしな。」
桜谷高校は、1番ではないが県内でトップクラスの進学校だ。
毎年ほかの学校とは10の位の数が違う人数の難関大合格者数が出ている。だから正直、部活にはあまり力を入れていない。
そんな学校に対する少しの不満を、陸上部までのグラウンドに続く道を歩きながら鳥羽と話し合う。風が吹くと、体操着の身には少し寒い。
「葉祐どこはいりたい?」
「まだなんとも。鳥羽は?」
「俺も微妙。どこでもいいけど、俺はわりと部もがっつりやりたい。」
「なら陸上かバスケだろ。どこでもいいなら。そこ2つだけ去年全国手前まで行ってる。」
「そーなん!? 知らなかったわ。葉祐詳しいな。」
「詳しくはねーよ、合宿の時のオリエンテーションでも言ってたし。あとは、まぁ、姉ちゃんここの卒業生だから。去年聞いた。」
「えっ、お前姉ちゃんいたのかよ!? 可愛い? 」
「可愛い‥かは、わかんねーよ。自分の姉のこと可愛いか可愛くないかなんて考えねー。けど、女優の倉田亜美に雰囲気似てるって姉ちゃんの友達は言ってた。」
「えっ、俺亜美ちゃんめっちゃ好きだけど。超可愛い系じゃん。天使じゃん。そんな姉ちゃんが家帰ったらいるとかお前勝ち組だな。」
「いや、意味わかんねーし。雰囲気だけらしいし。てか俺は似てるなんて思ったことないのに、そんなこと言われたからちょっと倉田亜美のこと好きとか言えなくなったわ。」
「でも可愛いじゃん。めっちゃいいじゃん。俺の家なんて兄貴と弟だからすげえむさくるしいよ。名前は??」
「名前は‥瀬尾春花。」
言うと同時にグラウンドの入口につく。
聞こえてしまったのか、1番入口の方に立っていた女の先輩に驚いて振り向かれた。
「瀬尾春花?」
その先輩は、俺の目をしっかり見て聞き返す。
目が大きくて、少し童顔だ。
肩につかない短めの、毛先がウェーブした茶髪が、振り向いた反動と風で揺れてる。
2年生か?
「もしかして君、春花先輩の弟?」
また聞かれる。
吸い込まれそうに大きく黒い瞳に、俺は思わず何も考えないで「はい。」と答えてしまう。
いや、間違ってないけど。正しいけど。
「‥てことは、瀬尾葉祐くんだ。」
「えっ、あっ、そう‥っすけど。」
子どもっぽい見かけだけど、凄く高い声ではない。凛とした、はっきりした、脳に直接響いてくるような声だ。大人びた声、という言い方が似合うかもしれない。
「そう‥。陸上部、入るの?」
「えっ、あっ、」
まだ決めてません。って言いたいけど、まっすぐ俺を見つめられると何も言えない。
なんだろう。怖い。
俺よりずっと背の低い、しかも童顔の女の人なのに、率直にそう思ってしまった。
こんなこと初めてで、自分で自分の感情に戸惑ってしまう。
「姫ちゃん、なにやってんの?」
俺がきょどっていると、後ろから明るい男の人の声がした。
声からでもチャラそうだと思ったけど、振り向いて見てみたら見かけもかなりチャラかった。
「あっ、もしかして1年生?見学?体験入部?俺、3年の高田京一、よろしくね。」
明るい茶髪だけど、顔は世間一般でいうイケメンだ。
女受けしそうって言うと言い方悪いかもしれないけれど、男の俺から見てもかっこよかった。
背も高い。俺もクラスでは低いほうではないけれど、それよりもずっと高かった。
「高田、この1年生、春花先輩の弟。」
「え!? 嘘!? 」
茶髪ウェーブの女の先輩に紹介され、3年の‥高田先輩が、俺の顔をのぞき込んできた。
近くでみるとよけいに整ってる。目が二重で大きく、鼻も高い。
「瀬尾葉祐です‥。」
「まじで春花先輩の弟? あー、でも、言われてみればたしかに似てるわ。目とか顔の雰囲気そっくり。」
まじまじと顔を見られて、若干たじろいてしまう。
「で、隣の君は? 君も弟? 」
「あっ、1年2組の鳥羽雄大です! 弟じゃなくて、瀬尾君の友達っす。」
「雄大ね! よろしくよろしく。今日は何? 見学? 体験入部? 」
「今日は見学したくて‥。」
「そっか! じゃあぜひじっくり見てって。うちの陸上部、結構凄いよ? 」
にこっと笑ったその顔は、女子が見たら歓声が上がりそうな、完璧なイケメンの笑顔だった。
高田先輩は、なんだか納得いかなそうな顔の女の先輩の肩を叩いてみんなの輪に促す。
手振り払われてたけど。
それから俺は練習を見学したが、練習を見た感想は、いかにも陸上部らしいものだったなってくらい。
走って走って、たまにハードルだとか、ラダーっていう硬い布のようなものでできた梯子状のものだとかを使って、いいフォームを作るためだという「補強の動き」をして、また走って。
でも、そこにあるのは、今まで見たような、勉強の息抜きでやっていますといった感じの空気ではなかった。
どの部員も本気でやっているんだ、ということが伝わってしまった。
なんでかわからないけど。雰囲気かな。
姉ちゃんが疲れて帰ってきてたのもわかった気がする。
本当は5分程度見たら帰るつもりだったのに、俺はつい見入ってしまって、結局最後のストレッチまで全部見てしまった。
ちなみに鳥羽は途中で飽きて帰った。「俺帰るから!」って言われた気がするけど、返事をした記憶はない。
無視してたらあいつは帰らないだろうけど、してると悪いから一応今日謝罪メッセージをいれておこう。
「春花先輩の弟くん、最後まで見てくれたんだー。葉祐くんだっけ?」
ストレッチを終え、首にタオルをかけてスパイクと脱いだ長袖ジャージ、そしてマネージャーがもっていそうなバインダーをもった高田先輩に話しかけられた。他の先輩はまだストレッチ中だ。
「あっ、はい。葉祐です。」
「葉祐くんねー。どう? 陸上部入らない? 」
「いや‥入りたくないわけじゃないですけど、まだなんとも‥。」
「そっかー。じゃあこれ。」
先輩はバインダーから紙を1枚取り外して渡してくれた。
受け取った瞬間、入部届の大きな文字が目に入ってきた。
「別に入らなかったら捨てても他の部の入部届として使っても構わないよ。ただ、興味ないわけじゃないみたいだからさ。俺達も部員足りないし。春花先輩の弟なら余計に、入ってほしいんだよね。」
優しく笑ってくれる高田先輩は、やっぱりイケメンだ。
「‥ありがとうございます。考えてみます。」
「うん、よろしく。またおいでよ、今度は走りに。」
俺は笑いかけてくれる先輩に軽く会釈して、更衣室で着替えて駅までバスで向かい、そこから電車で帰った。
けれどその間頭に浮かぶのは、さっき見た練習の風景と、高田先輩の顔、そして、茶髪ウェーブの女の先輩の、俺を見つめてきた吸い込まれそうな眼差しだけだった。