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短編小説

掌編小説『アクアリウム』

 水族館の水槽を巡っているうちに、どの水槽の中にもある生き物が必ず居ることに私は気が付いた。鰯やスズメダイの水槽にも居たし、タカアシ蟹の水槽にも、毒蛙の水槽にも、ピラルクの水槽にも居た。貝の一種だと思われる。作り物の珊瑚の上で(うごめ)き、ピカピカと燃える赤色でラムネ壜に似た胴体とステンレスを四角に切って重ね貼りしたようなギザギザした頭に綿飴のような薄桃色の毛を被っている。大きさは三センチ程度に過ぎないが何の前触れも無く不意に膨れ上がり、小魚などを巻き込んで水槽から溢れて床に落ちることもあった。その場合は十数秒程掛けて蒸発し消える。まずギザギザの頭が消え、次第に壜のような体が消え、最後には琥珀のような魂が消える。消えるのだが、それでもいつの間にか、また水槽の中にそれは居る。展示の説明が書かれたプレートにも名前が無い。

 私はアロワナやメキシコサラマンダーやエレファントノーズフィッシュの水槽もよく見たが、やはり、それは居た。水槽の底で掃除をしているような仕草を見せていた。生きている時間の全てを掃除に費やしているように見えた。その様子には知性を感じられず、私はその生き物に話し掛けることはしなかった。

 だが、アザラシの水槽を覗いた時、其処に居たそれは一際大きく十数センチはあり、威厳を纏っていた。熱があり、自らが触れている部分の水を沸騰させている。

 水槽に顔を近付けて小さな女の子がはしゃいでいる。笑顔で写真を撮る。アザラシは二匹いた。そのうちの一匹が白く濁った眼で無数の人間を見ている。もう一匹はただ延々と狭い水中を泳いでいた。私は掌を水槽に着けて滑らかな天鵞絨(ビロード)の毛皮に見入った。この美しい毛皮を引き剥がして(なめ)し、この身を覆い、纏いたいと思った。

 アザラシの水槽ではプラスチック製の流氷を透かして半透明の白い光が二メートル下のコンクリートに揺らいでいる。その生き物は揺らぐ光の中で真っ青なヒラヒラした触角を使い、私を呼んでいるようだった。

 貝の一種であろうその生き物は私の方にゆっくりと近付いて来た。不意にその生き物は言った。

「アザラシは此処から遠く西の果て、コナハトのクロウ湾に生きる筈ではなかったか。聖パトリックが崖の上でベルを鳴らし、アイルランド中の蛇を呼び寄せクロウ湾に落とし駆逐した。その海に落ちたい。出来るならば。アザラシはそう思っている」

 私は驚いた。驚きの消えるのも待たず直接にその生き物に名前を聞いた。

「オマエは何処の水槽にでもいるな。いったい何なんだ?」

 すると、その生き物はラの金属音を水に溶かして密度の濃い水の玉を作った。その波動が水槽の正面に響いて来る。私が掌を水槽に当ててそれを受け取ると答えが伝わって来た。生命線に滲んで流れる波動がラララと歌う。

「水槽貝だ」その生き物は答えた。

 やはり貝の仲間のようだ。水槽貝というのは聞いたことがないが、おそらく水槽に棲息する貝だと思われる。ネットで調べてみると水槽貝はスイソウガイ科の貝だと書いてあった。それは海や川や湖や池沼には棲まないようだ。水槽の中に自然発生的に現れる。お祭りで掬って来た金魚を一時的にバスタブに入れておいたために、そこを水槽だと勘違いした水槽貝がバスタブをびっちりと埋め尽くしてしまっていた例があるという。私は水槽貝に聞いた。

「もしかしてオマエはアザラシの通訳なのか? アザラシがそう思っているとして、なんで私に伝える必要があるんだ?」

 水槽貝は答えずに山羊の脚に似た長い口でアザラシが食べ残した魚の滓を食べている。時折、愚鈍な動きをして、自分が水質の維持を僅かに担うだけの間抜けな貝なのだと示す。こちらの頭が狂っているのだと思わせる。私は耐え難い発狂の恐怖に耐え、アザラシを眺めながら水槽貝が聡明な時が来るのを待った。

 隣で男女が会話している。

「この子、同じパターンでグルグルしてる。そこの角でお腹を上にして、すーっと来て真ん中で息継ぎ」

「あ、ほんとだ。これが此処での遊びなのかな」

 いや違う。これは、叫ぶような祈りである。


 やがて閉館時間が迫り、人が少なくなってくると、水槽貝の施しているであろう魔術が訪れた。十歳くらいの男の子がアザラシの水槽の前で転び、男の子は倒れた。男の子は直ぐに起き上がったが、ぶつけた膝に白い腫れ物が出来ていて、その表面に天鵞絨の毛皮が生えていた。私は其処にひとつの法則を見出だした。

 私は通る人に足を引っ掛けて、或いは突き飛ばして転ばせた。人の皮膚の擦りむいた箇所にアザラシの毛皮が移動した。それに連れて目の濁ったアザラシの体が少しずつ消えて行く。既に右の腹の部分が無い。杖を衝いていた一人のお爺さんの顎にはアザラシの大きな肝臓が取り憑いた。お爺さんはその肝臓を頻りに撫で、「アイルランドに行きたいかも知れない」と独り言を言った。水槽貝は私に言う。

「人の群れはアザラシを少しずつ連れて行くだろう。飛行機に乗るだろう。アイルランドの西、コナハトに旅行に行くだろう。断崖からクロウ湾に飛び込み、いずれアザラシをクロウ湾に連れて行く。荒れ狂う海に、連れて行く」

「沖縄やハワイじゃダメなのか? クロウ湾に行く者は少ないだろう」

「……まず、行く先をクロウ湾に決めるウイルスを作る。そして人々に注射するという手段を取ってみる。手を貸してくれ」

 水槽貝が膨れ上がり、床に溢れ出し蒸発する。その際に床に溜まった液を私は注射器で吸い上げた。傷にアザラシの毛皮を生やした者とただ歩いている者に片っ端から注射した。ウイルスを脳に感染させた。その者達は明日にでもクロウ湾へ旅行に出掛けるだろう。夏休み、或いはお盆休みだ。きっと行くだろう。だが、それには限界があった。アザラシの左半分は未だに水槽の中にある。濁った左目が私を見ている。私は水槽に頭を打ち付けて考えた。脳の神経細胞をシャッフルして新しい考えの浮かぶ新しい回路を作ろうとした。何かないか。目の濁ったアザラシを丸ごとクロウ湾に落とすためにはどうすれば良いのか。額から血が流れても何も思い付かない。私は頭が悪かった。だが水槽貝は聡明を続けており、言った。

「クロウ湾に行けないのならクロウ湾に来てもらうしかない」

 場所が動物のように移動することを私は知らなかった。水槽貝の聡明さに私は更に驚いた。クロウ湾が泳いで、そして歩いて此処まで、水族館まで来る。もしかしたら(カモメ)のように飛んで来るのかも知れない。私は、もう必要ない。

「いや、アザラシはお前に礼を言っている。ありがとう。そう言っている。お前も一緒に呼んでくれ。クロウ湾を」

 私は泣きそうになり、潤んだ目になり、アザラシの濁った目と同じような視界を得た。


 ああ、私もクロウ湾に落ちたい。



 私は寝る前に、水族館で起こった今日のことを思い返していた。色鮮やかな美しい魚達を思いながら眠りに着いた。

 朝、目が覚めると私の頭蓋骨の中に水槽貝がたくさん居た。歯を磨いていると鼻歌のようにラララと音が洩れて来る。

「アザラシは此処から遠く西の果て、コナハトのクロウ湾に生きる筈ではなかったか。聖パトリックが崖の上でベルを鳴らし、アイルランド中の蛇を呼び寄せクロウ湾に落とし駆逐した。その海に落ちたい。出来るならば。アザラシはそう思っている」

 私はもう一度水族館に行くだろう。近いうちに。そこには、崖の上には、見渡す限りの白詰草(シロツメクサ)。古い石の柱が点在している。すぐ傍に大西洋の大海原。海風が私の体を押す。聴覚を奪う潮騒。だが、届く。ただひとつ、ベルの音。断崖で聖パトリックがベルを鳴らしている。

 私は呼び出される。




       『了』

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