其の捌:鬼百合ノ姫
いつの間にか百合の体は飛び出していた。幽刃の言葉を聞いた瞬間、何か精神的なものが外れたように怒りが一気に沸騰したのだ。
自分のように幽刃が幽人の体を奪う。それは幽刃をずっと自分の中で起こしてはならないこととして定めていたことだった。そうしない上で幽刃との決着をつけることが理想だったのだ。だが、目の前でその恐れていた状況になってしまった以上、百合が冷静にいられるはずはなかった。
「うああああっ!」
絶叫とともに金棒を叩きこむ。感情を乗せて振るった一撃だったが、幽人の体を奪った幽刃は背中の蛇たちを飛び出させて受け止める。その表情は驚いたようなものだったが、一歩も後退していない様子から金棒自体はそこまで苦ではないようだ。
「おいおい、何をそんなに怒っている。やっと俺はお前と同じになれたんだぞ。これから珠美とかいう女……あれ、そこにいたのか。まあいいや。……とりあえずこれからなんだよ。お前が怒り狂って向かってくるのは非常に困るんだよ。頼むからじっとしてくれ」
「黙れ! 幽人を返せ! その身体から出てけっ!!」
策もへったくれもなく百合は金棒を何度も振るう。ただ単調に荒々しく怒りをぶつける彼女には落ち着くという選択肢は存在しなかった。その怒りをすべて消化するか、鎮火するほどの衝撃を与えるしかない。
「分からず屋が……身の程を知れっ!」
とうとう幽刃にも我慢の限界が来たのか、わずかな殺気を込めて百合に向けて刀を振るう。反射的に百合はのけ反りながら距離を取る。もともと幽刃が浅く斬るつもりだったため着物が軽く斬れる程度で済んだが、先ほどの調子でやっていてはどこかで本当に体を切り刻まれかねない。それは百合も分かってはいたが、彼女自身でもどうしようもないほどに激昂していた。冷静になるよりだいぶ早く体が動き出すのだ。
再び真っ直ぐに突撃し金棒を振り下ろす。地面が砕けるような音が鳴るが、幽刃に触れた感触はない。そう遠く離れてはいないのに当たることがないのは、必要最低限の動きで金棒の軌道から外れているから。簡単に言っても実際にやるのはかなり難しい。だが、幽刃は百合が相手であればそれが可能だった。
「どれだけ俺がお前の動きを見てきたと思っているんだ。何千回、何万回と見ていればパターンはなんとなく読めてくる。それも俺は最高の状態でお前は怒りに身を任せてワンパターンに振っているだけ。当たるわけがないだろうが」
「うるさい!」
何度もしつこく振るってくる金棒を幽刃は呆れ顔を浮かべながら半歩だけ退いて躱していく。当たるはずのない攻撃だと分かっていても、一度でも当てなければ気がすまない。そんな百合の感情すら幽刃には手に取るように分かり、ふっと微笑を漏らせるほどの余裕があった。
「そもそもこれはあいつの自滅に近い。あの鳥人の姿が俺の終式と似たようなものなら精神力というか魂の強度が脆弱になるものなんだよ。なんせ『鬼』を自分の体に憑依させるわけだしな。『鬼』に憑かれるのと同じような状態なんだよ。俺だってめったに使いたくない類のやつだ」
「だから何だ!?」
「あいつは俺に食われるべくして食われたってことだよ!」
言っていることは間違っていない事実と言っても問題ない程度のもの。そうやって事実を基にすれば、どれだけ重ねた虚言よりも簡単に言葉に重みを持たせられる。つまりそれだけ百合の感情を揺さぶることができるということ。
「本当にあいつをここに呼び寄せたくなかったのなら、あいつが部屋に進入してきたとき、なぜ拒絶の意思を示さなかった? なぜあいつの意思を汲もうとした? それはあいつが俺に勝てると思ったからじゃないのか。あいつを信用したからじゃないのか。……だが、結果はこの様だ。お前が多少強引にでもあいつを拒絶していれば、俺と戦わせなければ、あいつが俺の餌食になることはなかったんじゃないのか?」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
幽刃の言葉をシャットアウトするように百合が何度も叫ぶのは、心の奥で彼の言葉が図星だった部分があったから。自分がこの状況を作り上げた一因だと自覚しているからこそ逆にそれを認めるのが嫌になって、感情を剥き出しにして金棒に乗せている。
それが幽刃にも分かっていたから抉るようにそこを突いた。簡単に自分の思い通りになってくれるとは思っていない。むしろそうならないからこそ、これほど強く執着していたのだ。だから、依り代が壊れない程度にねじ伏せ、動けない間にことを済ませるのが幽刃の理想的な手順。嫌がおうにも自分の願う通りに動いてもらい死んでもらうためには、少々手荒な真似をしてでも暫く大人しくしてもらいたい。そのためにここまで百合の感情を逆撫でする言葉を口にしたのだ。無駄な体力と霊力を使わせ、消耗したところを狙うために。
「完全に相手のペースね。このままじゃ消耗して自爆するのがオチよ」
「優梨……」
百合の劣勢は離れて様子を見ていた珠美らにも一目瞭然だった。戦闘経験がほとんどない珠美から見ても、百合の動きにキレが無くなっているのは理解できたし、彼女の攻撃が幽刃に掠りもしていないのは音だけでも分かるくらいだった。
「どうしよう。何とかしないと」
「何とかって言ったって、私たちに何ができるって言うの?」
「それは……」
このまま何もしなければ優梨(百合)は倒され、今度は自分たちの力を利用されて取り返しのつかない事態になってしまう。だが、明らかに常人のスペックを凌駕した戦いに自分たちが割り込んで何ができるというのか。それでも何かできなければすべてが終わってしまう。じり貧のこの状況を脱却するための一手がないのか、珠美は必死に自分について考えを張り巡らす。
「……あっ、あった」
そうして見つけたのは自分ですら先程知った力。存在は分かってはいたが、本質についてはまったく理解していなかったもの。
「私に宿ってるらしい『霊的な力や存在の一部だけを抽出してその性質を増幅させる』力。それで優梨の力を増幅できない?」
幽刃が狙っていたこの力こそが考えられる自分の最大の力。概念だけをなんとなく知った力だが、「蜘蛛の鬼」を再生させるほどの力はあった。それを百合に使えれば、この状況を好転させるくらいの影響を与えられるはずだ。
「それしかないでしょうけど……扱い方分かるの?」
「それは……」
そもそもこの力は珠美が無意識に使っていたもの。いざ使おうとしても逆にやり方が分からない。使い方が分からない力などもて余してしまうのが当然。何を増幅させれば良いのかも具体的に分かっていないのだ。
「でしょうね。……仕方ない。あの女の魂から私が適当に見繕うわ。細かい設定も私がやる。あなたはただ増幅するイメージを浮かべるだけで良いわ」
「え、ありがとう。……本当に大丈夫?」
「人の心配してるほど余裕あるの?」
「ごもっとも」
そう理解していたからこそ、「蜘蛛の鬼」が自ら厄介な役目に名乗り出る。自分の力ではないので完璧に使いこなせるとは思っていないが、少なくとも珠美よりは上手くやれるだろう。珠美の同意も得られた以上、即座に行動に移すべきだ。
珠美はすっと深呼吸して精神を落ち着かせる。直後に表層に浮かび上がる「蜘蛛の鬼」の意識を馴染ませてつりあいが取れるように「蜘蛛の鬼」主導で調整。調和が取れたところで行動に移る。
狙いは、怒りに身を任せてがむしゃらに金棒を振るう百合。明らかに肉体的にも精神的にも疲労が見え、動きも緩慢になっていた。思わず頭を抱えそうになったとき、大振りを避けられてよろめいた彼女の肩あたりを幽刃が刀で突こうとしているのが見えた。その瞬間を逃さず、ほぼ反射的に糸を伸ばす。首の根元を狙って放った糸はおおよそ狙い通りの場所にへばりついた。
「ぎょわあっ」
女らしからぬ悲鳴を上げる百合に構わず珠美は糸を一気に引っ張る。百合が軽く宙に浮きながらも凶刃から逃れたのを確認したところで、「蜘蛛の鬼」は糸を通じて彼女の精神に侵入。階層ごとに区切られた迷路のような世界を新たな糸を張りながら可能な限り参照していく。
「蜘蛛の鬼」自身が珠美の精神の中で再生した存在だからなんとか勝手が分かるが、迷いなく進める彼女の方がおかしいとされるほどに、人間の精神は複雑でさらに逐一微妙に変化していっているのだ。それでも彼女は一度も迷うことなく、状況を打破するための鍵と成りうるものを見つける。
(でも、これって……いや、躊躇している場合じゃない)
一瞬躊躇ったのはそれがなぜ百合の中に残っているのか理解できなかったから。さらに、その保存のされかたも予想外だったからだ。それでも今はじっくり考えている場合ではない。使えそうなものがあれば使うのみ。詳細は本人に聞けばいいだけ。
(珠美、頼むわ)
「了解。増幅!」
頭に響いた声を合図に珠美は言われたとおりに自分の思う「増幅」のイメージを頭に浮かべる。その瞬間、「蜘蛛の鬼」が張り巡らした糸を経路として膨大な霊力が流れ込み、彼女が見つけた「鍵」の霊力を一気に増幅させた。溢れでた霊力が百合自身の体を包み込み、不自然な風が余波として吹き荒れる。珠美らの妙な動きに反応はした幽刃も風に圧されて一歩踏み出すだけで止まった。
これはわずか数秒の間に起きた出来事。だが、これにより生まれた新たな力が戦況を大きく変えると珠美と「蜘蛛の鬼」は確信していた。なぜなら風が止んだときに姿を現した女性の姿も感じる迫力もまったく違うものだったからだ。
「憑依武装終式――鬼百合姫」
赤褐色に染まった着物には紫色の斑点が水玉のように散らされ、鮮やかだがどこか妖しげな印象を与える。二本の角と血溜まりのような目、背までかかる白髪はそのままだが、主な武器である金棒は二つに増えて左右の手に収まっていた。
今までと似て非なる存在。それは今まで上げた見た目の違いだけでなく、彼女の立ち振舞いや雰囲気からも容易に理解できる。激情に燃えていた瞳は静かな炎を湛えるようになり、わずかに見せた微笑みには何か黒いものが見え隠れしていた。
「王道展開の覚醒か何かでこの劣勢から脱却するつもりか。なら、その覚醒で得た力を完膚なきまで挫いてやる。かかってきな、百合」
より優れた力を手にしたのならそれを叩き潰せば完全に心を折ることができる。多少の強化など関係ないほどのアドバンテージが自分にあるのだと幽刃は確信していた。どんな姿になろうとも百合が百合であるならそれは変わらないはず。
「ふっ……」
息を吐きつつ、彼女は両手の金棒をこちらに向ける。一瞬の煌めきとともに霊力を圧縮された光弾を大量に乱射。視界を埋め尽くすような光弾の群れを背中の蛇を使ってしのぎながら、幽刃は次にくるであろう追撃に身構える。百合の戦闘での傾向は基本的に接近戦。それをよく理解しているからこそ、次に高速で迫ってくると予測。どんな軌道で金棒をぶつけてくるのか明確なイメージすらできていた。
「ふんっ」
狙い通り迫ってきた金棒の先端を刀の鎬で受け止める。勢いの乗ったそれを払いのけ、そのまま袈裟斬りのかたちで刀を振るう。念のため浅めに斬れるように半歩退きながら両手を引くかたちにした。
「……あ?」
だが、それでも衣服を斬ったような感触すらなく、鋭い軌跡を描いた刀は文字通り空を斬っていた。当然目の前にも彼女の姿はない。まったく予想していなかった状況に幽刃は初めて躊躇いから動きを止めた。
その直後、突然真上から凝縮された霊力の束が幽刃に向けて放たれる。巨大な柱のように地面に突き刺さるそれはいつの間にか上空に上がっていた彼女がもう一本の金棒から放ったもの。上空に上がっていたのも、その金棒の砲術を応用してブースターとして利用することで自分の体ごと押し上げたためだ。
「くそっ……何なんだよ」
この不意打ちには幽刃もさすがに対応できず、左半身がところどころ焼け爛れるほどの損傷を負った。それも幽人の身体を得てから初めての傷だ。奇策も構わず使う遠距離主体の戦闘スタイルに、知り合いの身体というのを気にしていないような容赦の無さ。幽刃のよく知る百合とはかけ離れた戦い方に彼は少し混乱していた。
「一体何なんだ、お前は?」
ついにはそんなことを聞いてしまう始末。百合についてかなり知っているからこそ、着地して金棒を回収している目の前の女が何なのか分からなくなっていたのだ。百合と似て非なる存在に戸惑いを隠せない。
「私? 私は『ユリ』よ」
「嘘をつけ! お前が『百合』なわけないだろ!!」
首を傾げる姿まで記憶の中の百合とおおよそ被っていて、それがさらに幽刃の心をかき乱す。それに狙ったような返答が合わされば、先ほどまでの百合を笑えなくなるほどに幽刃を激昂させるのは当然。彼女はそれを分かった上でわざとしている底意地の悪い女だった。
「嘘じゃない。――私は『綾瀬優梨』よ。ま、あんたがずっとストーキングしてた野蛮な脳筋女と違うのは確かだけど」
そう、そこにいたのは三年前に「百合の鬼」こと篠崎百合に食われたはずの綾瀬優梨だった。百合とは全く違う奇を衒った技も躊躇いなく使う遠距離主体の戦闘スタイルも、優梨が得意といていた戦法が複数の式神を扱って主な武器に弓矢を使うものだったためである。
「なら、あいつはどこだ? どこにいる! 百合に食われたはずのお前がなんでその体を自由に扱えるんだ!?」
「ああもううるさいうるさい。一気に聞かないで。あの女ならここにいるに決まってるでしょうが。この姿になるために憑依させたのはあの女の魂よ。ストーカーならそれくらい分かれ」
嫌悪感を露にしながら、優梨は幽刃の最初の問いに答える。実は幽刃も本当は彼女がどうなっているのか分かっていたが、すぐに認められなかったのだ。
優梨は自分の魂が解放された直後に主導権も手にし、百合の魂を使って幽人や幽刃と同じようなことを一瞬でやってのけたということ。それが幽刃には簡単に信じられなかった。
「で、私が今こうして自由に動けるのはそもそも三年前のあの日に食われてなかったから。あの現場をあんたもどこかで陰湿に見てたんでしょうからその前提で話すわ。……あのとき、私は篠崎の幹部のおっさんが作った御札を使って自分ごと篠崎百合を封印しようとした。けれど実際は失敗して彼女に身体の主導権を取られるかたちになった。で、その失敗というのが、百合ごと封印するはずがあと一歩のところで逃げられて、私だけが奥深くに引っ込むかたちになってしまったこと。屈辱の限りだけど、これが結果的に私の魂が百合の魂に侵食されて消滅するのを防いでくれた。でも、主導権を取り戻せるほどの霊力はなかったから三年簡引きこもっていたわけ。因みに私たちの秘密に関して百合が知っていたのは、封印の直前にメッセージとして残して残しておいたから。そもそも篠崎家が百合を手中に収めようとしたのもあんたに対抗するため。そのための犠牲として私が適任だったわけよ」
ここまでは優梨が三年前のあの日に消滅していなかった理由。表舞台に出ることがなかっただけで、実際のところ彼女は確かに存在していたのだ。
「で、ここからは私がなんで今表に出られているかって話なんだけど、それはあんたが予想しているのであながち間違いないと思う。要するに、珠美……さんに宿ってる『蜘蛛の鬼』が入り込んできて封印とその中の私に繋がる小さい穴を見つけてくれたってこと。それで二人の力で私の霊力は増幅されて封印を打ち崩し、そのまま身体の主導権を取り戻したわけ。……あ、もちろん百合の承諾は取ったわよ。だからこんな芸当できるわけだし。ま、冷静にさせるためにだいぶ精神力使ったけど」
これが優梨復活の顛末。「蜘蛛の鬼」が手引きして珠美が増幅させた霊力の塊こそが優梨の魂というわけだ。偶然が重なって生まれたこの奇跡は、もう必然といってもいいものだろう。
「ならばお前の魂を除外すれば百合の魂が戻ってくるんだな」
「いや、もともと私の身体だから。でも、そういうことなんじゃないの。ま、その前にあんたにその身体から出てってもらうけど」
睨みあうのはそれぞれが求めるものが互いの身体の中にいるから。求めるものに強い執念を持つのは綾瀬の血の特性とでもいうのか。
「ところでタクローとピーちゃん知らない?」
「何だそれ」
「煙の狼と赤い鳥の式神。百合が勝手にそんな名前つけたの。あんたたちネーミングセンス無さすぎ」
「ネーミングセンスなどたかが個性だろうが。……狼は昨夜倒したので預かっていたが、身体を捨てたからこの服の中に隠れているんじゃないか。鳥はこの男が使っていたようだが、身体を奪ってからは見ていない。それがどうした?」
殺気をぶつけ合いながら優梨が尋ねてきたのは式神という少しずれた問い。意図が読めない幽刃だったが、とりあえず答えてみることにした。それを知ったところで何かできるとは思えない。足下の元依り代の衣服を蹴飛ばしたのは軽い挑発のつもり。
「そ、ありがと。――『狼煙』」
「……づっ! 何だ?」
だが、それは浅はかな考えだった。優梨が小さく呟いた言葉。それが起動の合図となって、幽刃の足下の服から煙がとてつもない勢いで立ち上ぼり、彼の体に絡みつく。振り払おうとするも、何故か昨夜対峙したときより煙の拘束力が段違いに跳ね上がっておりびくともしない。あっという間に十字架に掛けられたような体勢で身動きが取れなくなってしまった。
「あんたの時代はなかったのかもしれないけど、遠隔操作で式神を操ることは私には朝飯前。起動のための霊力もさっきの戦いのなかで補給されたみたいだから、手間が省けた」
先に乱射していた霊力の弾、或いはそのあとの上空からの砲撃。そのどちらかですでに起動のための条件は揃っていて、後は本来の主である優梨の合図を待つだけだったようだ。
「この子、昨日散々やられたから気合が違うの。ま、本当は霊力を供給する私自身のが増したからだけど。あんたのマックスの力を知らないから断言はできないけど、身動き一つできないんじゃないの?」
「ぐっ……くそっ」
優梨の言うとおりだった。煙の拘束は不安定で見えにくいのにその拘束力は異常に高く、下手に強引に動けばこちらの身体が限界を迎えそうだ。
「さて、これであんたは少しの間動けなくなったわけだ。覚悟はいい?」
軽い笑みをこぼして優梨は両手の金棒を掲げる。片方を逆手に持って柄頭同士を合わせると、内部から機械音が響いて二つの金棒は一つに接着。手首を九十度返して垂直になると、ただ一本の棒のように垂直に立った。左手でそれを持ち、右手をすっと上に向ける。そこにはいつの間にか赤い鳥が止まっていた。優梨が言っていた火雁だ。
「あ、そうそう。言ってた式神、私の近くに留まっていたわ。ま、元から知ってたけど」
両翼の前を人差し指と薬指でつまみ、右手で全体を包み込んだ。そのまま柄の位置まで持ってきて添える。赤い鳥を矢として鉄の弓に番えるその姿は三年前の本来の彼女を思い出させる。
ゆっくりと矢を引く。それによりいつの間にか金棒両端に張られていた弦も引き絞られて金棒の打撃部が後方に反っていった。そして、矢がある位置に達すると突然矢が赤く輝きだしす。限界の合図だ。
「じゃ、とりあえず……これでも食らえ」
すっと右手の指を広げて矢から離す。固定するものを失った矢は弦に押し出されるように放たれて幽刃へと一直線。赤い流星のような軌跡を描きながらその速度を上げていく。
「ちっ……」
幽刃は三年前の百合と同じように霊力を馴染ませた空気を目の前で圧縮させて擬似的な壁を生成。赤い矢が突き刺さるとそこを中心に波紋のようなものができて、速度を少しずつ失速させる。だが、速度と距離から考えて、矢が壁を貫通するのは不可避だろう。それだけの思いと力が矢には籠っていた。身体を動かして実際に矢を放った優梨と自らを式神のようにして優梨に力を貸した百合の二人分の力だ。
「ぐっ……ぬおおっ!」
矢が貫通するのが先か。拘束が解けるのが先か。轟音を立てながら矢が壁の中を進む。幽刃が彼を拘束する煙を少しずつ引きちぎっていく。それぞれの思いがそのまま重みとなって勝敗を分ける。
「がああっ!!」
雄叫びとも悲鳴とも取れる声を上げたのは当然幽刃。その右手は煙の拘束から剥がれ、肘から先は一匹の蛇へと変貌して優梨の左肩に噛みついていた。そのまま毒を流そうとするもそこまでの力は入らず、牙を食い込ませるだけに留める。それでも、優梨の左手を封じるには十分だ。直後の隙を追撃すればまだ勝機はある。
しかし、幽刃にはそうすることができなかった。信念や流儀などではない。ただ意志と反してそう動けなかったのだ。それもそのはず。彼の胸には優梨が放ったあの矢が刺さっていたのだ。いや、ただ刺さっていただけなら体を動かすことくらいはできた。問題はその矢にいつの間にか付随していたもの。それは一本の糸で、その先は遥か後ろでずっと様子を伺っていた矢口珠美の右手に繋がっていた。
「火雁も私の最初の攻撃で起動していたの。で、私がぺちゃくちゃ話している間に珠美さんたちに根回ししてもらって、私を呼び出したあの糸を火雁に接続してあんたに突っ込ませた。後はもう分かるわね」
「ああ……」
つまり、百合にしたことを幽刃に対して行うということ。そして、その目的は当然珠美の力と「蜘蛛の鬼」の力によって幽人の魂を復活させることだ。
「だが、本当にあいつが復活できると思っているのか。俺に侵食されて消滅してる可能性の方が高いだろ。お前みたいに守られてたわけじゃないんだし」
「でも、まだ断片くらいは残ってるでしょ。それを増幅させるのが珠美さんたちの力なんだから」
当然、それが百パーセント上手くいく策だとは思っていない。だが、運命が手繰り寄せたこの奇跡的な状況で使える最高の手だ。
「それで仮に復活したとしても、あいつが俺をどけられるとでも?」
「ええ。百合だけを見ようとしてすべて見失ったあんたじゃ、私と百合の両方を見てどちらも見失わなかった勇刀……鬼塚幽人には勝てない。そう信じてるから」
優梨が右手の金棒を突きつけて幽刃に宣言する。その言葉には彼女の思いの分だけの重みがあった。それ相応の責任も彼女は背負うつもりだ。
(見つけたわ)
「増幅」
そして、幽刃の意識は表面から消失し、彼の意識は身体の奥、精神の奥へと沈んでいった。
「――いつまで寝てんの。起きなさい」