其の漆:帝釈天ノ金剛杵
金剛杵の先端から放たれる雷が黒炎を纏った蛇竜の左腕を貫く。ぶすぶすと表面が焼け焦げる匂いが鼻をつくが、それでも蛇竜が怯む様子は少しもない。むしろ鼓舞するような咆哮はさらに大きくなり、動きも荒々しく素早いものになっていた。
「武吏虎」の名を持つ蛇竜が口から黒い炎を吐き出した。幻想的でありながら禍々しい印象を抱かせるその炎は飲み込むかのように、触れたものを跡形もなく焼き尽くす。
友哉は距離を取りながら己の霊力を空気に馴染ませて薄い空気の膜を構築。その際に酸素を抜いておくのは細かい技術力が為せる技。固さより柔軟性に富んだ性質を持った壁は、炎を弾くのではなく包み込むようにして受けとめ、奇妙な球体となって不自然に宙に浮かぶ。球体の中で炎は次第に勢いを失い、そのうち静かに消滅する。
黒炎の無効化は不可能ではないが、まだ元気が有り余っている「武吏虎」と少し体を重く感じてきた自分を比較してみると、いかにこのまま防戦一方でいるのが割りに合わないかよくわかった。
「ちっ……」
柄にもない舌打ちを漏らしながら、友哉は金剛杵に再び霊力を送る。霊力を蓄電池のように溜める性質を持つこの金剛杵は必要に応じて任意で雷に変換して放出するため、出力を調整しやすいのが一番の特徴。その一方で逐一変換しているので、反射的な反撃など急な対応を要する場合が多少不得手な部分もある。つまり、狙いすまして先を取って放った一撃にこそ金剛杵の力の真価が発揮されるのだ。
嫌に慎重になってしまった、と友哉は思う。次期当主として相応しいように振る舞おうとしながらも、幹部との軋轢が生まれるのを避けたいがために自己主張はあまりしてこなかった。自分の意思を貫くほどの強さがなかったのだ。そんな弱い自分だから三年前に愚弟の奇行を起こしてしまったのではないか、と今になって猛省する。
たまには自分の力というひどく抽象的で曖昧なものだけを頼りにしてもいいのかもしれない。どんな立場であれ、今の自分はまだ世界の一部も知らないただの若造。多少のリスクなど、払うに十分すぎる未来が広がっているのならば気にする方が馬鹿らしい。自分一人信じられなくて、後に続く者たちを信頼できる訳がない。
ふっ、と少し笑みを溢して、金剛杵を強く握りなおす。様子見はここまでだ。
一歩踏み出し、金剛杵の先端から雷を放つ。避ける間もなく直撃してしまう「武吏虎」だが、目に見えるダメージはほとんどない。だが敵意剥き出しで向かってくるほどに気を引き付けることには成功した。こちら野獣のような咆哮は「武吏虎」が考えなしに突っ込んできていることがその証。
黒炎をブースター代わりに使ってその巨躯が迫ってくる。迫力に押し潰されそうになるが、怯むことはない。至って冷静に視界に収め、劣勢を抜け出すための穴を探す。そして、それは「武吏虎」がその剛腕を振り下ろし始めたところで友哉の目がしっかりと捉えた。
その瞬間に足に霊力を回して一気に跳躍。蛇竜の拳を空中で体をわずかにひねって紙一重でかわす。余波として着物に少し火がついたが気にはせずにそのまま「武吏虎」の首にしがみついた。
弱点はもとからおおよそ予想はついていた。表皮にいくら攻撃を加えてもたいしたダメージは得られない。ならば内部に与えられる部位ならどうか。ちょうどヴリトラはその条件を満たす弱点をインドラに見抜かれている。それを試さない手はないだろう。
間近で感じる熱と迫力に怯みながらも決して離れはせずに、友哉は右手の金剛杵を振り上げる。霊力のチャージも可能な限り行った。後はロスなく変換して「武吏虎」に叩き込むだけ。
「はあああっ!」
気合いを口から絶叫として表しながら、「武吏虎」の巨大な口の中に思いきり金剛杵を突っ込む。金剛杵は注ぎこんだ霊力のほぼすべてを雷に変換して浴びせさせてその身を内側から容赦なく焦がしていく。悲鳴をあげる間もなく、「武吏虎」の体は余すとこなく雷に貫かれ、瞬く間に炭化。そのとき素体になったであろう男性の身体が一瞬だけ見えたが、もともと強引に憑依させていたためかすぐにそれも灰となって風に散っていく。友哉はそれをただただ静かに眺めていた。
二人が飛び出していった部屋で、百合が真っ先に考えたのは当然、自分を括りつけている白蛇からの脱出方法だった。白蛇が対象の霊力を抑え込む力でも持っているのか、「鬼」としての力を用いて自力で脱出はしようとしても力が上手く入らないので現実はかなり厳しい。せっかく幽刃がこの場から離れたのにこれでは先ほどまでと何も変わらないではないか。
そもそも自分と優梨、幽刃と幽人のそれぞれの秘密については三年前のあの日の直後から知っていた。優梨の身体を奪いとる直前に彼女自身がメッセージとして残していたのだ。結果的に彼女の魂だけが奥深くに封印され、自身も半分理性を無くして勇刀との戦ったがその後に冷静になったときにそのメッセージが脳内に響いてすべて知ったのだ。
それでも幽人に一切話さなかったのは、彼を巻き込みたくなかったという個人的な思いから。もし、彼が幽刃と激突すればどうなるかくらいは自分たちの場合から安易に予想がつく。幽刃がその考えに至っていたら、状況は最悪と言っても過言ではない。
「本当にどうしたものか……」
「ん……優梨、これは……?」
男からビンタを食らい、今現在もそこまで離れていないところで激闘が繰り広げられているのに、珠美は寝ぼけた様子。思わず苦笑を漏らすがそこまで余裕がないのも事実なので、簡単に事情を話しておく。
自分達が昨夜にあの男に拉致されたこと。珠美に宿っていた特殊な霊力が「霊的な力や存在から一部だけを抽出してその性質を増幅させる」というものだということ。その霊力を利用してとんでもないことをしでかそうとしていたこと。今は幽人が外で彼と戦っていること。
自分達の魂に関する複雑な事情についてはここでは伏せておくことにした。
「なんか話が壮大すぎて思考回路が追いつかない……けど、とりあえずここから脱出しないと。――優梨、何か方法はないの?」
それは珠美が本来の「綾瀬優梨」については何も知らないから。彼女の中での「綾瀬優梨」は結局「篠崎百合」が中で演じていた姿でしかないのだ。ならば、今話す必要もない。どうしても真実を知らなくてはいけないときに知ればいいと百合は考えていた。――そういう考えかたが今のこの状況を生み出した要因の一つとも考えられるが、今はそんなことを反省している場合ではない。
「そうね。どうしましょうか……ん?」
ゆっくり注意深く視線を動かしていたら、床のほんの一部の狭い範囲が燃え上がっていたのだ。注意深く観察すると、その火種は羽のように見える。ここ最近で炎と羽で連想するものと言えば一つしかない。
「いい感じの置き土産をしてくれたみたい」
式神を高度に操れるようになるとどれだけ実体化させるかをある程度自由に定められる。「鬼」だけを斬るはずの幽刃の刀で殺された百合はそれをよく理解している。
つまりこの炎は「鬼」や式神程度しか傷つけられないように調整されているということ。部屋全体にまで炎が回らないのはそのためだろう。
「珠美、あの糞虫の糸にあの炎を移してみて」
「誰が糞虫よ、誰が――あ、ちょっと勝手に喋らないで」
傍から見れば状況を考えずに独り言を言っている阿呆のようだが、理由を理解している百合は気にしない。むしろ勝手に珠美の口を使って話している「蜘蛛の鬼」に用があったのだ。
「いいから文句言わずにさっさとやりなさい。時間がないの」
「うるさいわね。分かったから少し黙ってなさい」
百合と口論しながらも、「蜘蛛の鬼」は憑依している珠美の手のひらから糸を出して床を這わせる。するすると伸びる糸はすぐに目標の羽まで到達し、その炎を珠美の手元にまで引き寄せる。炎が真下まで着た瞬間、手首を返して糸を軽く浮かせる。ふわりと不規則に上がった糸はちょうど炎がついた部分が白蛇に触れ、今度はそっちに引火する。
すると、白蛇は苦しそうにのたうち回り、逃げるように珠美の体から離れていった。
「あら、たまにはあなたもちゃんとしたこと言うのね」
自由になった珠美の身体で「蜘蛛の鬼」は久しぶりに体を動かせる楽しみを感じる。何時間も柱に縛り付けられていたため少し動きがなまったように感じる。
「いいから、とっととあたしの方の白蛇もなんとかしなさい」
「あれ、それが人にものを頼む態度?」
ニタニタと笑って問うのは少しの優越感と意地悪さから。正直百合にあまりいい印象はないので、たまにはこんな立場を堪能したかった。
「そんな状況じゃないでしょ」
「私の知ったことじゃないわ」
「いいから早くしろ」
「あなたも早く折れたらいいのに」
その後調子に乗ってこのようなやり取りを十数回ほどしたら、さすがに珠美が強引に身体の権利を取り返そうとしてきた。さすがにそこまでされると「蜘蛛の鬼」も仕方なくだが、自分のときと同じように羽の炎を百合を括り付けている白蛇に触れさせて百合を解放させた。
「あいつらは一体どうなっているのか、早く確認しないと」
解放された百合はすぐさま二人の戦いを確認しようと外に飛び降りる。「蜘蛛の鬼」のしょうもない自己満足のせいで無駄に時間を浪費したので正直余裕はない。だが、そこで待っていたのは彼女の感情そのものが一旦すべて吹き飛び、彼女を追いかけてきた珠美も一切の動きを止めてしまうような光景だった。
「うそ……でしょ」
百合の視線の先には、両翼をもがれた鳥人が五十ほどの蛇に噛みつかれて項垂れている姿があった。さらによく見ると、唯一噛みついていない一匹の蛇がその口に水色の刀を咥えて鳥人の胸に突き刺している。
「よう、ちょうど決着がついたところだ。――しかも、じきに良いものが見れるぞ」
口から血を垂らしながら。蛇たちの主である幽刃が嗤う。その直後、不自然な光と風が彼と彼が刀で刺している幽人を包み込む。
中で行われているのは何なのか。百合はおおよそ分かっていたが実際に表情に出すことすらできない。結果、百合たちが何の反応も見せられないうちに光と風は収まり、彼女らに最悪の状況を目に焼きつけさせる。
そこにあったのは、ぼろぼろの学ランを着た鬼塚幽人の姿。だが、その手には綾瀬幽刃の愛刀である水色の刀が握られ、さらに彼の背中には鳥の翼ではなく無数の蛇の頭が飛び出ていた。そして、彼がその顔に浮かべるのは狂気に満ちた笑みだった。
「俺もやっと最高の『器』を手に入れたぞ、百合」