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其の肆:昔ノ話

 何もかもが不明瞭で、他を認識するための要素が存在しない空間。そこでは自分の意識だけが漂っていた。仮に辺りを色で定義するなら黒となるが、なんだかそう定義することすら場違いな感じがする奇妙な空間だ。

 ここはどこで、自分は何なのか。確固たる自分の魂とはどこにあって何故成り立っているのか。いや、そもそも本当に自分のものであるものは存在しているのか。「諸法無我」――仏陀が唱えた通り、本当は自分のものなど存在しないのかもしれない。魂すらも、存在すらも。

 となれば、ここは一体どこで、今思考しているものは何なのだろうか。あのとき意識を失ったまま死んだとしたら、ここは自分たちが輪廻の輪と定義していた場所だろうか。では、今現在彷徨っている自分は?

「――き――さい」

 不意に久しぶりに聞いたような声が魂に直接響く。と同時に、目の前に一筋の道ができる。半ば強引に例えるとするならば、それは光。自分の行くべき場所への道しるべ。

 歩く、という感覚でもなく。泳ぐ、という感覚でもない。実感として何かの感触を得ることはできないが、ただ進んでいるということは分かった。だから迷わず進む。光が近くなり、主観で見る世界がそれで染まっていく。それが覚醒だということに気づいたのは視界が多彩な色に染まったときだった。





 目が覚めたとき、幽人は篠崎勇刀として過ごしていた屋敷の一室にいた。派遣先である鬼怒樫と故郷であるこの町とは言うほど離れていないことを今さら思い出す。詮索されたくないこちら側と近くに置いて監視しておきたいあちら側との交渉で、鬼怒樫が拠点に決まったのだ。

 二十畳という、一人が寝ころぶには無駄に広い一室でずっと寝ていたようだ。真上の電灯の光が容赦なく目に入ってきて、思わず呻き声を上げながら寝返る。そのとき自分を見下ろしていたらしき、坊主頭が眩しすぎる男性と目が合った。

「あ……ども」

 幽人はこの男性をよく知っていた。というより知っていて当然だった。なぜなら彼こそが篠崎勇刀の兄である篠崎友哉だったからだ。

 まさか、これが三年振りの親子の再会となるなど、幽人は今の今まで一度も予想たことはなかった。

「傷が癒えたのならさっさと起きれば」

「すみません」

 三年間の間に威厳が出た声を聴いた直後、幽人は本能的にすぐに立ち上がってさっきまで寝ていた布団をそそくさと畳む。自分の体にあったはずの傷が癒えていることに彼が気がついたのは、畳んだ布団の上に枕を置いた後だった。

 正座をして友哉と向かい合う。互いに無言で空気が次第に重くなる。気まずい沈黙は苦痛以外の何物でもなく、幽人はそろそろ本気で帰りたくなってきた。

「えっと……治療してくださり、誠にありがとうございます」

「ああ、気にするな」

「では、私はこれで」

「待て」

 三年振りに幽人の表情に感情が映る。それはひきつったような不自然な笑い顔だった。それもよく見ると半泣きだ。

「何ですか――友哉様」

「いや……お前の主はどこにいるんだ?」

「祓い人を名乗る男と式神らしき「鬼」と戦い、連れさられました」

「そうか」

 二人がもう兄弟として言葉を交わすことはない。篠崎友哉の弟だった篠崎勇刀という存在はもういないのだ。だから、仮に友哉が珍しく動揺を見せても、このやり取りで正しい。それが三年前に幽人が選んだ選択だからだ。

「時間を取って悪いけどお前に話がある。それもお前の主、綾瀬優梨に関する話だ」

「……はい。構いません」

 それでも伝えたいことがあって友哉が切り出した以上、この場合の綾瀬優梨というのも、篠崎勇刀についての話題のために出したのだろう。尤も、彼女自身も深く関わっているのだろうが。三年前に優梨の父親が自分たち二人を一括りにして何か懸念していたことを思い出した。

「では、話すぞ。――これはある二人の『祓い人』の話だ」





 元禄十六年。グレゴリオ歴で言えば一七○三年。後に忠臣蔵として時代劇によく扱われる、赤穂浪士の吉良邸襲撃から十一か月が過ぎた頃、次の世代を担うとされていた二人の「祓い人」がいた。

 一人は篠崎家初の女性当主になるかもしれないと注目されていた篠崎家当主の一人娘、篠崎百合ゆりだ。彼女は篠崎家が得意とする、霊力を身体の補助に回して式神と実戦的な武術を交えた男顔負けの戦法で、今世紀一番の成果を上げていた。

 もう一人は綾瀬家当主の息子の綾瀬幽刃ゆうじんで、彼も次期当主としての立場が固まりつつある実力者だった。得意とするのは綾瀬家特有の複数の式神を用いたトリッキーな戦法で、多数の「鬼」を殲滅することに長けていた。

 二人は別段互いを嫌っていた訳でもなくどちらかというと好意的な関係だったのだが、二人の周りが犬猿の仲でよくけしかけられることも多かった。二人とも強力で実力はあったのだが、先述のとおり実力的には百合の方が上で、公式的な模擬戦ではほとんど彼女に軍配が上がっていた。だから、協会において一番権力を持っていたのはこの頃から篠崎家で、綾瀬家は二番手だった。当然、綾瀬家の側近にとってはこれはあまり好ましい状況ではなかっただろう。

 その年の十一月二十五日。その日も百合はいつもどおり幽刃をタコ殴りにしていた。無論、家の事情など関係ないただの個人的な暴力だ。

「ん?」

 金棒を彼の脳天すれすれで静止したところで、頬に不自然な風圧を感じる。何事かと前を向くと、幽刃がもたれていた漆喰の壁に矢らしきものが刺さっているのが見えた。矢柄に紙が結びつけられているのでどうやら矢文のようだ。

「仕事の依頼……仕方ない」

 流し読みして依頼を理解した百合はやっとこさ金棒を式神に戻して武装解除。着替えのために篠崎家の屋敷に戻っていった。

「あいたた……」

 腰を押さえながら幽刃は立ち上がる。集中して殴られたためそこだけ特に痛い。泣きそうになりながら泥を払い、屋敷へと戻る。

「依頼、か」

 一人呟いたのは何となく胸騒ぎがしたから。面倒ごとは嫌いだが、周りがどんどん持ってくるから自然と勘が研ぎ澄まされてきた。だが、結局はいつも通りの小競り合いになるのだろうと思っていた。側近が篠崎家に向けている敵意に関して実はあまり無頓着だったのだ。

 少し時が経ち、百合は壬吹みぶき藩という藩の江戸屋敷にいた。石高二万石の小大名であるこの藩も参勤交代に則って、藩主の家族は江戸屋敷に住まわされている。

 今回の依頼は藩主の一人娘である珠姫の護衛だ。何から護衛するかというと、当然人間からではなく、人外の存在である「鬼」からだ。この時代の祓い人は一部幕府の下についていたので、その存在は下級武士や町人には公にはなっていないが、幕府関係者及び各藩主とその関係者には存在を認められていた。

 依頼者である彼女の母曰く。最近珠姫の周りに不可解な出来事が度々起こっていたが、気のせいだと思っていた。が、先日本当に彼女が「鬼」の憑かれてしまった。幸いそのときは綾瀬家の「祓い人」が別件で来ていてなんとか大事には至らなかったが、珠姫自身に特殊な霊力が宿っていていつまた襲われるか分からないと言われた。困ったところで、その祓い人が護衛に推薦したのが、百合だったという訳だ。

「わざわざ仕事を回してくるとは、あの陰湿一族は一体何を企んでるのやら」

 開口一番に出た言葉がそれなのは、一部を除く綾瀬家の面々がそうさせるような態度を取ってくるからだと開き直っているからだ。もっともその一部も百合にとっては変わり者には変わらないのだが。

「あの……依頼は?」

「ああ、これは失敬。この篠崎百合、姫様は命を懸けてお守り致します」

 身分など馬鹿らしい、と思いながらも体制として重要なのは承知しているので、三つ指をついて頭を下げ、ありがたく依頼を頂戴する。綾瀬家の者が何かしら企んでいようとも、大したことではないだろうと無意識のうちに高をくくっていたことに百合は気づいていなかった。

 珠姫に対する百合の第一印象は「弱そう」だった。静かで慎ましいと言えば聞こえは良いが、その自信の無さそうな目は常に何かに怯えているようで、死地に赴くことが多々ある百合にとっては少し勘に触った。常に守られる側で守る側の苦悩も知らない。だからこそ護衛を依頼されたと分かっていても、何となく気に食わなかった。

 翌日、護衛二日目にして「鬼」の襲撃を受けた。数はそこまで多くはないが予想以上に早い襲撃だ。百合はほぼ反射的に結界を張り、自分だけが「鬼」と対峙するようにする。

 敵全体を視界に収め、右の袖に仕込んだ御札を金棒に変えて迎撃に出ようとする。だが、変な重みを感じて上手く動けない。ゆっくり後ろを向くと、怯える珠姫がもう片方の袖をつかんでいるのが見えた。結界の外に阻害したはずの彼女がなぜいるのか。まったく訳が分からなかったが、仕方なく金棒の先端を襲撃者たちに向け霊力を注ぐ。

「鬼吼砲」

 百合の声を合図に金棒の先から霊力の大玉が放たれる。閃光が球状になったかのようなその大玉は、真っ直ぐに向かってきた「鬼」を一つ残らず飲み込み、この世から消滅させていく。さらに勢いは止まらず後に残るのは沈黙と屋敷に空いた特大の穴だけだった。

「す、すごい」

「あたしもここまでとは……」

 多少セーブして放ったつもりだったが予想を遥かに上回る威力だった。まるで自分とは関係なく、何かに強められたかのようだ。

 もしかしたら、と珠姫を見つめるが彼女は何も知らないようにキョトンとしていた。





 翌日、仮の補修で何とか塞いだ穴がまた抉じ開けられた。依頼について知った幽刃が冷やかし目的で侵入しようとしたら、式神に注ぐ霊力の出力調整を間違えて、脆いところを突いてしまったのだ。慌てて様子を見にきた家臣たちに必死に言い訳をして戻ってもらった後、百合は当然の如くその当事者に無言で金棒を振り落とした。血が噴き出さない程度に抑えたので、頭を押さえて転がっているのは無視している。殺意に近い感情の一方で、屋敷の修繕を綾瀬家の負担にできるとほくそ笑んでいたのは秘密だ。

「あんたは何しに来たんだ。銭だけ置いてさっさと帰れ」

「ひっでえ。俺はお前がそんな薄情な奴だと思わなかったぞ。この糞尼」

「うるさい、死ね。今すぐ腹切れ」

「俺はお侍さんじゃあねえんだ。そこの女使ってでも生き延びてやらあ」

 小さいとは言え仮にも藩主の娘の前なのだが、明らかにまずい内容の舌戦が絶賛展開中だ。

「おお、お、お止めになってください。お止めになってください」

 一番不憫なのは、仲裁に入っている藩主の娘こと、珠姫。もともと硝子細工のように繊細な心にとって、この妙に殺伐とした空気は耐えられない。半泣きになっているのを見ていると、何の過失もないのにそろそろ土下座でもしそうだ。

「あ……これは申し訳ありません。つい熱くなってしまって。こら、あんたも謝れ」

「いや……すんません」

 さすがに二人も冷静になってすぐに謝罪。依頼者に土下座させるのはおかしいということは二人もさすがに分かった。

「てな訳で幽刃、珠姫様の護衛用に式神貸せ」

「どういう訳だ」

 失言や喧嘩などで珠姫に精神的な苦痛を与えたのは認めよう。だが、それで魂の一部である式神を貸せなどと言われるのは些か納得できない。が、百合は右手を前で振って催促してくる。口元も「早くしろよ」と声を出さずに言ってるようで、苛立ちを隠す素振りすら見せていない。

「ちっ、分かったよ。今から即席で作るから待ってろ」

 結局折れたのは幽刃の方。仕方ないな、などと思いながらも了承したのは、そもそもの目的が百合に何らかの手を貸すことだったから。幽刃個人としては百合に対して敵意はあまりなく、むしろ協力関係をとりたいと思っていたのだ。

 懐から何も書いていない御札を取りだして右手を翳し、静かに霊力を注ぎ込んでいく。式神にエネルギーを供給するときとは違い、自分の魂からより純粋な一滴を丁寧に抽出して核とするのが一番の肝。それが綾瀬家で代々伝えられてきたことだ。複数の式神を扱うということはそれだけ創る機会が多いということでもあるので、その真理を綾瀬家が見つけたのはごく自然と言える。

「で、今回はあくまで護衛用だから……っと」

 次に珠姫から筆を借り、さらさらっと何かを書き込む。わざと崩れたような字は創られた式神の起動キーともなる名前で、その周りの装飾は現代で言うプログラムのようなもの。今回は条件付きで自動的に起動する類のものだ。

「はいよ。これで文句はねえだろ」

「うん、ちゃんと受け取った。珠姫様、それと私が即席で作った分も合わせて渡しておきますから、肌身離さず持っておいてください」

「あ、ありがとうございます。しかしこのような大層なもの……」

「姫様、あなたは昨夜実際に襲われたのですよ。用心に越したことはありません。これからも私が守り続けられる保障などどこにもないのですから」

「は、はい。その通りです」

 二人分の御札を受け取った珠姫は少し扱いに困ったような表情を浮かべたが、百合の威圧感に圧されてとりあえず懐にしまっておくことにした。

「お前も即席って……何なんだよ、お前本当に」

「才能の差」

 百合まで即席で式神を作れたのは幽刃が綾瀬家の秘密を教えたからではない。幽刃の作業を間近で見て、完璧に吸収したからだ。幽刃が百合にほとんど勝てない理由は、教えてもないのに数回見れば本質を突いて自分のものにできる彼女の才能だった。そんな彼女にいちいち敵意を見せて突っかかっていく一門の姿勢が百合はあまり好きではなかった。もっと上手くやれないのか、というのが本音だ。

「じゃ、そろそろ帰るわ。ま、頑張れ」

「二度と来ないで」

 これ以上邪魔するのも悪いだろうし、そろそろこちらの仕事の時間も近づいてきた。幽刃は自分が空けた穴から飛び出して、そのまま帰っていった。





 二日後の夜。綾瀬家の屋敷の一室で、数人の祓い人が内容が外に漏れない程度の声で話し合っていた。彼らは言うなれば幹部のようなもので、それぞれが独自の強みを持つ優れた祓い人だ。だが、その中に綾瀬幽刃はいない。なぜなら、これはあくまで秘密裏の会合で、今回の議題は彼にがいると非常にまずい内容だったからだ。

「では、手順はこのような感じでよろしいですかな」

 この場で最も力を持つ男が全体を視界に入れて尋ねる。他の面々はそれに同意するように頭を振り、彼を見つめた。結論は出たようだ。

「では明日、手筈通りに……」

「ーー何しているんだ、お前たち」

 これで打ち切ろうとしたときにタイミング悪く間抜けな声が割り込んできた。

「いえ、別にたいしたことではありませぬ……」

 襖を開けてこちらをきょとんと見つめる次期当主様を見ていると少し腹が立つ。だが、ここで面倒事を起こす訳にもいかないので、会合の中心であるあの男が愛想笑いを浮かべながら静かに歩を進めていく。より穏やかな表情で、警戒されないように。

「ですが、そこまで気になるのならば、この家のために少々働いてもらいたい」

「……うくっ!?」

 十分近づいたところで、男はかっと幽刃を睨み付ける。すると、彼は短く唸った後に不自然に膝から崩れ落ちた。それから何秒経っても沈黙していて意識が消えたようだった。

「若、申し訳ないが貴殿にはあの女子と永遠に眠ってもらう」

 男が静かな呟きには幽刃を非難する意思が強かった。これから起こる惨劇の大元の罪はお前にあるのだというように。身内の動向すら知ろうとしなかった甘さにあるのだというように。ーーそして、それらの罪の責任は背負うべき者が背負うのだと言うように。





 翌日二十九日の夜。小石川の水戸藩の屋敷から出火した火災――後に言われる「水戸様火事」――が被害を広げていた頃、壬吹藩の屋敷は別の被害に遭っていた。

 突如、大量の「鬼」が一気に攻めこんできたのだ。その規模に押されて百合の結界もさすがに崩れてしまった。僅かな幸いは、百合の迅速な判断で珠姫を含む屋敷の人々が手早く避難したこと。珠姫には百合と幽刃が渡した式神があるので、大事に至ることはないはず。だが実際のところ、そうなるか否かは残って「鬼」を迎え撃つ百合に懸かっていた。

「はあっ、はあっ……」

 金棒についた「鬼」の残骸を振り落とし、百合は金棒を肩に担ぐ。先ほどの敵でちょうど百体目。さすがに一人で相手するにはあまりにきつく、疲労のせいでただ体を動かすのもしんどくなってきた。だが、まだ「鬼」は奥から湧いてくるかのように出てくる。正直、何らかの餌に誘われて意図的に呼び出されている気すらでてきた。

 しかし、ここで退くわけにはいかない。依頼を受けた以上、最後の最後まで依頼者に仇なす「鬼」を葬り、その身を守るのが役目。

 ふっと息を吐いて浮かべるのは標的を狙う狩人の顔。揺るぎない精神のもとにただただ獲物を叩き潰す意思が彼女を突き動かす。

 霊力を足に回しての跳躍から一気に金棒を振り下ろす。文字通り重みの増した一撃は目の前の巨大な蛙のような「鬼」の頭蓋を砕き、その仮初めの体を灰塵に変える。だが敵はまだ多数。ここで気を抜く訳にはいかない。

 それでも、不意に後ろに感じた独特の気配には反射的に振り向いてしまった。

「はあっ……なっ! なんであんたが!?」

 そこにいたのは幽刃だった。下を向いていて表情はよく見えないが、まっすぐにこちらに向かって来ているということは援護にでも来てくれたのだろうか。思えば幽刃は自分の危機を何だかんだで何度か救ってくれていた。そういうところがあるからこそ、他の面々とは違った接し方が出来ていた。

 とりあえず感謝の気持ちは閉まって、共同戦線を組もう。そのための軽い合図として「鬼」の方向を指差してみたが無反応少しむっとしたが、本人が目の前まで来たので直接言うことにする。

「とりあえず手伝っ……うっ」

 が、最後まで言葉を口にすることはできなかった。

 くぐもった声は突然腹に感じた激痛からのもの。視線を下ろせばそれが現実のことだと知らしめるように腹に刺さった一本の刀。その刀は今目の前にいる幽刃の式神が形を変えた姿で、傷つける対象の範囲は彼によって定められる。結局のところ、それは百合が幽刃に真剣で刺されたのとまったく同じこと。そう気づいた頃には百合の視界も霞みはじめ、赤く染まっていく自分の体がどこか他人事のようにすら思えてきた。

 意識は次第に遠くなり、すべてが曖昧に感じる。自己の存在も、魂と体を縛る何かも。

「なん…………ゆう……」

 言葉にできなかった疑問が、死を迎える最後に彼女を支配していた最も強い思念だった。

「ーーなんだよ、これ」

 綾瀬幽刃が目の前の状況を認識して最初に出た言葉がそれだった。綾瀬家の屋敷で幹部が内密に会議をしていたのをたまたま見つけ、問いただそうとしたところまでは覚えている。だが今、自分は先日一度だけ入った壬吹藩の屋敷で、篠崎百合をその手にかけていた。

 そこまでいってやっと気がついた。特殊な式神が多い綾瀬家の中には当然、催眠術などのように対象を操るものもいたということを。そして、次期当主である自分がそれにかけられたのだということを。

 すべて幹部が自分と百合に対してどのような感情を抱いているかということを見抜けず、野放しにしていた自分のせい。その手にかけようがかけまいが、篠崎百合を殺したのは自分なのだ。

「俺が殺した、のか」

 それでもそんな風に呟いてしまうのは頭で理解できていても、心が受け入れられないことだから。だが、実際に言葉にすると急に現実味を帯びていき、目の前の事実からの退路を完全に塞いだ。

「うあっ、ああっ……うああああっ!!」

 耐えられずに絶叫する。今まで見てきたすべてが自分の中で崩壊し、たった一つの執念だけが反比例して高まり、精錬されていく。

 百合の死にかたがこんなことでいいはずがない。自分達の生がこんなかたちで終わってしまっては死んでも死にきれない。――こんな終わりかたは認めない。

 その過程で起こる感情の爆発が不必要なものをすべて取り除き、枷も箍も破壊していく。彼を抑えるものも、彼を止めるものもここにはない。結果的に残るのはすべてに対する憎しみと拒絶の意志。

 静かに刀をすっと突き出す。唸るような声を出すと、それに同調するかのように刃が伸びては捻れ、辺りにいた「鬼」を一体ずつ突き刺して消滅させていく。無表情で「鬼」を消していくその姿は作業にすらなっておらず、先ほどまで百合が追いつめられていたのがまったくの嘘のように思えた。

 あらかた片づけたところで幽刃は外へ飛び出し、そのまま走り去っていった。

 翌日、綾瀬家の屋敷が何者かに襲撃された。幹部は全滅し、逃げられたのはまともな戦闘力のないものだけ。その弱さ故に、逆に襲撃者の標的にすらされなかったようだ。何であれ、この一件で綾瀬家は実力的に他の組織から遅れを取るようになり、急激に衰退していくこととなる。





 

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