其の壱:噂ノ話
何やかんやで前から半年かかって終わりを迎えます。
物書きとして、物語には責任を持ってきっちり終わらせる主義なので……一応は。
もし、あのとき綾瀬優梨の声が聞こえなかったら、篠崎勇刀は「彼」と同じようなことになっていたかもしれない。だが、優梨がそこまで手を回せたのは、「彼」と「彼女」の惨劇を知っていたからだ。過去の出来事と自分たちの特質より、何かしらの出来事から勇刀が「彼」以上の危険因子になりうるかもしれないと予測できたからこそ、寸前で勇刀の魂を引き上げる手筈を考えられた。優梨自身が、自分と「彼女」、勇刀と「彼」をそれぞれ根本的なものは同じだと認めていたから、あのときも自分を犠牲にしても断行できた。
しかし、仮に「彼女」が優梨と同じ立場だった場合、同じことはできなかった可能性が高い。それは「彼女」が優梨のように狡猾で若干陰湿な性格ではなかったから。どちらかというと大雑把で豪快な「彼女」では、優梨のようにそこまで予防線を張ることはなかっただろう。得意とする戦闘スタイルが正反対に近いのも、二人の性格の違いを表す一因になる。
つまるところ、篠崎勇刀と「彼」、綾瀬優梨と「彼女」は元となった根本的な性質は同じだとしても、それぞれまったく別の存在であるのだ。
今回の事件によってそれは証明されることとなる。
金棒についた灰を払って綾瀬優梨――正確には、その体を借りている「鬼」だが――は軽く溜め息をつく。雪のような白髪が汗で濡れて少し気持ち悪い。今さっき祓った「鬼」の、その元となった霊力はいつもどおり糧として吸収したが、それが無意味に思えるほどにしんどかった。
「これで何件目よ」
「今週十二件目」
「なにそれ、多すぎでしょ。やってられないわね」
相棒であり主人である本来の祓い人、篠崎幽人も無表情で答えてはいるが、実際のところ少し疲弊しているのが見てとれた。ここ一週間で祓った「鬼」はいずれも、矢口珠美が憑かれた「蜘蛛の鬼」や加賀美秋人が憑かれた「鏡の鬼」ほどの強さの鬼とばかり。それが十二体となれば、優梨の言葉もただの愚痴とは切り捨てられない。
最早、異常といってもよい状況だった。
「さて、帰りますか……ん?」
すべきことを終え人の姿に戻った直後、なんとなく何者かの気配を後ろを振り返るがそこには何もおらず、見慣れた地獄のような景色が広がっているだけ。少し変にも思ったが、実際に何も変なものは見当たらない以上、考えるのも時間の無駄。
「どうかしたか?」
「いいえ、気のせいみたい」
幽人に言うほどのことでもなかったので、気のせいということにしておいた。実際、今は気配も感じられなかったので言っても無駄だろう。正直、そんなことよりも早く休みたかった。幽人の方も同じような気持ちだったのか、「そうか」と短く答える。
もしこのときに彼女が本来の目的を忘れていなければ、その直感を信じられていたかもしれない。そして、あのようなことが起こる前に、もう方をつけることができたかもしれない。
「昨日で十九人目だって」
「はぁっ!?」
「ひぃっ!」
「あ……」
矢口珠美が握り拳大のお握りを咀嚼した直後に口にした、まったく脈絡のない言葉に、優梨は反射的にドスの効いた返しをしてしまった。肉体はうら若き乙女なのでこれはまずい。精神年齢に関しても年をとれば高くなるというわけでもないと考えているので、自分の肉体が死してから数百年経っていようとも関係ない。すぐにでもこの失態を取り返さなくてはならないのだ。
「で、一体何の話かしら。少し興味がありましてよ」
「どどどどうしたの、優梨! その手のパンに何か変なものでも入ってたの?」
「べ、別に何も入ってやしないわよ。今のは忘れて!」
純粋な優しさがときに何よりも鋭利な刃になることを初めて思い知った。珠美に悪気がない分、逆に対応に困る。
「で、何が十九人目だって?」
「え? ああ、行方不明者の話」
「あ、そのことね」
このまま話を続けてもどちらも墓穴を掘るだけになりそうなので、元の話題に軌道修正する。珠美もこちらの意図を分かってか、先ほどの脈絡のない話に捕捉してきた。
「やっぱりあの噂、本当なのかも」
眼鏡をくいっと上げて珠美は意味深な笑みを浮かべる。その背後から、整った顔立ちの青年が細い指を伸ばしてきていることに気づいていなかった。
「それって『世捨て人』のことか?」
「そうそう……ってどうぇえっげほっがはっ!! 秋人君?」
「どどどどうしたんだ? 大丈夫か!」
そのまま肩に触れた直後、珠美は動揺のあまり盛大にむせかえる。秋人は訳もわからず、彼女の背中を擦ることしかできなかった。
「げほっ、ごほっ、うっ……ぶぉえええっ!」
「珠美っ!」
「何してるの、もう……」
むせかえったことがスイッチになったのか、今日口にしたものを吐きだしてしまう。優梨以上に乙女としてあるまじきことになってしまった。もうどうあがいてもゲロインの称号は避けられない。
「とりあえず保健室行こうか。俺が連れていくよ。だから優梨、後始末は頼んだ」
「は? ちょっと待ちなさい!」
秋人に捲し立てるように言いきられ、優梨は半ば強引に吐瀉物の処理を任されてしまった。文句を言おうにもすでに二人の姿はなく、足元にはいつの間にか雑巾とバケツが置いてあった。
「え、本当にあたしがやるの?」
疑問として口にするも、無言というかたちで肯定された。隣の席でいつも寝ているやつが微妙に距離を取っているように見えて、頭蓋にひびを入れてでも叩き起こしてやろうかとわりと本気で思ってしまった。
「はぁ、仕方ない……わけでもないよね、これ絶対」
だが、このまま放置していても教室が汚いままなので、仕方なく吐瀉物の後始末を始める。隣のもじゃもじゃ頭の件は後で処理することにした。
どんがらがっしゃーん。
優梨が吐瀉物の処理を終えて保健室まで行くと、漫画のように大袈裟な音が聞こえた。十中八九何かが崩れたのだろう。二人は大丈夫なのかとドアを開けると、ベッドの上で秋人が珠美を押し倒していた。すぐ横に倒れている大きな棚が音の発生源らしかったが、そんなことがただの些事に思える。
「あ……ごめん」
三人揃って一瞬だけフリーズしたが、優梨はすぐに冷静さを取り戻して理解した。
こちらも伊達に数百年この世にいるわけではないのだ。二人の年齢的にもそういうことはあって当然なのだから、ここはあくまで落ち着いた反応をするのが最善。
「あら、ごめんなさい。じゃ、後はごゆっくり」
「ちょっと待って、優梨!」
「お前、何か盛大に勘違いしてるだろ!」
などと変な方向に考えて撤退しようとする優梨を二人は慌てて呼び止める。このまま誤解されたまま戻られたら厄介この上ない。自分たちはまだそこまでの関係を持っていないことを理解してもらう必要がある。……いや、そこまでは必要ないか。
「急に棚が崩れてきて、ベッドで安静にしていた珠美を庇おうとしただけだ。幸い直撃することはなかったけどな」
「フーン、ソウダッタノ。カンチガイシテゴメンナサイネー」
「絶対信じてないよね」
目は口ほどにものを言うというが、目線だけで自分たちの努力を馬鹿らしく思わせるほどだとは秋人も珠美も思わなかった。もう弁解する気も失せてきた。
「冗談よ、冗談。あたしはあんたたちのことよくわかってるから。……で、調子はどうなの? 避妊は?」
「だいぶ落ち着いたから安心して。あと、最後の一言ものすごく余計だから」
冷静にツッコめるほどには体調も回復したようなので、もう大丈夫だろう。体調面だけでなく内容的にもどうかというものだったが、彼女も年相応ということのようだ。
「でも、保健室の先生には念のため次の授業は休めって言われたろ」
「うん……そうね。今日くらいはいいよね」
珠美が秋人の忠告を素直に受け取ったのはあくまでそれが妥当だと思ったから。断じて、秋人が言ったからという理由ではない、
「じゃ、俺もさぼるか」
「えっ、なんで? 秋人君は普通に受けにいけばいいよ。その……心配されるほどじゃないし」
「おいおい……」
単純に迷惑をかけたくなかったから、珠美は秋人の言葉を語尾が消えそうになりながらも拒む。だが、秋人としてはそれが気に入らなかった。いつも迷惑をかけまいと一歩下がる彼女の姿勢を愛らしく思う一方で、それで彼女のためになるのかとも思っていたのだ。
「そう言われても心配なものは心配なんだ。別に俺が勝手にサボるだけだから、珠美が気にすることはないだろ。それに、一回休んだくらいで単位落とすほど馬鹿でもないし、荒れてもないから」
「それはそうだけど……」
言っていることは分かるが、なぜかどうしても認めたくなかった。というより、このまま流されてしまった場合の展開が少し怖かった。
とりあえず、今はこの状況を上手い具合に切り抜けて精神の安定を図りたい。そう思う一方で、このまま秋人の意見に流されてもいいとも思えてきた。ジレンマに囚われた思考回路は暴走し始めてオーバーヒート寸前に。だが、寸でのところでなんとか一つの解を出す。
「じゃ、じゃあ優梨もサボって!」
「えっ、あたし!? なんで」
優梨は思わぬ飛び火にただただ困惑の表情を浮かべる。今のうちにフェードアウトしようとドアにかけていた手が中途半端に空中を漂う。このままラブコメなりベッドインなり好きにやってくれればいいと思っていたのに、これではこちらの見えない気遣いが無かったことになるではないか。
「優梨も学年三十位以内に入るくらい賢かったよね。じゃあ一回くらい休んでもたいして痛くもないでしょ。それとも何。ピンチの親友を見捨てて成績をせこせこ稼ぐような小さい人間だったの?」
「いや、チャンスでしょ」
「同時にピンチなの!」
珍しく声を荒げるほどに珠美は必死だった。好きな人にあんな情けなくて汚い姿を見られて、常に平常心を保つのはかなり厳しい。正直言って優梨が来るまでの間、秋人とまともに目も合わせられなかった。一緒にいられる時間が愛おしいとは思っていたが、同時に強い羞恥心に駆られていたのだ。
また二人きりになったらまともな精神状態を保てないのは目に見えている。それだけは避けたかった。
「ああもうわかったわかった。サボればいいんでしょ。なんかごめんね、秋人」
「ああ……別にいいんだが」
結局折れたのは優梨だった。このまま意地を張っていても意味はなさそうで、正直面倒臭くなったのだ。一応秋人には謝っておいたものの、表情の端々から残念がる気持ちが漏れているのが分かった。若干気まずくて胃が痛い。
「……ヘタレ」
「う、うるしゃいっ!」
ぼそっと言ったことにも珠美は過剰に反応して勝手に噛んだ。ここまで明らかに動揺していると、自分が居ても居なくてもあまり変わりないのでは、と思えてくる。とはいっても、もう言ってしまったので遅いが。
これから四十五分、彼女がまともな精神状態を保っていられるのか心配になってきた。ここはなんらかの助け舟を出したほうが良さそうだ。
「『世捨て人』だっけ。さっき聞きそびれたけど結局どういう噂なの?」
どうせなら、先ほどの話を聞いて、その間に落ち着いてもらおう。もちろん話自体にも職業柄興味はある。もしかしたら、目的に近づく鍵になるかもと淡い期待も抱いていた。
「そういやそんな話してたんだっけ。なら俺が話してやろうではないか」
気を取り直そうとしてか、秋人が無駄に張り切っている。「あ~、あ゛~」と喉の調子を整えているところを見ると、肌寒くなってきた十一月にはあまりに季節外れなことをしようとしているようだ。
「これは近所に住むある男性から聞いた話なんですけどね。夜中に急に友達から電話が掛かってきたんですよ。こんな時間になんだろなぁ、と思ったけども無視するのもあれだったから出てみると、なんだか友達の声が妙に震えてる。それでもなんとか何があったかは聞き取れた」
少しぼそぼそとしつつも聞き取りやすい特徴的な口調は稲川○二でも意識してるのだろう。だが、優梨から見ると壊滅的に似ていなかった。
「その友達、バイトから自転車で帰るところだったんだが、その道中でなんだか寒気を感じたそうです。なんだか嫌な感じだなぁ、重ね着はしてきたんだけどなぁ、なんて思っていたら道路の端に誰かが座ってるんだ。暗くてよくは見えないんだが、背格好は男みたいだけど黒髪が妙に長い。服はぼろぼろでホームレスというより世捨て人っていう感じ。できれば関わりたくないと素通りしようとしたんだが、その世捨て人が徐に顔を上げたから目が合ってしまったんだ。まるで穴が空いているみたいに真っ黒な目と。その瞬間、一気に全身に寒気がぶわああって来たんだ。本能的にここから逃げなきゃいけないと思った。必死に足とハンドルを使って、なんとかもと来た方向に向き直る。そこでペダルに足をかけたところで、後ろにいるはずのあの世捨て人とまた目が合った。いつの間にか自転車の前籠に乗っていたんだ。一瞬固まったが、すぐに声にならない悲鳴を上げて振り落とそうとした。相手のことなんかまったく考えられる状態じゃなかった。だけど不思議なことにまったく落ちる気配がない。訳が分からなく半狂乱になってきたとき、胸の辺りに何か変な感触があった。おそるおそる視線を下げたら、刀みたいなのが刺さってた。不思議と痛みはなかったけど、死ぬんだって悟ったね。すぐに意識がすーっと無くなっていったよ。それからどれだけ経ったかな。ふっと目が覚めた。ありがたいことに死んでなかったみたいだ。世捨て人もいなくて、乗り手のいない自転車が地面に倒れてるだけだった。あっ、なんだ夢だったのか。でもなんでこんなところで寝てたんだなんて思いながら立ち上がるとはらりと何かが落ちた。なんだろなぁって拾ってみたら、ぼろぼろの黒布とやたら長い黒髪だったんだ。ーー二つともあの世捨て人のそれとそっくりだったんだ」
「うん、長いし、そういうのもういいから。で、その噂と事件、何の関係があんの?」
どこが投げやりに優梨が言ったのは、我慢していたがもう限界だという気持ちが隠せていなかったから。気のすむまで話させてやったのだから、そろそろ要点をまとめて欲しい。仮にこちらのあしらいかたが雑なために微妙な表情を浮かべたとしても、こちらの知ったことではない。正直、こちらの精神の方が参りそうなのだ。
「あ、ああ……そんなに似ていなかったか……くそっ」
「わ、私はそこそこ似てたと思うけどな」
「だろ。さすが珠美、分かる奴には分かるんだよ」
「いいから質問に答えろ!」
このまま茶番を始められては堪ったものではない。珠美もそこまでペースを取り戻したのなら、もう優梨がいる必要はないのではと思えてくる。
「ああ、そうだな。この話にはまだ続きがあるんだよ。その友達ーーいや、さっきの話の奴なーーそいつが次の日は様子がおかしかったらしいんだ。なんか変な独り言を言いはじめるわ、些細なことで急にキレるわで、別人みたいだったんだってよ。こいつ本当に大丈夫かな、とか思っていたら案の定というかなんというか、その日の夜から行方が分からなくなったんだ。確かそいつが十二人目の行方不明者だったな。後から聞いたら、他の奴も行方不明になる前日に世捨て人みたいな奴に会ったらしい。当然、十二人目の奴と同じような症状も見られた。――これはなんか関係を疑う方が自然だろ」
「そっちの方が重要じゃない!!」
「ごもっとも」
あれだけだらだらと話した前半は一体何だったのか。まったく必要ないということはないが、大半が文字通り無駄話だったように思える。
要するに、行方不明者は前日に「世捨て人」とやらに会っていて、その影響でか若干精神異常をきたしていたということ。つまり、「世捨て人」が今回の事件の鍵だという可能性が高いことで間違いないだろう。
結局、秋人の話は非常に無駄の多かったようだ。
「その話がすべて真実かどうかは別としても、夜に外を出歩くのは危険そうね。珠美、気をつけなさい」
「言われなくてもそれくらいは分かるよ。過敏になりすぎ」
「ん……そうよね」
確かに、「鏡の鬼」との戦闘以降、優梨は少し珠美に対して過保護になっていた。それはあの日に珠美に特殊な霊力が宿っていることが判明したからで、珠美自身も承知済みだった。それでもそう言われるのは、無意識のうちに言動に出ているからだろうか。優梨自身もよく分からない。
そのときふと、生前にもこんな感じのやり取りがあったことを思い出した。確か命を落とす数日前だった気がする。そのとき気にかけていたのは誰だったか。一度「鬼」と化して一つの怨念に囚われたためか、生前の記憶がところどころ抜け落ちている。そう実感するとなんだか少し寂しくなった。
「優梨、どうかした?」
「えっ、いや……何でもない。そう、何でもない」
だが、今はそのことはいいだろう。そう自己完結して優梨は一人頷く。珠美と秋人は訳も分からず微妙な表情を浮かべていた。