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地蔵盆  作者: 皇 凪沙
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2

 盛りを過ぎた蝉の声が、物悲しく通りに響いている。

 その小さな遺骸があがったのは、送り火の煙もようやく絶えた秋の始めの暑い日だった。

朝晩はめっきり涼しくなったとはいえ、日中は厳しい残暑が続いている。そんな暑さにたまりかねたものか。言いつけを聞かず、店の小僧を無理に従えて、禁じられた川遊びに出たのであろう。

 川岸に打ち上げられたのは、近所では大店で通る呉服屋丸松の一粒種と、まだ幼い店の小僧だった。

 小僧は、幼いながら主人を救いあげようとしたのだろう。主の手を握りしめ、抱きかかえるようにして死んでいた。


人だかりのする岸辺を、えんは対岸からそっと見下ろした。さほど大きな川ではないが、野次馬達が集まっているのは川の向こう岸ばかりで、刑場のあるこちら側へは、人々はけして近寄らない。

 幼い子供らも、あちら側に流れ着いたのが、まだしもの幸せであっただろう。そうでなければ、今頃はまだ誰にも見つけてもらえずにいたかもしれない。

 野次馬の輪は、次第に大きくなっていく。

 やがて知らせる者があったのだろう。打ち上げられた子どもの母と見える、大店のおかみらしいまだ若いおんなが駆けつけてきた。大きくなった人だかりを割って転がるように岸辺を駈け降りたおんなが、泣きながら子に縋るらしいのに背を向けて、えんはそっと川岸を離れた。



 子等が気にかかり、えんは日暮れを待って閻魔堂へ急いだ。夕闇の中、閻魔堂にはほんのりと明かりが灯っている。えんはほっとして、堂内を覗いた。

 閻魔王、具生神、獄卒鬼。

 壇荼幢に業の秤。

 浄玻璃鏡が、明かりを映す――

「えんか、良いところへ来た。入れ――」

 閻魔王の声に、えんは堂の中へと入る。

 そこには、珍しく渋面を作った赤青の獄卒鬼がいた。

「えん、賽の河原へ行ってはくれぬか。」

 えんが聞くよりも早く、閻魔王が言った。子等はすでに賽の河原に居るらしい。

「どうしたんだい。」

 えんが問うと、獄卒鬼等が困った様子で顔を顰めた。

「何分、強情な子等で――」

「なかなかに、我等の手には負えませぬ。」

 鬼達の様子に、えんは少しばかり可笑しくなる。

「きかぬ子を脅かすのは、あんた達の得手だろうに。」

 しっかりおしよ。と、そう云うと、具生神が助け船を出した。

「獄卒鬼等は、すでに先程子等のひとりを打ち据えまして御座います。これで素直に石を積んでおれば良いのですが、なかなかそうはいかぬ様子。再び獄卒鬼等が賽の河原へまいれば、今度は本格的に子等を責めねばなりません。」

 と、殊更に眉を顰めて見せる。

 赤青の獄卒鬼等はと見れば、彼等も相変わらずの渋面で顔を見合わせる。本当に子等をこれ以上打ち据えたくはないのだろう。これでなかなか情が深いのだ。

「また、相手が子供とはいえ、脅すばかりでは能がありますまい。道理を説いてやらねば、強情な子は頑なになるばかりに御座います。」

「道理を説くなら、お閻魔さまがいらっしゃるじゃないか。悪餓鬼どもを叱るには、うってつけだろう。」

 えんがそう云って閻魔王を見上げると、具生神が微笑む。

「脅した後には、叱るより穏やかに説いて聞かすが常道に御座いましょう。とはいえ閻魔王様にせよ私にせよ、子等には恐ろしいばかり。どうにも役者が足りませぬ。」

 閻魔王が笑ってえんを見下ろす。

「――そういう理由だ、行ってくれ。」

 閻魔王の声が響いた――


 響いた声が消えぬ内に、えんは見慣れぬ場所に立っていた。

 ごうごうと瀬音の響く、物寂しい場所である。見渡すと三方はごつごつとした岩肌の切り立った崖に囲まれ、一方は向こう岸が霞んで見えるほどの急流が行く手を阻んでいる。

足元には角の取れきらない角張った川原石がごろごろとして、薄い草履を履いた足に痛かった。

――乱暴だねえ。

 そう呟いて、えんはその物寂しい河原を見回す。崖に囲まれた、そう広くはない窪地の岩陰に、二つの小さい人影を認め、えんはその切り取られたような窪地へと降りていく。足元で、河原の石がからりと鳴った。

 えんがその岩陰に近付くと、二人の子供は顔を上げた。

「誰だい?」

 ひとりの子供が、気の強そうな顔をえんに向ける。子供はいかにも大店の跡取りらしく、贅沢そうな着物を着ていた。

 その傍では、同じぐらいの歳の子、心配げな顔を向けている。その子は、お店の丁稚と見えて、お仕着せらしい簡素な前掛け姿であった。

「あたしかい? あたしは、えんっていうのさ。

 えんは、答える。

「何しに来たんだい?」

 子供が、不審な顔で尋ねる。

「ちょっとばかり、頼まれてね。そう心配するんじゃないよ。別に取って食いやしないさ。」

 笑ってえんは、子等に名を訊ねた。

――あたしは市太郎。

――私は一松と申します。

 子等が答える。

「そうか、いい名だ。」

 そう言ってえんは、彼らの手元を覗き込む。そこには僅かばかり、石が積まれていた。

「どうやら鬼どもの言うことを、素直に聞いちゃいないようだね。」

 一松が慌てたように下を向く。市太郎は、えんを睨みつけた。

「そんなに睨むんじゃないよ。あたしは別に鬼どもの回し者じゃあないんだ、積みたくないならそれでもいいさ。だいたいあんたたち、なんだって石を積むのか知ってるのかい。」

 えんが問うと、二人はそろって首を振る。

「じゃあ、石なんぞ積んだって仕方が無い。」

 えんはそう言って笑う。

「鬼どもが言ってただろう。あんたたちの親が悲しまないように、石を積んで供養しろ、とさ。だけどあんたたちがここで石を積んだからって、すぐに親の悲しみが消えるわけじゃない。」

 二人は頷く。

「あんたたちのような子供等はね、石を積んで自分の供養をするのさ。石の塔を作るのは、大した功徳になるそうだ。生きてるうちに作れば、作った者はもちろんのこと、手を合わせる者、一目見た者にさえその功徳があると云うぐらいにね。あんたたちは生きてるうちに、功徳を積めなかった。だから、ここで石の塔を積み、いいところへゆけるように、仏様に祈るのさ。あんたたちが、いいところへ生まれ変われば、親達も悲しまなくていいだろう。」

――だから石を積むのさ。

えんの話を、二人はじっと聞いている。

「解ったかい? もちろん、ちゃんと心を込めて石を積まなきゃ、功徳にはならないけどね。どうだい、石の積み方を教えてやろうか。」

 二人が頷く。えんは河原の石を取り上げる。

「あんたたちは、今までに人を困らせたことがあるだろう?悪さをしたり、言うことを聞かなかったり。まずはそういうことを思い出して、ごめんなさいを言いながら石を積む。ひとつのごめんなさいにひとつずつ。口に出さなくったっていいから、思いつく限り積んでいく。」

 えんは手にした石を、幾つか積んで見せる。

「思いつく限りごめんなさいを言ったら、次はありがとうだ。親切にしてくれた人、可愛がってくれた人、もしかすると心を鬼にしてあんたたちを叱ってくれた人もいるかもしれない。そんな人たちのことを思い出して、これも同じように思いつく限りありがとうを言いながら、石を積む。」

 えんはまた、幾つかの石を重ねて積んだ。

「そして、それが終わったら、あんたたちがごめんなさいを言った人やありがとうを言った人達が、悲しまないようにと祈って石を積む。悲しまずに、成仏できるように祈ってて下さい、と願って石を積むのさ。」

 えんはそう言って、さらに幾つか石を積んで見せる。

「たくさん、たくさん、悲しんでる人には、ひとりにひとつじゃ足りないかもしれない。そう思ったら、幾つでも、何度でも祈って積めばいい――」

 えんはそう云って、たくさんの石を積む。やがて石は、小さな小山のようになった。

「そうして願いを込めて、たくさん石を積んだら、最後にお地蔵様に祈る。みんなが悲しまないようにして下さい、いいところへ連れて行って下さい、ってね。」

 そう云ってえんは、最後にひとつ小山の上に石を載せた。

「分かったかい?」

 手元から目を上げ、子等を見ると、二人の顔は仔細ありげに曇っていた。

「どうしたんだい。それでも、石を積むのは嫌かい。」

 えんの問いに曖昧に首を振り、二人は揃って下を向く。

「二人とも、なにか気にかかることがあるんだね。」

――話してごらん。

 と、そう言うと、二人はぽつぽつと、自分の思いを語りだした。

――ああそういうことか。

 えんは頷く。

 二人とも、石を積むわけが分かっても、素直に石を積む気になれない。それは、父母の思いが分からぬからなのだ。

 そんな心配はいらないと一笑に付すのは簡単だが、二人の真剣な顔を見ると、えんはそんな気にはなれなかった。

「そうだねえ。」

 えんは考える。彼らの憂いを晴らす最も簡単な方法は、親たちを彼らの元へと呼び寄せる事だ。そうして「何を馬鹿なことを」と、たったひと言云ってもらえばいい。他人がいくら言ったところで彼らの心配は消えはしないだろう。しかし、生者を連れて来るのは――

 しばし考えて、えんは決断する。この際仕方が無いだろう。

「分かったよ。あんたたちの親を、連れてきてやる。じっくり聞いて見たらいい。」

 二人の顔に、喜びと不安の色が浮かぶ。

「心配ないさ、ただし――」

――これっきりだよ。

そう言って、えんは立ち上がる。

――しばらく、待っておいで。

 と、そう言って、えんは河原の奥に向かって歩き出す。

 来た辺りまで戻れば、元の閻魔堂へ戻れるだろう。戻って閻魔王に掛け合わねばならない。

 どうせ、こちらの様子はお見通しだろうが――

 呟くと、目の前で声が響く。

「えん、また面倒なことを。」

 気がつけば、そこは元の閻魔堂で、目の前には渋面の閻魔王がいた。


「と、いうわけさ。」

 えんは閻魔王にそう言った。どうせもともと恐しい閻魔王の顔だ、少しばかり凄みが増したところで、えんは少しも動じない。

「生きている者を、むやみに連れて来てはいけないと言ったではないか。」

 閻魔王が渋い顔でえんを見下ろす。

「仕方がありますまい。そもそも、えんをむりにあそこへやったは、閻魔王に御座います。多少の無理はお聞きいれなさいまし。」

 具生神が笑いながら、そう言った。

「仕方があるまい。えん、彼らの親に伝えよ。ただし――」

――許すのは、二親のどちらかひとり。

 えんが頷く。

 その役目は、母親がいいだろう――えんはそう思った。




 寂しげなひぐらしの声が、夕暮れ時の空に響いている。

 あの朝から、すでに五日が過ぎていた。弔いも終わり、弔問に訪れる者も減って、お店はすっかり静かになった。その淋しさに耐えられず、女はそっと家を出た。

 辻では其処此処で、子供等がはしゃぐ声がする。盆をすぎ、そろそろ地蔵盆の用意が始まっているのだろう。はしゃぐ子等の声が、殊更に哀しく耳に響いた。

 足は自ずと川縁へ向く。あの日、我が子の命を奪い去り、その小さな冷たい亡骸だけを残して行った川。その川を見つめ、女は橋のたもとにかがみ込む。金色に光る夕日が水面を染め、女の顔にもきらきらと光が揺れる。

――このまま、川の流れに身をゆだねたなら。

 女はぼんやりと考える。

 川は、優しげに夕暮れの光を映している。このまま、流れて行くことができたなら、市太郎の元へたどり着くのかもしれない――

 川までは、僅か数歩。流れる川を見つめながら、女は立ち上がった。


「――なにしていなさるんです。」

 立ち上がりかけた女の後ろから、えんは声をかけた。

 女は危うげな足取りで川縁を踏んでいる。

「死ぬつもりなら、やめといた方がいい。」

――後生が悪いよ。

 そう言うと、女は曖昧に足元に目を落した。

「構わないって顔だね。けど、あんたのために云うんじゃないーー親の悲しみは子の成仏の障りになるよ。」

 女が顔を上げる。

「坊主の説法を聴いただろう。親を悲しませる子は、いつまで経っても成仏できやしないのさ。親を死ぬほど悲しませたとなれば、賽の河原の鬼どももさぞや意地悪く虐めることだろうね――」

 女が、えんを睨む。

「そう睨むんじゃないよ、本当のことさ。あんたの子は、市太郎は確かに賽の河原にいるよ。」

――鬼どもに責められてるのも本当さ。

 女の顔に不安げな表情が浮かぶ。

「市太郎に、会いたいかい――?」

 女の目が、縋るようにえんに向けられる。

 えんは黙って頷いた。

「そうかい。なら――」

――刑場脇の閻魔堂においで。

 えんは女にそう告げた。

「――閻魔堂。」

「そうさ、あたしは閻魔さまの御使いでね。きかぬ子の親を呼んでこいと云われたのさ。」

 そう云って、えんは少し笑った。

「そうだね、三日後地蔵盆の夜だ。賽の河原を覗くにはお誂えむきだろう? 誰にも知られないように出ておいで。」

 女が頷く。

――ああそれから。

 えんは言う。

「あんた一人じゃ不公平だ。市太郎と一緒に流された丁稚――一松といったね。あの子の母親も、一緒においで。」

 女は、頷いた。

「じゃあ、三日後に。」

 えんはそう念を押して、女に背を向けた。

 今は半信半疑でも、女は必ずやって来る。

 ちらりと後を振り返ると、足早に去っていく女の後姿が見えた。




 地蔵盆の夜。辻では化粧を直した石地蔵が、刀傷のような細い月の明かりにに白い顔をほのかに光らせている。

 閻魔堂は闇に沈んで、辺りを照らすのは僅かな月明かりばかりだった。

 やがて、月が真上にかかる頃、橋から続く小道の上に二つの人影が見えた。

 二つの人影が近づくと、暗闇の閻魔堂にほんのりとした明かりが灯る。

 闇の中に明かりを見つけ、二つの人影が足を早めた。

「来たね。」

 云ってえんは二人を迎える。

 市太郎の母は、この間のぼんやりとした気配が消えて、しっかりとした目でえんを見ている。隣に立つ粗末ななりの女は、一松の母であろう。

「行こうか、夜明けには戻らなきゃいけないからね。」

 そう言って、えんは閻魔堂の扉に手を掛けた。僅かに開いた隙間から光が漏れる。

 堂の中には豪奢な衣を翻す閻魔王。

 黒光りする鉄札を手にした具生神。

 赤青の獄卒鬼の腰には黒鉄の鞭。

 壇荼憧の二つの首が目を剥き、業の秤が不気味に軋む。

 浄玻璃鏡が蝋燭の灯りを映して、煌めく--

「えん、入るがいい。」

 閻魔王の声が響いた。

 えんは扉を開け、女たちを伴って堂の中に入った。

 木造りのはずの像が、生気を持って動き出すのを、女たちは見ていた。何故かさほどに驚きもない。すでにここは、現の内ではないのだろう。ならば何が起きたところで、何も不思議なことはない――


 さて――

 そう、閻魔王が云った。

「さて、本来ならばここは生者の来るところではない――」

 閻魔王は具生神に目をやる。

 具生神が畏まり、傍らの紙束を取り上げる。

「鬼どもより言上が御座いまして、此の度賽の河原に来た子等が、何とも強情にて、叱りつけても、打ち据えても、石を積まぬとのこと。言いつけに背き、親に先立ち、親を悲しませておきながら、供養の石も積まぬとあらば、子供といえども地獄へ堕とさねばなりませぬ。」

 女たちが、青ざめる。

「惨い事とはいえ、止むを得ぬ。しかし聞けば、石を積まぬには何やら仔細のある様子。よってそなたらを呼んだのだ。」

――幼い者を地獄へ堕とすは、寝覚めが悪いわ。

 閻魔王が云った。

「そういうわけでね。」

 えんは云う。

「どうやら、二人ともあんたがたに聞きたいことがあるようだ。ともかく話を聞いてやっておくれ。それで駄目なら――」

――地獄行きさ。




 ごう――と風の音がした。

 その後ろには、水を湛えた大川の瀬音が止まず鳴り響いている。

 えんと二人の母親とは、ごろごろとした石の転がる、寂しい河原に立っていた。

――ここが、賽の河原さ。

 そう云ってえんは、小さく切取られたような窪地を指さす。

 そこには、二つの小さな人影があった。


 三人が降りて行くと、市太郎と一松が顔を上げた。

「待ちくたびれたかい。約束通り連れて来たよ。」

 えんが云う。

 待ちかねた母であるだろうに、二人は困ったような顔をして立ち竦んでいる。

――市太郎。

――和吉。

 子等よりも先に母が涙を流し、立ち竦む子等に取りすがった。



――市太郎。

 母に泣かれて、市太郎は困り果てる。弁解の仕様もない。詫びたところで取り返しはつかない。

「ごめんよ。」

 市太郎はそう云って俯いた。涙が溢れて顔を上げていられなかった。

「ごめんよ、お店を継ぐことが出来なくて。」

 市太郎は呟く。

――そのために、大事に育ててくれたのに、言い付けを守らなくて、ごめん。大人になれずに死んで、ごめん。何の役にも立てずに死んで、ごめんよ――

「馬鹿だねえ――」

 市太郎の母は云う。

「言い付けを守らないなら守らないでいい。店のことなんかどうでもいい。役になんか立たなくったって、そんなことはどうでもいいんだよ。」

 母はそう言って、市太郎の顔を正面から見つめる。

「けど――死んじゃあ、駄目じゃないか。」

 母の目から、涙が溢れて顔を濡らし、市太郎の足に降りかかる。

――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 市太郎は母の胸に顔を埋めた。涙が後から後から溢れた。

 母の手が、じっと市太郎を抱いていた――



――和吉。

 母の手が和吉の手をつかむ。

 その瞬間にお店の丁稚の一松は、和吉へと戻る。

「ごめんよ――」

 と、先にそう言ったのは、母だった。

「―――。」

 言うべき言葉を失って和吉は、ただ項垂れて立ち尽くす。

「すまなかったね、辛い思いをさせて、寂しい思いをさせて――でもね、お陰でうちは一家揃って首を括らないで済んだんだ。」

――行きたくないのは分かっていたのに、どうしてやることもできなかった。せめて丈夫で暮らしていてくれればと、そう思っていたのに――

 母は嗚咽とともに言葉をしぼりだす。

「死んじまってごめんよ。」

 しゃがみ込んだまま自分を抱いて泣く母に、和吉はそう言った。

 母はただ、泣いている。

 和吉はそっと母の首に縋りつき、耳元で囁く。

「――みんな、元気にしているかい。」

 母が肯く。

 和吉の目から涙がこぼれた。

「なら――良かった。」

 和吉の涙がぽつぽつと、母の肩に落ちる。

 自分の涙が母の肩を濡らすのを、和吉はじっと見つめていた――



 えんは、そっと灰色の空を見上げる。

 その色からは、時の流れは窺えなかったが、すでに夜明けが近いはずである。

 二組の母子に目を遣り、えんは小さく溜息をついた。

――損な役だねえ。

 えんは呟く。しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。生者と死者は、本来交わってはならないものだ。それがたとえ、親子であったとしても――

 もうひとつ溜息をついて、えんは、重い腰を上げる。

「名残は尽きないだろうが、もうすぐ夜が明ける。」

――お開きだよ。

 えんは、できるだけ素っ気なくそう云った。

 えんの声に、四人が顔を上げる。

 その顔は意外にさっぱりとしていた。

「一松、石を積もうか。」

 不意に、市太郎が言う。

 はい。と、和吉が一松に戻って答えた。

「鬼にも崩せないようなのだぞ。」

 一松が肯く。

「どんなに遠くからでも、仏様がすぐに見つけられるような大きいのを。」

 二人は母たちに笑いかける。

「来てくれて、ありがとう。」

「元気で。」

 それだけ言うと、二人は涙を堪えて母に背を向けた。

――子等の方が、世の道理を分かっている。

 えんは思う。

「子供等に、笑われるよ。」

 未練気に子等を見つめる女達に、えんは静かにそう云った。




 気がつくと、三人は閻魔堂の前に立っていた。

 すでに閻魔堂の灯りは落ち、堂内は闇に沈んでいる。

「子供等は」

 不安気な呟きを、えんは笑う。

「大きな塔を積むんだろう、地獄へ何ぞ堕ちやしないさ。親より先に死ぬ子供は、お地蔵様の預かり子だと言うからね――」

――お地蔵さまが見つけてくれるよ。

 そう云って、えんは閻魔堂の方へ目を遣る。

「知ってるかい。経の本では閻魔さまは、お地蔵さまの化身だそうだーー」

 二人の母が、暗闇に沈んだ閻魔堂に静かに手を合わせる。

 その姿を見てえんはふと考える。

 賽の河原の話など、三文芝居のようなものだ。鬼が責め、地蔵が救う、先の見えた物語。親が子を、子が親を、思うからこそ成る茶番。

 そう判っていて、親達は、子等の為にと涙を堪えて生きて行くのだろう。

――子を亡くすのは、悲しいねえ。

 えんは、ぽつりと呟いた。

 暗闇の閻魔堂では、木造りの閻魔王が薄っすらと埃を被って立っている。

 子等の元には、そろそろ地蔵菩薩が現れる頃だろう。

 見上げれば、夜はすでに明けかけて青みがかった空に月が白く浮かんでいる。

 二人の母は、閻魔堂にもう一度手を合わせ、寄り添うように帰って行った。立場は違えど、同じく息子をなくした母どうし、通じるものもあるのだろう。

 二人の背を見送って、えんはもう一度空を見上げる。

 明けかけた空には、もう朝日が上りかけていた――

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