1日目
町に降りた俺は彼女を捜す。
近くにいるはずだ。
街ゆく人は皆肩に名前を背負っている。
…お、いた。
彼女――浅葉唯はすぐに見つかった。
目立って仕方ない。
彼女はとんでもない美人だった。
天使だろうが何だろうが、俺は男だ。
相手は美人なほうがいい。
初めが肝心だ。
何と声をかけようか。
しばらく様子を窺っていると、どうやら彼女は人を待っているようだ。
しきりに時計を気にしている。
もしかしたらその待ち人が現れれば何か話しかけるきっかけをつかめるかもしれない。
俺もその待ち人を待つことにした。
彼女から数十メートル離れた壁に彼女と同じように寄りかかる。
彼女が待っているのは誰なのだろうか。
いろいろ思案を巡らせていると、どうやら待ち人の登場のようだ。
大体予想はしていたが、やってきたのは背の高い男。
「ごめん、教授に残されてて。」
そう言いながら謝っているのが聞こえた。
天使の能力をさして有り難いとは思わないが、
強いて言うならこのよく聞こえる耳とよく見える目は重宝している。
「結構待った?」
この科白は俺も聞いたことがある。
確か「今来たところ」が常套な返しだった気が。
「うん。結構待った。だからもうあんた嫌い。」
ちょっと待て。
想像していた返答と大分異なる。
男も戸惑っているようだ。
そりゃそうだ。
彼女の言い方、表情は冗談と受け流せないくらいに冷酷だった。
「…え、嫌いって、まじで?」
「まじまじ。だからさよなら。」
そう言って颯爽と歩き出す彼女。
残された男は追いかけることもできないほど呆然としていた。
別れの現場を目撃してしまった。人とはこんなにも簡単に好き合った相手を切り捨てるものだったか。
なんだか難しい女な気がする。
もしかしたら俺はとんでもなく厄介な仕事を引き受けてしまったのかもしれない。
とりあえず俺は彼女を追ってみることにした。彼女は歩きながら後ろを振り向きもしない。
未練など欠片もないのだろう。
そして、さすが人目を引く美人なだけある。
すれ違う男達の殆どが彼女を振り返っていた。
美人すぎるせいか、ナンパも全くない。
ナンパされてくれれば彼女を助けるために俺が登場できたというのに。
こうなったら俺がナンパしてやろうじゃないか。
そうと決めたらもっと整った顔になった方がいいな。
俺は目立たない路地に入って俺が想像できる限り一番の、いわゆるイケメンの顔にした。
簡単だ、念じながら頬を軽く叩けば良い。
路地から出ると、今度は彼女と同じように、女達からの視線を浴びた。
どうだ、かっこいいだろう。
生きている間にこんな気分味わったことがない。
さあ、彼女をナンパしに行こう。
何百メートルか歩いたところで、前方に彼女の後ろ姿が見えた。
落ち着いた茶色の髪が軽くウェーブしている。
もう少し距離を縮めてから声をかけよう。
「ねえねえ」
歩き出すと声をかけられた。
横を見ると俺の視線の20センチくらい下にやけに目の周りが黒い女の顔が2つあった。
大体身長は160センチくらいだろうか。
「君超かっこいいね。モデルかなんかやってるの?」
「いや。」
何の用だ、彼女を見失ってしまったじゃないか!!
「一緒にお茶でもしない?
普通逆だけど、うちら奢るからさ。」
なんてことだ。
まさか俺の方がナンパされるとは。
生きていた時にはこんなこと一度もなかったぞ。
「いや、急いでるんだ。」
早く彼女を見つけなければいけないんだよ!
「いいじゃんいいじゃーん。
お兄さんかっこいいから話してみたいのー」
そんな甘ったるい声を出されても…。
無視して通り過ぎようとするが、腕をつかまれてしまった。
もう本当に勘弁してくれ。
「悪い。人を探しているんだ。」
「じゃあうちらも手伝うからさー。ね、一緒に」
「あ、いたいた。早く行こうよ。探したんだよ。」
そう言って俺の手を掴んで女達から助けてくれたのは、なんと彼女だった。
思い描いていた出会い方と真逆になってしまったが、まあよしとしよう。
「あんた馬鹿じゃないの。ナンパくらいさっさと追い払いなさいよ。どうせされ慣れてるんでしょ、その顔なら。」
「申し訳ない。助かった。でも、なんで助けてくれたんだ?」
「別に。目障りだったから。」
彼女は俺の大分前方を歩いていたはずだ。なのに、どうして俺が声を掛けられているのに気付いたのだろう。
俺がそう聞くと、彼女は怪訝な顔をした。
「なんで私が前を歩いてたって知ってるのよ。」
しまった。つけていたことがバレてしまう。まあそれはそれでよしとするか。
「すれ違った時にあんまり美人だったから声をかけるタイミングを測っていたんだ。」
「あっそ。私は別れた彼氏に指輪を返そうと思って引き返してただけよ。」
「ああ、別れてたな。」
しまった。口がすべった。
彼女の眉間の皺が増える。
「そこから見てたの?悪趣味。」
「見ようと思って見たわけじゃない。たまたま視界に入ったんだ。それより、あんな簡単に振ってよかったのか?」
「でもその前から後つけてたんじゃないの?まあいいや。
よかったの。別に好きじゃなかったし。」
とんでもない女だ。
美人とは得てしてこういうものなのか?
そんなことはないと信じたい。「じゃあね。ナンパされててももう助けないから自分でなんとかするんだよ。」
そう言って彼女は歩き出す。
駄目だ、もっとしっかり関わりを持たなければ。
俺は咄嗟に腕を掴んでしまった。
「何?」
また眉間に皺がよる。
「助けてくれたお礼に何か奢る。」
我ながら在り来たりな科白過ぎたな。
「なに、今度はあんたがナンパ?」
「言っただろう、声をかけるタイミングを測っていたと。」
「そういえばそうだったらしいね。私が美人だからだっけ。」
「そうだ。綺麗な顔だからだ。」
「…顔だけなわけね。」
自分で自分を美人と言えたり、顔だけだと言えるとは。
それが許されるほどの顔だとわかっているのだろう。
「そうだな。顔だけだ。」
「あんた、変だね。普通そんなに顔だけだって言わないものよ。」
「なぜ?当たり前じゃないか。まだ内面などわからない。だからとりあえず顔が素敵だと褒めているんだろう。」
「だから、変な人。でも正直でいいわ。」
彼女の眉間の皺が幾分和らいだ。
「それを言うならお前も変だろう。初対面でいきなりこんなかっこいい俺をあんた呼ばわりしたんだ。」
自分で自分をかっこいいと言ったのは初めてだ。
なんだか気恥ずかしい。
「それを言うなら初対面でこんなに美人な私をお前呼ばわりしたのも変なんじゃない?」
得意気な笑みを浮かべ、彼女が言う。
「そうかもな。じゃあ似た者同士、お茶でも。」
「そうね。奢られてあげてもいいわ。」
よかった、なんとか彼女と少しの知り合いになれた。
確かお金は……
ズボンのポケットを探ると財布があった。
いつも仕事の時は有り余る程の金が支給される。
生きてる間よりもしかしたら俺は恵まれてるかもしれない。
「じゃあ、そこのカフェなんかどう?」
近くにあったこ洒落た雰囲気のカフェを指差す。
「いやよ。あんなコーヒー一杯に何百円も出すなんて馬鹿らしいもの。」
出すのは俺なんだが。
「ああいうお洒落なお店に誘っとけばいいと思ってる男ばっかり。つまらないわ。」
なんだかひどい言われようだ。
お洒落な店なのだからいいだろう。
「私居酒屋がいいわ。どこかおすすめのお店に連れてって。」
「…まだ昼間だぞ。」
「いいの。失恋のやけ酒よ。」
全く、失恋させた側のくせに。
それはそうと、困った。
俺はこの辺りでの仕事は初めてだ。
おすすめの店などない。
「この辺りのことはよくわからない。仕事でたまたま来ただけだからな。」
そう言うと彼女の目が丸くなった。
「仕事してたの?何の仕事?モデルとか?」
やはり今俺はモデルにもなれるくらいかっこいいのか。
「いや、人を幸せにする仕事だ。」
「馬鹿じゃないの。面倒だから当てようとはしないわ。」
当てるも何も、それが俺の仕事の全てだ。
それにしても、この女は本当に幸せでないのだろうか。
「ま、いいわ。私の好きなお店に連れてってあげる。」
そう言うと彼女は俺に見向きもせずすたすたと歩き出す。
俺も彼女について行かなければ。
それにしても歩くのが速い。
なぜだろう、一歩が大きいのか?何をそんなに急い
「着いたわ。」
俺が一人思案を巡らせているうちに、彼女がおすすめだという居酒屋「隠岐」に着いた。
変わった名前だ。
「こんにちはー。」
彼女は珍しく明るい声で言い、中に入る。
俺もそれに続いた。
「あら、いらっしゃい。昼間からお酒?…あら、今日は一人じゃないのね。」
どうやら彼女は結構な常連のようだ。
「こんにちは。」
軽く会釈しながらその初老の女性に挨拶をする。
「あらー随分とハンサムで。唯ちゃんもいい男手に入れたわねー。」
微笑みながら言うと彼女は苦笑し、首を振った。
「槙野さん、それは違うわ。ただ彼を助けたお礼に奢ってもらうだけ。」
槙野と呼ばれたその女性はそうなの、と言いながら俺達を席に案内しようと先頭に立った。
「じゃ、ごゆっくり。」
掘りこたつになっている席に俺達を案内し、槙野さんはそう言って出ていった。
「よく来るのか?」
「まあ。」
「一人で?」
「そうよ。」
「あのさっき別れたようなかっこいい男達とは来ないのか?」
「当たり前じゃない。ワインとコーヒーをいかにかっこよく飲めるかしか考えてない様な男と来て何が楽しいのよ。」
そう言いながら彼女はメニューを広げる。
「俺がそういう類いの男だったらどうする?」
「もしそうだったらさっきのパンダみたいな女共に付いてってるわ。」
メニューから顔もあげずに言う。
なかなか辛辣な言葉ばかりだ。
「あたし、ビールと唐揚げ。あとはチキンとアボカドのサラダ。ポテトも食べたいな。あとやっぱ定番の枝豆。それから…」
「ちょっと待った。念のため言っておくと現在時刻は16時だ。そんなに食べて夕飯はどうするんだ?」
すると彼女は初めてメニューから顔をあげ、怪訝な顔をした。
「そんなに早く帰るつもりなの?夕飯と兼用に決まってるじゃない。」
一体何時間いるつもりだ。
まあいい。
どうせ今回の仕事のターゲットなのだから一緒に過ごして損はないだろう。
「わかった。好きなものを頼め。」
「当たり前よ。槙野さーん」
彼女は障子を開け、あの女性を呼んだ。
そして一通り注文を済ませるとほっと一息ついてお冷やを一口飲んだ。
「あれ、あなたは?何も頼まないの?」
「いや、俺はいい。どうせお前は食べきれないだろうからな。」
「そうかもね。でも、待って。私一人で飲むの?」
俺は生きていた頃からあまり酒が得意でなかった。
極力飲みたくはない。
「酒は苦手なんだ。」
すると彼女はポカーンとした顔で俺を見、そして笑い出した。
「そんなこと言う男初めて。みんな強いフリばかりするから。いいわ、正直で。」
「さっきからあんまり男にいい印象を持ってないみたいだが、何かあったのか?」
「何もないわ。」
「じゃあ逆に好きになった男はいるのか?」
俺がそう言うと、グラスを揺らして氷をカラカラ鳴らしていた手が止まった。
でもまたすぐに動き出す。
「いない。」
寂しい女だ。
これほど美人なのだから、好きになりさえすれば両思いは必至だろうに。
「そうか。」
会話が止まった。
考えてみれば、俺は彼女が浅葉唯という名前であることも、年齢が21であることも、両親が離婚していることも知っているが
彼女は俺について何も知らないのだ。
そう思うと、ここでこうして二人向かい合わせに座っているのがいかに奇妙なことであるのかがよくわかる。
「名前は?」
彼女がグラスの氷を見つめたまま聞く。
名前か。
考えていなかった。
「好きに呼べ。」
すると彼女はちらっとこっちを見て、グラスを置いた。
「どうしてここの名前が『隠岐』っていうのか不思議じゃない?」
唐突だが確かにそれは疑問だ。
「ああ。」
短く反応すると彼女はいたずらっ子のように微笑んで話し始めた。
「鎌倉時代、隠岐がどんな扱いだったか知ってる?」
知らない。
「流罪で流されるところだったのよ。後醍醐天皇とかが流されたわ。」
そうなのか。
だが、それがなぜ店の名前に?
「だからね、ここは周りとは違うの。罪を犯し、流罪になった人が来るところなの。」
よくわからない。
「でも、そんな島でも少しは娯楽がないと狂ってしまうわ。だから、このお店は絶望にうちひしがれた人の唯一の救いの娯楽のお店でもあるの。わかった?」
全くわからない。
「それは、あの槙野さんが言ったのか?」
すると彼女は肩を竦めて言う。
「ううん。私の持論よ。」
なんだ。では本来の意味とは異なるのか。
「ただ字面と音が気に入っただけですよ。」
そう言いながら槙野さんが料理を持ってきた。
「唯ちゃん、そんな風に考えてたのね。深いわー。」
「なんだか言葉にはしづらいんですけどね。説明できないけど、だからここに来ると落ち着くんです。」
彼女の言うことは何だかやけに難しい。
表現が抽象的なのだ。
「お料理、冷めないうちにどうぞ。」
槙野さんがそう言って出ていく。
「だから、あなたを治って呼ぶわ。」
「どういう脈絡でそうなるんだ。」
「隠岐に一緒に来たからよ。ま、私後醍醐天皇嫌いだけど。後醍醐天皇の本名、尊治っていうのよ。だから、治。」
嫌いな人物の名前で俺を呼ぶのか。
「まあそれでいい。俺はなんと呼べばいい?」
「唯ちゃん以外なら何でもいいわ。そう呼ばれると虫酸が走るの。」
「なぜだ?まあいい。上はなんていう?」
浅葉だと知っているが、姓名を知っていたらいくらなんでも怪しすぎる。
「浅葉よ。」
おしぼりで手を拭き、割りばしを割りながら言う。
「なら浅葉と呼ぶ。」
唐揚げを1つ摘まみ、頷く。
「やっぱり美味しそう。頂きます。」
頷いたのが俺の言葉になのか、美味しそうな唐揚げになのかわからないが俺が彼女を浅葉と呼ぶことには了解したのだろう。
「じゃあ、治。あなた、実際何の仕事なの?」
そんなに気になる話題なのだろうか。
「だから、人を幸せにする仕事だと言っただろう。」
「人を幸せにすることが最終目標の仕事はいっぱいあるわ。そこまでの手段で職種が決まってくるものでしょう?あなたは?」
「そうだな…最終目標がすぐ近くにあるんだ。手段は選ばない。相手を幸せにすることだけが全ての仕事だ。」
こうしてみると天使の仕事とは上手く説明できないものだ。
「よくわからないわ。それで?今回はどうやってその相手を幸せにするの?」
「それはこれから考えるんだ。」
ふーん、と曖昧に頷いてビールに手を伸ばす。
「ぬるくなっちゃった。」
そう呟きぐいっと一口飲んだ。
「冬でもビールは旨いのか?」
「まだ冬じゃないわ。秋の終わりくらいよ。秋はなんでも美味しい季節なのよ。」
秋に美味しいのは栗や柿や葡萄であって、その中にビールは含まれていなかった気がする。
また会話が途切れる。
元々俺は話すのが不得手だ。
「でもね、私後醍醐天皇の根性は好きよ。」
いきなり逆接から始まったこの言葉は、以前自分が後醍醐天皇を嫌いだと言ったところから来るのだろう。
「1回流されて、また戻ってきて、幕府を倒しちゃうんだもの。」
「歴史が好きなのか?」
「一応史学を専攻してるわ。」
「道理で。歴史に詳しいなと思っていたんだ。」
「高校までの知識で補える話しかしていないわ。」
「そうなのか。過去を学ぶのが好きなのか?」
「学ぶ過去は好き。振り返る過去は嫌い。」
そう言ってジョッキを置く。
中はいつの間にか空になっていた。
「槙野さーん。おかわり。」
そう呼ぶとすぐに槙野さんはやって来て、ビンを2本置いて言った。
「もうビンから飲んだら?この大酒のみ。」
そして笑いながら出ていった。
「でも私すぐ酔うのよね。そしたらよろしく。」
そう言ってビンを開け、ジョッキに注ぎ一気飲みした。
それから彼女は殆ど話さず、ひたすらビールと料理を往復した。
俺はそんな彼女を眺めながら時々料理に手を伸ばす。
何も会話はないのになぜか心地よい時間だった。
ふと外を見ると、すっかり暗闇になっていた。
時計を確認すると20時。
驚いた。
もうそんなに経ったのか。
「おい、まだ帰らないのか。」
外を見たまま彼女に声をかける。しかし返事がない。
向かいの彼女に目をやると
机に突っ伏して眠っていた。
全くなんて奴だ。
初対面の男の前でこんなに無防備に眠りこけるとは。
「おい、起きろ。もう帰った方がいいんじゃないのか?」
そう言って体を軽く揺すってみるが、全く起きる気配がない。
どうしようもない女だ。
このまま帰ってしまおうか。
いや、駄目だ。
今のままでは彼女を幸せにするのにはデータが少なすぎる。
もっと関わりを深く持たなければ。
俺は障子を開け、槙野さんと呼ばれる女性を捜す。
彼女は客のいない席に座り、一人煙草をふかしていた。
「あの、」
すると驚いたように彼女が振り返る。
「あら、どうかしました?」
「浅葉が眠ったまま起きないんです。彼女の家御存知ですか?」
彼女を家まで送って行けば今後を関わりを持てるだろう。
世の男性陣からすればこれはまたとないチャンスなのだろうが、
俺は生憎色恋沙汰に興味はない。
「知ってるわよ、ちょっと待っててくださる?」
そう言って裏から葉書を持ってきてそれを俺に渡す。
それは彼女からの暑中見舞いだった。
裏には彼女の住所が達筆な字で書かれている。
「住所だけメモして返してね。」
そう言われても紙もペンも持っていない。
まあいい。もう暗記してしまった。
「大丈夫です。覚えました。」
「もう覚えたの?その顔で頭もよくて恵まれてるわね。」
そう言いながら手を差し出してきたのでそこに葉書を乗せる。
生きてる時に恵まれていたのは頭だけだったが。
そんなことを言っては話がややこしくなるので勿論俺は黙っていた。
「ありがとうございます。じゃあ、ごちそうさまでした。先にお金払いたいんですが、いくらでしょう?」
彼女に値段を聞いて、それをレジで支払った。
浅葉がいる部屋に戻ると彼女は案の定まだ眠っていた。
力仕事はあまり得意でないが仕方ない。
少しでも起きていてくれればおぶることが出来たが、レム睡眠中なんじゃないかと思うくらい完全に眠っている。
俺は彼女の荷物のハンドバックを腕にかけ、彼女をお姫様抱っこした。
予め開けておいた障子から出ると、槙野さんが目を丸くして俺を見た。
「それで帰るの?…それにしても美男美女だと絵になるわね。」
「片方がぐでんぐでんに酔っ払っててもですか?」
そう言うと彼女はそれもそうね、と薄く笑った。
「とりあえずタクシーでも呼んで帰ります。ごちそうさまでした。」
両手が塞がっている俺を見て槙野さんが戸を開けてくれた。
ありがとうございます、と小さく言って外に出る。
するといきなり通行人の視線を浴びた。
美男美女だからか、と思ったがお姫様抱っこのせいだとわかり一人苦笑する。
両手が塞がっているのにどうやってタクシーを呼ぼうか、と思案しているといいタイミングでタクシーが俺の目の前で赤信号で止まった。
すると更に運のいいことに、運転手がこちらに気付き、なんとかタクシーに乗ることができた。
「なんだい兄ちゃん、彼女具合でも悪いのか?」
「いえ、酔って眠っているだけです。」
そしてさっき暗記した住所を伝え、そこまでお願いします、と言った。
彼女が住んでいるのはマンションらしいので部屋番号を言わなければ大丈夫だろう。
彼女を横に座らせると自分で上半身を支えられないらしく、座っている俺の足に頭が落ちてきた。
不覚にも、少し心臓が反応してしまった。
だがすぐに思い直す。
普通、逆なんじゃないか?
彼女のことは放っておいて外を眺めながらタクシーの軽い震動に身を任せる。
初日にしてはなかなか順調だ。
どこぞの安いメロドラマのようにこのまま恋愛に発展することはないが、なかなか深い関わりを持てたと自画自賛する。
しかし、本当に彼女は幸せでないのだろうか?
容姿端麗、博学多才、まあ性格に少々難ありのようだが
何しろそれを相殺してまだ有り余る程の美貌だ。
少なくとも自らの能力や容姿に悲観する材料は一つとして持ち合わせていないはずだ。
まあそこのところはこれから聞き出していけばいいだろう。
「着きましたよ。」
運転手がそう言ってこちらを振り返る。
俺が彼女の頭を起こしてみると小さく反応した。
「ありがとうございました。」
運転手にお礼を言い、お金を払う。
「ほら、とりあえず降りろ。」
そう言って彼女を思いっきり揺らすと幾らか目が覚めたようで、ゆらゆらしながら車から降りた。
「もう自力で歩けるか?」
俺が聞くと彼女は首を軽く振って俺にもたれかかってきた。
仕方ない。
多少は意識があるようだ、もうお姫様抱っこはやめよう。
「ほら、乗れ。」
もたれかかっていた彼女を一旦引き離し、屈んで背中を差し出す。
彼女も理解したのか、おぶさってきた。
彼女の部屋番号はわかっているのでその階までエレベーターに乗る。
「鍵を貸せ。」
部屋の前まで来てそう言うと彼女の指はバックを指し示した。
漁れ、と言うのか?
一瞬戸惑ったが結局バックを開ける。
漁る必要もないほど簡単に鍵は見付かった。
鍵を差し込み、ドアを開ける。
中はモノトーンで統一された綺麗な部屋だった。
黒いフレームに白い布団のベッドに彼女を落とす。
靴を脱がすのを忘れていたことに気付き、しゃがんでふらふらの彼女の足から白いパンプスをとった。
さて、俺は帰るとするか。
立ち上がろうとすると彼女に服の裾を引かれた。
「待って。」
ありがちな展開だが、まさか本当にあるとは。
「なんだ。」
「…ここに居て。」
ありがちな展開だ。
まさか俺のこと好きになったんじゃないだろうな。
それは一番困る。
「なんだ、俺に惚れたのか?」
そう言うと彼女はベッドから半身をガバッと起こして言った。
「何言ってんの?私が好きになった人は一人だけよ。今までも、これからも。」
そしてまたベッドに倒れ込んだ。
さっき、今まで好きになった人はいないと言っていなかったか?
なんだ、いたんじゃないか。
でもその男と付き合っている形跡は見えない。
その男について聞き出せば、彼女が不幸だという理由がわかるだろうか。
「その男とはどうなったんだ。」
「…いなくなっちゃった。何にもなくなっちゃった。」
彼女の言葉は不明瞭で聞き取るのが難い。
「いなくなったとは…死んだのか?」
「わからない。死んだのかも。…違う、いなくなっちゃったの。」
全くわからない。
明日しっかり意識がはっきりしてから聞くとしよう。
とりあえず俺はここにいていいようだ。
俺じゃなかったら生き地獄だぞ。
わかっているのか、この女。
俺は食事の必要もないし、睡眠の必要もない。
しかし別段することもないので今日は眠るとしよう。
俺はベッドの側に座り、ベッドに寄りかかった。
いつの間にか降っていた雨の音を聞きながら俺は幾日かぶりの眠りについた。