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結婚したいあなたと、結婚したかった私

掲載日:2026/03/17

お読みいただきありがとうございます。

「なあ、これどう? 今よりリビング広くなるならさ、このダイニングセットでもいけるよな?」


 意気揚々と家具のカタログを見ながらこちらを振り返る、サラサラとした黒髪の男性。

 その目元には十年前にはなかった小皺が一本刻まれるようになったものの、クリッとした二重に薄い唇はあの頃とあまり変わっていない。


 彼は返事のない私に痺れを切らして、腰掛けていた椅子から立ち上がる。

 キッチンで食後のコーヒーを淹れていた私は、思わずその動きを止めて彼の方を見た。


「瑠夏、なんで返事してくんないの?」


 むっと唇を突き出して拗ねたような顔でこちらを見つめてくる。

 その表情も仕草も、あの頃と同じだ。


「別に……コーヒー淹れててあんまり聞いてなかっただけ。はい、どーぞ」


 淹れたてで湯気の立つマグカップを、カウンター越しに手渡した。

 洋介……平井洋介は、そのカップを受け取るとその場で口をつける。


「俺やっぱ瑠夏の淹れたコーヒーが一番好きだわ」


 何の気なしにそんなことを呟きながら、彼は元いたリビングのソファの方へと踵を返していった。


「コーヒーなんて誰が淹れても同じでしょ」


 ポツリと呟いた言葉は洋介の耳には届いていない。

 素直に褒め言葉を嬉しいと思えなくなったのは、いつ頃からだっただろうか。

 前は彼の言葉一つで一喜一憂して、友人たちに呆れられていたというのに。


「瑠夏、週末これ見に行こう。今なら少し安くしてくれるみたいだし」


 彼の隣に座った私の目の前に、カタログが差し出された。


「ちょっと早くない……? まだ新しい家も本決まりじゃないのに」


「それは瑠夏が決めないからだろ。俺はこの前見たところ以上の物件はないと思ってる。でも瑠夏的には何かが引っかかるって言うなら……」


「ううん。別に、引っかかることなんて、何も……」


 先月内見したマンションは、確かに洋介の言う通り非の打ちどころのない物件であった。

 互いの職場からの距離も近く、駅からも徒歩圏内。

 近所にはスーパーや病院なども揃っており、生活する上での不便もなさそうだ。

 そして何より築浅で、今住んでいるアパートよりも一部屋増えることもあり、かなり広くもなるだろう。

 これならば考えるまでもなく、その場で決めてきてもおかしくないはずの条件であったことは確かだ。


 しかし私はその答えを保留にした。

 当時隣にいた洋介はそんな私の答えに不服そうな表情を見せながらも、その意見を受け入れてくれたのだ。


 それからかれこれ一か月近くが経ち、そろそろ保留の期限もお終いだろう。

 あわよくばこの間に先客が現れないだろうか、なんてずるい期待をしていたことは否めない。

 しかし結局その部屋は今も空室のままだ。

 

「あれ以上のとこはなかなかないと思うよ? さすがに結婚するってなったらここは手狭すぎるだろ」


 続けて洋介が口にした言葉に、私の思考がずんと重くなる。

 『結婚』という言葉が今の私には負担になっていた。


 ──プロポーズすらされてないのに、いつから結婚する話になったんだろう。


 洋介と付き合って早くも十年が経つだろうか。

 大学の同級生であった彼とは偶然講義で隣の席になったことから仲良くなり、自然と付き合うようになっていた。

 そしてそれから私たちの仲は順調に育まれていく。


 大きな喧嘩をすることもほとんどなく、彼と一緒にいると本当に楽しかった。

 大学を卒業して、それぞれ就職し社会人となった私たち。

 互いに慣れない環境で悪戦苦闘しつつも、変わらぬ関係を続けてきた。


 しかし社会人になって数年経ち、二十五歳を過ぎた頃だろうか。

 この頃には付き合って五年を迎えた私たちだが、相変わらず仕事帰りに食事に行ったり土日で泊りがけの旅行をしたりと、学生時代となんら変わりのない付き合い方をしていた。

 そんな中で少しずつ周りに結婚話が持ち上がり始め、洋介との未来を強く意識するようになり始めたのもこの頃だったと思う。


 彼以外との将来など想像もつかなかったし、考えたくもなかった。

 それほど私の中で洋介の存在は大きく、なくてはならないものだったのだ。

 しかし当時の洋介にとって、まだ結婚というものはそれほど身近なものではなかったのだろう。



『工藤真衣って覚えてる? ほら大学で同期だった』


『あー覚えてる。瑠夏と同じサークルだったよな』


『結婚するんだって。式の招待状が届いてた』


 当時一人暮らしをしていた私の家に洋介が遊びに来た時に、さりげなく友人の結婚話を持ち出した。

 タイミング良く結婚式の招待状が届いていたのは本当の話である。

 これを機に少しでも彼が結婚を意識してくれたら……当時の私はそんなことを期待していた。

 はっきりとその思いを彼に伝えていればよかったのだと今ならわかるが、あの時の私にはまだその勇気はなかったのだ。


『へえ。二十五で結婚なんて、随分早いな?』


『……そうかな? 真衣も確か今の相手とは五年くらい付き合ってるし、そろそろそういう話が出てもおかしくないんじゃない?』


 洋介が持っていたスマホから目を離すことはない。


『俺にはまだ考えらんないな。結婚なんて。瑠夏もそうだろ? やっと仕事に慣れてきた時だし』


『あ……うん、そうだね……』


 ──洋介は、まだ結婚は考えてないんだ。


 何も今すぐでなくとも、二人で結婚に向けて動き出せたら……そんな風に考えていた私の期待は打ち砕かれることになった。


 当時の洋介は仕事に友人関係に、これまでで一番充実していたといっても過言ではない。

 仕事にも慣れ始めて少しずつ貯金もできるようになり、自由に使えるお金も増えた。

 当時の彼にとって結婚は、今の自由で楽しい時間を縛り付ける厄介なものであったのだろう。


 そんな彼の気持ちもわからないでもない。

 確かに二十五歳の男性が結婚するというのは、世間的にも早い方に分類されるだろう。

 この時の私はそう思うことで、自らの中の葛藤を抑え込んでいたのかもしれない。


 それからさらに三年の月日が経ち、私たちは二十八歳になっていた。

 さすがに私の周りでは結婚の話題が増え始め、いわゆる結婚ラッシュというものがやってきていたのもこの頃である。

 相変わらず洋介とはよく言えば落ち着いた……変わり映えのない関係を保ち続けており、それなりに満ち足りた日々を送ってはいたと思う。


 だが、彼の口から結婚の言葉が語られることはなかった。


 そんなに結婚したいのなら、自分から洋介に言えばいいじゃないか。

 親しい友人からはそんなことを言われたこともある。

 だがどうしても自分の口から結婚をせがむような真似はできなかった。


 しょうもない女としてのプライドがあったことに加えて、彼の口から拒絶されてしまうのが怖かったからだ。

 これほど長年共に過ごしてきたのだ。

 洋介という存在はもはや私の一部であり、彼なしではどうやって生活するのかもわからなくなっていた。

 この波風立つことのない平穏な関係に、自らヒビを入れることになるかもしれないと考えると怖くなり、勇気が出なくなってしまっていたのだ。


 しかしそうは言っても、私もいい歳になりつつあり。

 子どもを望むのならばいい加減にそろそろ結婚を視野に入れなければならない。

 以前洋介と将来の話をした際に、確か彼は「子どもは二人欲しい」と話していたことを覚えている。

 それならばなおさらのこと、このままズルズルと関係を続けるのはお互いにとってもよくないのだ。

 覚悟を決めた私は、洋介に正面から向かい合った。


『洋介は、結婚とか考えてる?』


 忘れもしない、年の瀬が近づき街がクリスマス一色となっていたあの頃。

 同棲していたアパートのソファに寝転びながらスマホでゲームをしていた洋介の隣に座ると、私は彼の顔を覗き込むようにしてそう尋ねたのだ。

 しかし返ってきた答えは、私が望むものではなかった。


『何? またその話? どうしたんだよ瑠夏』


『え……』


『周りが結婚ラッシュだから焦るのはわかるけどさ、俺らには俺らなりのタイミングがあるだろ。結婚しなきゃ別れるわけでもないんだし、そんなに慌てるなよ』


『そんな、だって私たちもう二十八だよ? 子どももほしいって……前に洋介だって言ってたじゃん』


 最後の方は声が震えてしまったことを覚えている。


『まだ二十八だし……もう何年かしてからでも変わらないって。ようやく給料も上がってきて、仕事も回せるようになってきたんだよ。どっちにしたってまだ子どもは早いって』


 一度もこちらには目を向けぬまま、淡々とそんなことを言われてしまった。

 私の中で何かが音を立てて壊れ、洋介への期待がなくなった瞬間でもあった。


 思い返せばその時に別れを決意していればよかったのだと思う。

 だが長年の情と、僅かに残された期待が私を洋介の元に縛りつけた。

 それから二年が経つ今も、こうして彼と暮らしているのはそういうわけだ。


 この二年の間に、私の中から結婚への憧れなど綺麗さっぱりとなくなってしまった。

 あれから仕事に全力で向き合い、新年度からは海外赴任の多い部署への異動が決まっている。

 実はこの件をまだ洋介には話しておらず、なかなか話すタイミングが掴めずに二か月ほどが経ってしまっていた。


 以前から憧れのあった海外赴任は、結婚して子どもが生まれることを考えると難しいだろうと諦めていたのだ。

 もちろんそうなっていたならば、それはそれで幸せだったはず。

 だが結果的に未だに私は独身で、生まれるかもわからない未来の子どものことを考えて選択肢を狭めるのは愚かな過ちだだと気づいた。


 洋介には異動を告げるタイミングで、これからのことを話し合えばいい。

 そんな風に考えていたのだが、ここへきて事態が急転する。


 突然洋介が結婚したいと言うようになったのだ。

 いや、思い返せば一年ほど前からその気配は垣間見えていたのかもしれない。

 だが私はそれに気づかぬふりをしてここまできた。

 彼の中でどんな心境の変化が起きたのかはわからないが、今更言われても困るというのが正直な気持ちで。


 一方の洋介はそんな私の態度に気づいているのかいないのか、もう結婚することは決定事項のように話を進めてくる。

 冒頭の新居の話もそうだろう。

 部屋の間取りから始まり中に置く家具まで何もかも、彼は結婚生活を前提として考えているのだ。

 だが私は違う。

 やがては海外で生活する可能性も出てきた今、結婚という二文字は現実的ではなかった。


「瑠夏、瑠夏! な、聞いてる?」


 まただ。最近暇さえあればすぐにこんなことばかり考えてしまう。

 洋介に肩を揺さぶられ、ハッと意識を取り戻した。


「あ、ごめん。何?」


「最近どうしたんだよ。なんかぼーっとしてさ」


「なんでもない。仕事で疲れてるのかも」


「ふーん」


 そんな私の様子に洋介は納得していないながらも、さらに言葉を続けた。


「なあ……明日マンション契約しに行こう」


「あ、明日?」


「もういい加減早く決めないと取られるって。昼飯がてら帰りに指輪も見に行こう」


「え……ゆび、わ……?」


「結婚するなら指輪買わなきゃだろ?」


 何言ってんだよ、とでも言いたげな顔で首を傾げられる。

 だがそれはこちらの台詞だ。


「いや、ちょっと待って。私いつ洋介と結婚することになったの? そんな話一度も……」


 頭の中が真っ白になり、思考が停止して上手い言葉が出てこない。

 私は彼からプロポーズを受けた覚えはなく、もちろん結婚の伺いを承諾した覚えもないのだ。


「いや、何言ってんだよ。俺らずっとそのつもりで付き合ってきただろ?」


「私……私は……」


 洋介の言葉に、「そうだよ」と肯定の返事をすることができなかった。

 これがもう答えなのかもしれない。

 黙り込んでしまった私に、彼は苛立ちを露わにする。


「何? 他に好きなやつでもできた?」


「なっそんなわけないでしょ! 失礼なこと言わないでくれる!?」


「じゃあなんなんだよ!」


 互いにヒートアップしてしまい、ここがアパートの一室であるということを忘れてどんどん声が大きくなる。

 だが異動の話をするのは今しかない、そう思った。

 この機を逃してなあなあな関係のまま、新しい部署へ飛び込むことができるはずがないのだ。


「……私、海外事業部に異動になるの」


「は!? 海外!?」


「四月から異動するの。もう正式に承諾したから本決まり」


 突然の報告に、洋介は瞳を揺らして戸惑っているようだ。

 それもそのはずだろう。

 これまで私は、海外出張のある部署には何があっても異動しないと宣言していたのだから。


 洋介と離れがたく、自分の思い描いていた人生設計から外れてしまうのが怖かった。

 そしてそんな私の宣言を、彼はまるで当たり前のように受け止めていたことを思い出す。

 私は彼から離れることはできない、そう安心しきっていたのだろうか?


「どういうことだよ。これまで海外出張がある部署には絶対行かないって言ってただろ!? 話が違うじゃん」


「洋介と結婚して、子どもを産んで、幸せになるつもりだった。だから海外に行く気もなかったし、このまま日本でできる仕事をこなすつもりだった」


「なら何で今さらっ……」


「気が変わったから」


 ぽつりとつぶやいた私の言葉に、洋介の方がびくりと震える。

 長年生活を共にしてきた相手に対して、あまりにそっけなく冷たい物言いだっただろうか。

 先ほどまでの情事の熱っぽさが嘘のように消え去り、部屋の空気は恐ろしいほどに冷え切ったものへと変化していた。


「結婚したいって思わなくなった。別に洋介が嫌いになったとか、別れたいとか、そういうのじゃないよ? でも……もうしばらく結婚はいいかな」


「結婚したいってあんなに言ってたのは瑠夏の方だろ!?」


「うん、だからさ……なんていうか。もう熱が冷めちゃったの。結婚への熱が」


「意味わかんないんだけど。そんな自分勝手なこと……」


 洋介の発した「自分勝手」という言葉に、私の何かがぷつりと切れた。

 私がどれだけ我慢して、惨めな思いをしてきたか。

 私の彼への思いに付け入る形で、甘える形で、洋介はこれまで散々好き勝手してきたではないか。


 きっと独身の自由を謳歌し尽くして、周囲の友人たちも皆結婚し、自分自身もようやく身を固めたくなったのだろう。

 だがそれは彼のペースで、私のペースではない。

 自分勝手なのは洋介の方だ。


「それ本気で言ってる? 私のこと自分勝手って、本気でそう思ってんの?」


 自分でも驚くほどに冷たい低い声が出た。

 その声に洋介は一瞬怯んだ様子を見せながらも、応戦するかのように私を挑発する。


「ああ、思ってるよ。こんだけ長く付き合って、今さら結婚したくない? だったらもっと早く別れてればよかっただろ!」


 そうか。洋介は結婚できないなら別れろと言っているのか。


「そう……洋介の気持ちはそうなんだね」


 洋介の仕事は基本的に在宅も可能で、出社せずとも業務をこなすことができる。

 私が海外出張の際は彼が遊びにきてくれて……なんて甘い夢を、ほんの少しだけ抱いていたのは事実だ。


 互いの元を行ったり来たりしているうちに、再び部署が異動になって帰国するかもしれない。

 新しい部署は入れ替わりが激しいため、きっとどんなに長くてもいられるのは数年だろう。

 

 しかし洋介の中では、すぐに結婚できない相手と共に過ごす時間は無駄なものであると考えているようだ。

 それではかつての私は、ひたすらに無駄な時間を過ごしてきたということになる。


「別れよう」


 無意識のうちに、決別の言葉が口からこぼれ落ちていた。

 彼のことを嫌いになったわけではないし、むしろ好きだった。


 浮気など決定的な何かがあったわけでもない。

 だが先ほどの洋介の台詞は、私に彼との別れを決意させるには十分なものであったのかもしれない。


「え、瑠夏? お前何言って……」


 あっさりと別れの言葉を告げた私に対し、狼狽した様子の洋介。

 その姿は今の私にはひどく滑稽なものに見えた。


「私と過ごす時間は無駄なんでしょ? 結婚できないなら別れたらよかったって、そういうことだよね」


「勝手に話をすり替えるなっ……」


「すり替えてなんかない。言わせてもらうけど、じゃあ私も洋介と過ごしたこの十年間、本当に無駄な時間だった」


「は……それどういう……」


 洋介の整った顔が酷く歪む。

 その顔を見て僅かに胸が痛んだが、これまで彼から受けてきた仕打ちを思い出してその迷いを封じ込めた。


「私は何度も結婚の話をしたよね? そのたびにのらりくらりと理由をつけて断って避けてきたのは洋介の方」


「だからそれは、お互いに仕事が落ち着いてなかったからだろ。金だって何だってまだまだ未熟だったのに結婚なんてできるわけっ」


「そんなの言い訳にしか聞こえない。私は洋介との未来を考えて、同棲始めてからは貯金もしてたよ。でも洋介は自分の趣味ばっかり」


 私はできるだけ私生活を切り詰めて、毎月決まった額を少しずつ貯金していた。

 日々増えていくその額が、洋介との幸せな未来に繋がっている気がして嬉しかったのに。


 だがそんな私の一方で、洋介は趣味の音楽やゲームに給料を注ぎ込み、頻繁に飲み会にも参加していた。

 いつか彼も気づくはず、そんな風に期待して待っていた私は愚かであったのだ。


「だから、その時は若かったからで……今は三十になって落ち着いただろ?」


「これまで散々結婚から逃げておきながら、『三十になったからはい結婚』ってできるの? 私には何で洋介が結婚したいのかがわからない」


「結婚なんてそんな難しいこと考えて決めるものじゃないだろ!?」


「その言葉、昔の洋介にそっくりそのまま返すね」


 洋介は言葉に詰まってしまった。

 彼を責める気持ちが堰を切ったように溢れ出して止まらない。


「大体プロポーズもなしに、何で結婚する前提で話進めてるの? 私のことあまりに馬鹿にしてるよね? こいつは黙っててもついてくるって思ってた?」


 先ほどのように洋介から反論は出てこなかった。


「本当は今すぐ別れる気なんてなかった。海外出張が増えてもお互いにいい大人なんだし、色々と都合つけてやっていけるかなって相談するつもりだった。でも私たちもう無理だね、ごめん」


「へえ、そうかよ。瑠夏の気持ちはよくわかったわ」


 やがて私たちの間には沈黙が訪れる。

 気まずくなり洋介の方から視線を逸らすと、気を落ち着かせるためにコーヒーを口に含む。

 それはまるで今の私たちのようにひんやりと冷え切っていた。


「……部屋の物はしっかり片付けて出ていけよ。俺もすぐ引っ越すつもりだから」


 しばらくの沈黙の後、洋介の口から飛び出したのはこんな台詞だった。

 彼と別れることに後悔はない。

 だがもしかしたら彼は引き留めてくれるのだろうか、なんて考えていた私は大馬鹿者だ。

 これまでの付き合いに対する言葉など何もなく、突き放すような発言だけ。

 自分が蒔いた種なのだとはわかっていたが、こうまであっけなく十年の月日が崩れ去ったことに驚きを隠せない。


 でもこれも仕方のないことだったのだろう。

 いずれはこうなる運命だったと思うしかない。

 洋介の中で私は、単に結婚するにちょうどいい相手だったというだけにすぎなかったのだから。

 結婚ができなくなった今、私と一緒にいる理由などなくなったのだ。


 こうしてつい先ほどまで恋人同士だった私たちは、あっという間に他人へと変わり果ててしまったのである。



「今日仕事終わりに飯行かない?」


「あー……今日は色々考えたいこともあるから、ごめん」


「例の元彼?」


「やめてよ、そういうのじゃないってば……」


「もう三年も経つのに、いい加減忘れろよ」


 結局あの言い争いの後、私は洋介と同棲していたアパートを出た。

 彼が不在の間に荷物をまとめ、海外赴任を言い渡されるまで家具付きの賃貸マンションで生活したのだ。

 売り言葉に買い言葉の言い争いは、私たちの十年間をなかったものにしてしまった。

 言いすぎてしまったことを謝りたい気持ちがどこかにありつつも、これ以上彼から突き放されることを恐れてしまうずるい私がいたのかもしれない。


 そして逃げるように日本を発ってアメリカへと渡ってから、もうすぐ三年になる。

 アメリカに発つまでの数か月の間に、洋介からの便りは何もなかった。

 今彼がどこで何をしているのか、私にはわからない。


「結婚にこだわって別れた男なんて、今さら考えてもどうしようもないだろ? 俺みたいなやつにしとけばいいのに」


 隣のデスクからそんな口説き文句のようなことを言っているのは、同僚の春沢玲央だ。

 海外生活が長かったらしい彼はすっかりその色に染まっており、独身貴族を楽しんでいると聞いている。


「結婚なんて面倒なだけだって。柊もここへ来たばかりの頃そう言ってた」


「そう、だね……」


 実は私はほんの一瞬だけ、この同僚と付き合っていたことがある。

 洋介と別れ渡米してきた私は、大きな環境の変化に順応しきれずにいた。

 憧れていた海外での仕事はやりがいがあり、毎日が充実していたことは間違いない。


 しかしそれと同時に温もりを失い一人で過ごす夜は寂しくて、毎晩のように涙を流しては泣き腫らした顔で出社していたのだ。

 そんな私を見た春沢が声をかけてくれたことが始まりだった。


 誰とでも仲良くなることができるというのが特技な彼に、これまでのあれこれを打ち明けるのは簡単だった。

 その直後から食事に誘われるようになり、何回目かのデートの際に告白されたのである。


 だがこれまでの男性と違ったのは、自分には結婚する気がないのだと最初からはっきりと宣言されたこと。

 だから私の行動を縛るつもりもないし、自分のことも束縛はしてほしくないと言われた。


 当時の私は自分のせいとはいえ結婚を諦め、長年恋をしていた男性を失い、自暴自棄となっていたのかもしれない。

 結婚が選択肢にない相手と付き合うのは、今の自分にはちょうどいい気がしたのだ。


 しかし結局うまくはいかなかった。


 付き合って一か月ほど経った頃、私は彼から家に来ないかと誘われた。

 その意味がわからないほど馬鹿ではない。

 むしろ一か月もの間手を出してこなかったことに驚いていたし、付き合っているのならば当然の流れだろう。

 しかし彼の家の前まで来たところで、どうしても中へ入ることができなかったのだ。


 頭に浮かんだのは洋介の顔で、何も悪いことはしていないのになぜだか罪悪感に襲われた。

 彼は私以外の誰かに目移りしたわけではない。

 だが私はそんな彼を捨てるような真似をして、自分の中の悲しみや孤独を消し去るために別の人と関係を持とうとしているのではないかと。


 そして何より洋介以外の男性と一晩を過ごすというのが、私の中で受け入れ難いことだった。

 一体何を馬鹿なことを考えているのだろうか。

 私は自分から彼を手放したというのに。

 そんな意味のわからない葛藤が私を覆い、それ以上前に踏み出すことができなかったのである。


 家の前で立ち止まってしまった私を見た春沢が、それ以上無理強いしてくることはなかった。

 そして私はその場で彼に別れを告げたのだ。

 幸い彼には私以外にもこうしてデートを繰り返す女性が複数いるようで、別れを引き留められることもなかった。


「ま、柊の気持ちが変わったらいつでも言って」


 ひらひらと手を振りながら、コーヒーを買うために春沢が席を立つ。

 一人残された私は大きなため息をついた。


 もう春沢とどうこうなることはない。

 それだけは自分の中ではっきりとわかっていた。

 将来が見えない相手と今を楽しむだけの恋愛は、私には向いていないのだとよくわかったからだ。


 結婚する気がなくなったからと、洋介との未来を捨ててここへ来たのに。

 なんだかんだ言って私は、共に未来に向けて歩んでいくことのできる相手を求めていたということなのかもしれない。

 そんな感情の矛盾に私自身が一番戸惑い、今もなお苦しんでいた。


 なぜかあの日別れを告げてからも、春沢は私をデートに誘ってくる。

 これも深い付き合いを望まない彼だからこそ出来ることなのだろう。

 彼のように生きることができたらどれほど楽か……。

 そんな風に思ったこともなくはない。

 しかしそれが私にとって幸せなのかと考えてみると、きっとそうではないのだという答えに辿り着く。


「さてと、帰るか……」


 今日やらなければならない仕事を終えた私は、デスクの上のものを鞄に詰め込む。

 そしてタンブラーを手に取ると会社のビルを出た。

 外はすっかり暗くなっており、ひんやりと身を切るように冷たい空気が、私に孤独を思い知らせてくる。


 ──洋介は、今頃……。


 こんな時に浮かぶのはいつだって彼の顔だった。

 そしていつまでも別れた相手のことを引きずる自分に嫌気がさし、その幻想を振り払うように必要のない仕事を持ち帰って家で残業するのもいつものことだ。


 実は一度だけ、私はその後の彼の様子を伺いに行ったことがある。

 あれは一年ほど前のことだろうか……。

 短期間ではあるが日本に一時帰国することになった私は、なぜかかつて私と洋介が住むはずだったマンションのある駅に降り立っていたのである。


 自分でもどうしてそんなことをしたのかわからなかった。

 彼がこのマンションに住んでいるという確証だって何一つないのだ。

 かつての恋人と契約しようとしていた家に、一人で引っ越すとは考えづらい。

 だがなぜかその駅に向かう電車に乗り込んでいた自分に、心底驚いた。

 

 洋介とは、あれ以来一度も連絡を取っていない。

 同棲していたアパートを出てからすぐにスマホと電話番号を変更したため、彼との写真やメッセージなどは全て消えてしまった。


 アメリカに渡って半年ほど経った頃に一度だけ、実家に宛てて手紙が届いたらしい。

 洋介とは十年もの付き合いだったため、互いの実家に挨拶したこともあった。

 だから住所がわかったのだろう。


 私に気を使って手紙の中身を読んでいない母から、こちらに転送しようかと連絡が来たことを覚えている。

 しかし私はそれを断った。

 当時必死の思いで押さえ込んでいた洋介への思いは、ふとしたことで簡単に弾けて溢れ出してしまいそうだったからだ。


 私たちが住んでいたかもしれない場所で、行き来するカップルたちを見つめては幸せだった頃の自分の姿を重ね合わせた。

 あの時私が別れの言葉を口にしなければ、洋介の求婚の言葉を受け入れて結婚していれば、今頃私たちも幸せに暮らしていたのだろうか?


 そんなことを考えながら、居酒屋などが立ち並ぶ繁華街の方へと足を進める。

 ここを抜けてしばらく歩いた先に、あの時一緒に住もうと話していたマンションがあるはずだ。


 かつて一度だけ歩いた街並みは、もうほとんど記憶に残っていなかった。

 別れてから三年の月日が、私たちの十年間を塗り替えていったのだと思い知らされる。


 ──確かここの角を曲がって……。


 コンビニのある角を左に曲がろうとした、その時だった。

 目に入ってきた光景に思わず私は足を止めてしまう。


『洋介……』


 なんとそこには、あれ以来関係が途切れていた洋介その人の姿があった。

 最後に見た時よりも髪が短くなってはいるものの、見覚えのあるシャツに鞄は間違いなく彼のものである。


 だが私は声をかけることができなかった。

 なぜなら彼の隣には、親密そうに腕を絡める見知らぬ女性の姿があったからだ。

 私たちの間には少し距離があるため、彼が私に気付くことはない。

 そして彼らの会話もこちらには届いてこなかった。


 きっと方向的に、このまま洋介の家にいくのだろう。

 結局彼は例のマンションに引っ越していたのだ。

 一人暮らしには広すぎるあの間取りを思うと、もしかしたらもう二人は一緒に住んでいるのかもしれない。


 どう見ても友人同士には思えない彼らの姿に、私はそんな結論を出した。

 そして気づいたのだ。洋介は前に進んだのだと。

 彼はいつまでも過去に囚われることなく、新しい道に進み始めたのだ。


 私だけが今も昔の記憶に縛られ、あの頃に取り残されたままでいる。

 ガツンと頭を何かで殴られたような、そんなショックを受けた。

 でもこれでよかったのかもしれない。

 現実をこの目で見せつけられたことで、今ここに立っている自分の愚かさに気づくことができたのだから。


 それ以来、私は仕事一筋で生きてきた。

 他の男性たちから声をかけられても、その誘いに乗ることはなかった。

 別に無理をしていたわけでも、強がっていたわけでもない。

 ただそれが私の求める道だったからだ。


「ただいま」


 誰もいない真っ暗な部屋に向けて、それだけ呟く。

 おかえりと返事が返ってくることはない。

 その事実にも、ようやく慣れることができた。


 今はもう過去を思い出して涙を流すこともないし、何気ない日常のやり取りで笑うことだってできる。

 このままこうして、洋介のいない日々が当たり前になっていくのだろう。


 私は部屋の電気をつけると、リビングに向かう。

 そして鞄を下ろすと中から封筒に入った書類を取り出した。


 ──帰国の手続きも、さすがにそろそろしなきゃいけないよね。


 実は来月、日本に本帰国することが決まったのだ。

 これはまだ誰にも言っておらず、春沢を初めとする同僚たちも知らない事実である。

 

 来月から私は、以前働いていたビルに再び通うこととなる。

 実家から会社へは新幹線の距離であるため、新しく部屋探しもしなければならなかった。

 とはいえ一人暮らしで大したこだわりもない。

 ある程度の家賃を払えばきっとどこかしらは見つかるだろう。


 私はダイニングチェアに腰掛け、ぼうっと部屋を見渡した。

 洋介の存在を全く感じさせないこの部屋にいると、彼との十年間がまるで嘘だったかのような錯覚に陥りそうになる。


 この三年間で気づいたこと、それは私は『結婚』がしたかったわけではないということ。

 そして、誰かの温もりがほしかったわけでもないといことだ。


 私は洋介だからこそ結婚がしたくて、彼の温もりに包まれていたかった。

 たとえ彼と結婚できなくても、彼を失うことの方が辛かった。

 最後の方は洋介の嫌なところばかり目についていたが、それ以上に良いところがたくさんあったからこそ彼のことを好きになったのだ。

 彼を好きになったあの時の純粋な気持ちを、私はいつから忘れてしまっていたのだろうか。

 その事実に気づいた時には、もう彼は私の隣にはいない。


 全ては自分が招いたことだ。

 これから先の長い人生を、洋介なしで生きていかなければならない。


「荷物も、まとめなきゃね……」


 私はしんみりとした空気を断ち切るかのように立ち上がると、荷物をまとめるために寝室へと向かったのである。



 一か月後。私はアメリカの空港にいた。

 春沢を初めとする同僚たちが見送りに来てくれ、搭乗までの時間で別れを惜しむように言葉を交わす。


「柊帰っちゃうのかぁ。会えないのは寂しいな」


「何言ってんの。他にもたくさん女の子いるくせに」


「俺の中では柊は特別なの」


 その言葉が本当なのかはわからないし、春沢との関係がこれから先進展することもないだろう。

 だが赴任したての私を慰め励ましてくれたのは確かに彼であり、その存在には感謝してもしきれなかった。


「俺がそっち戻ったら、また飯でも行こう」


「うん、そうだね」


 その頃私はまだ今の会社に勤めているのか、何をしているのかもわからなかったが、春沢の言葉に頷きを返す。

 

 この一か月の間で引っ越しのために荷物をまとめたが、あの家で何年も過ごしたというのに驚くほど荷物は少なかった。

 アメリカでの日々は刺激的で、自分自身の大きな成長にも繋がった貴重な三年間だったことは間違いないだろう。

 しかしどうしようもなく虚無感に包まれてしまうのもまた事実だ。

 この三年間で得ることのできたものたちと引き換えに、私は何を犠牲にしてきたのだろうかと。


「ちょうどよかったじゃん。元彼にでも連絡すれば?」


「えっ」


 気持ちが塞ぎそうになっていた私の変化を見逃さなかった春沢が、唐突にそんなことを言い出した。

 その意味を理解するのに時間がかかり、素っ頓狂な声が出てしまう。


「帰ってきたんだーって連絡してみれば? 連絡の理由にもなるじゃん」


「……そんなこと、できないよ」


 帰国するという連絡は母だけにしているが、それも日付を伝えただけで正確な時間は知らせていない。

 実家から空港までは何時間も車と電車を乗り継ぐ必要があり、迎えにきてもらうという距離ではなかったからだ。

 大学時代から仲の良かった友人たちはもちろん洋介とも繋がっているため、彼と別れてからは昔の友人たちとの関係も疎遠になりつつある。


 もう三十歳を過ぎた大人なのだし、別に出迎えなんて必要ない。

 空港に到着したらその日は近くのホテルに宿泊することになっている。

 予め新居の契約は済ませていたものの、実際に鍵を受け取って入居できるのは一週間ほど後だ。

 そのためそれまでの間はホテルが仮住まいとなるだろう。

 淡々と荷物をまとめて、日本での勤務に備える。

 ただそれだけのことだ。


 ──洋介に連絡なんて……できるわけがない。


 彼にはすでに新しい相手がいる。

 あの日姿を見かけてからもう一年以上の月日が流れており、とっくに結婚していてもおかしくはない。

 むしろ彼は早い結婚を望んでいたし、そうなっていない方がおかしいだろう。

 そんな幸せ真っ只中の洋介に、今さら私が関わることは許されない。


「じゃあ……そろそろ私は行くね。みんな本当にお世話になりました。また向こうで会う機会があったら、その時はぜひ」


 私はみんなに頭を下げて、搭乗口へと向かった。

 その瞬間、この三年間すらもまるで非現実的だったように感じられてしまうのはなぜだろうか。


 ──さようなら。


 憧れだった海外での仕事、海外生活、新しい出会い、その全てに別れを告げて私は飛行機へと乗り込んだ。


 日本までの十数時間、私はほとんど眠ることができなかった。

 洋介との思い出が詰まった日本に帰るということは、忘れようとしていた記憶を嫌でも呼び起こされてしまうということ。

 それがどれほど私の心に重くのしかかってくるのかはまだわからない。

 

 飛行機が到着してからもどこか心ここに在らずといった様子のまま、私はただひたすらに歩いた。

 そして到着ロビーにやってくると、預けていたトランクを探して受け取る。


 長時間のフライトでかなり体が硬直していたようだ。

 強い疲労を感じており、宿泊するホテルを比較的近場で押さえていた過去の自分に感謝した。


「さて、と……電車の駅に行くには……」


 一年前にも同じルートを辿ったはずなのに、どうやらすっかりと忘れてしまっていたらしい。


 するとその時、不意に自分の名前を呼ばれたような気がした。


 ──きっと聞き間違いだ。


 空耳だと思い、振り返ることはしなかった。

 ここは日本なのだし、似たような名前の人がいたのだろう。

 そう思って空港の案内をきょろきょろと見回しながら、駅に向かうためのルートを探した。


「あ、あった」


 少し歩くことになるようだが仕方がない。

 ここで一度休憩を挟んでしまったら、どっと疲れが溢れて腰が重くなってしまうだろう。

 疲れた体に鞭を打つように、案内の指示に従って真っ直ぐ歩き出そうとした……その時。


「瑠夏!」


 今度こそ、はっきりと私の名を呼ぶ声が耳に飛び込んできた。

 だがそれでも私には信じることができない。

 なぜならその声は、今この場所で聞こえるはずがないものだったからだ。

 今すぐ後ろを振り向かなければならないのに、現実を直視するのが怖くて前を向くことしかできない。


「っ……」


「瑠夏。瑠夏っ……」


 縋るように何度も繰り返し名を呼ばれ、ようやく覚悟を決めた私はゆっくりと後ろを向いた。


「よ……すけ……」


 久しぶりに声に出して呼んだ名前は、震えてしまってはっきりと聞こえなかっただろう。

 だが目の前の彼はその呼び掛けに対して、くしゃりと泣き笑いのような顔を浮かべている。


 そこにいたのは、三年間忘れることのなかった大好きな人だった。


「瑠夏……久しぶり」


 そう言ってこちらに向かって歩いてくる洋介は、なんだか三年前より落ち着いて見えた。

 やはり髪の毛は記憶の中の彼よりも短く切り揃えられており、目元の隈も相まって三年という月日は思ったよりも長かったのだということを思い知らされる。


 そして少し痩せたのだろうか?

 見方によってはやつれたように感じられてしまい、思わず彼に向けて手を伸ばしそうになった。

「痩せたんじゃない? 大丈夫?」なんて、体に触れながら声をかけてしまいそうになった。

 だがすんでのところでそれを思いとどまり、伸ばしかけた手を引っ込める。


 もう安易に触れていい関係性ではない。

 その事実が私の胸を苦しいほどに締め上げる。

 会いたくてたまらなかった彼とようやく会えたというのに、それは嬉しい瞬間ではないのだと思い知らされた。


「なんで……ここにいるの?」


「瑠夏に会いにきた」


「でも私、帰国のこと誰にも言ってない」


 なぜ洋介が帰国のことを知っているのだろうか?

 

「瑠夏のお母さんから聞いた」


「えっ……」


「実は別れてから、何度か瑠夏の家に連絡したことがあって……ごめん。瑠夏の居場所が知りたかったけど、教えてもらえなかった。今考えたら当たり前だよな」


 ハッと乾いたような笑いを浮かべながら、洋介が自嘲気味にそう言った。


「手紙も送ったんだけど……きっと読んでないだろ?」


 その言葉に、以前母から告げられた手紙の存在を思い出した。

 結局受け取ることを拒否したそれに、私が目を通すことはなかったのだ。


「俺の住所と連絡先を書いたけど、返事は来なかったから読んでないんだと思ってた」


「ごめん。手紙をくれたのは知ってるけど読んでない」


「でも諦めきれなくて……もうこれを最後にしようと思って、この前瑠夏の家に行ったんだ」


「えっ!?」


 そんな事実は初耳だった。

 帰国の連絡をした後も母とは何度か電話やメッセージでのやり取りをしたが、そんなことは一言も触れられていなかったからだ。


「そしたら瑠夏が帰国するって教えてくれたんだ」


「で、でも私お母さんに飛行機の時間は……」


 そう、私は帰国の日にちだけは伝えたものの、詳細な飛行機の時間は母に伝えてはいない。

 すると洋介は気まずそうな顔で言葉を続けた。


「俺、ずっとここで待ってた」


「何……え……?」


「瑠夏がいつきても見逃すことがないように、朝一の便が着く頃からずっとここで……」


「ずっと、て……もう夜だよ?」


 到着する頃には夕焼けだった空は、手続きの間にすっかり暗く染まっている。

 朝からずっとここで待っていたという洋介の言葉が信じられなくて、うまい言葉が出てこなかった。


「今日を逃したらもう終わりだと思った。もう瑠夏に会えないと思った。だから……」


 洋介が、じり……と私の方へと近づいてくる。

 今すぐその胸に飛び込んでしまいたい。

 これ以上彼との距離が近くなると、きっとそんな衝動を抑えきれなくなってしまう。

 そう思った私は、咄嗟に彼から離れるかのように後ずさってしまった。

 同時に洋介の顔に浮かんだ悲しい表情が目に入り、なんだかとても悪いことをしてしまったかのような罪悪感に襲われる。


「瑠夏は俺のこと、もうなんとも思ってない……? もう顔も見たくないほど嫌いになった?」


「なんで今さらそんなこと……」


「俺は瑠夏が好きだ。別れてから三年間、ずっと瑠夏が好きだった」


 私たちを取り巻く時間だけが止まったような気がして、気を落ち着かせるために大きく息を吸う。


 ──洋介は、ずっと私のことが好きだった……?


 しかし同時に、あの日私が目にした光景が脳裏に蘇る。

 親密そうに女性に腕を組まれる洋介の姿……あれは見間違いではなく、確かに彼だった。


「嘘。ずっと好きだったなんて嘘つかないで」


「瑠夏……?」


「私見たの。日本に一度だけ帰国した時があって、その時に洋介が女の人と腕を組んで歩いてるところを見ちゃったの」


「腕? 俺そんなこと……」


「大切な人がいるなら不誠実なことはしないで。せめて新しい人のことは大切にしてあげて。私は大丈夫だから……」


 本当は、大丈夫なんかじゃない。

 精一杯の強がりだった。

 だけどこうして顔を合わせて会話することができた……それだけでよかったじゃないか。

 私は自分自身にそう言い聞かせる。


「待って。俺新しい人なんていないよ。言っただろ、俺はこの三年間ずっと瑠夏だけが好きだった」


「でも、私……」


「瑠夏、俺のこともう一度好きになってとは言わないから……だから、せめて話だけは聞いてくれないか?」


「あんなに結婚したがってたのに、結局しなかったの……?」


 私の問いかけに、洋介は困ったように笑った。


「残念ながら、ずっと独身だよ」


 そしてさらに彼は言葉を続ける。


「瑠夏は……今付き合ってる人はいるの? その、結婚とかも……」


 私は静かに首を横に振った。

 すると洋介はホッとしたように微笑む。


「瑠夏……瑠夏がいなくなって俺気が狂いそうだった。最初はヤケクソになって、新しい誰かを探そうって思ったんだ」


 洋介のその行動を責める権利は私にはない。

 私とて一瞬とはいえ春沢と付き合い、未遂で終わったものの体の関係まで持とうとしてしまったのだから。


「でも他の誰かじゃだめだった。誰と会っても全然楽しくなくて、心に穴が空いたみたいだった」


「洋介……」


「多分瑠夏が見た時も、そういう飲み会の帰りだったんだと思う。食事会で知り合った相手から、家に行きたいってしつこくせがまれたことがあったんだ」


 でも、とさらに彼は言葉を続ける。


「瑠夏と住むはずだったマンションに、瑠夏以外の誰かが入るのがどうしても受け入れられなくて……。気持ち悪いよな。俺、結局あのマンションに一人で住んでるんだ」


「えっ」


 やはり洋介はあのマンションに引っ越していたのだ。

 だが一人で住んでいたという事実に驚きを隠せない。


「瑠夏がいつか戻ってきてくれるんじゃないかって思って……連絡先も全部変えただろ。あのマンションに住んでる限り、瑠夏と繋がっていられるような気がした」


 洋介があの場所に三年間住み続けている理由を初めて知り、無意識のうちに視界がぼやけていった。

 彼はそんな私の手を引き、人の少ない場所へと誘導してくれる。


「私……洋介にひどいこと言っちゃった。付き合ってた十年間、無駄な時間なんかじゃなかったのにっ……」


 耐えきれずぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

 しゃくりあげるように謝罪の言葉を口にする私の涙を、洋介が優しく拭ってくれる。


「ずっと謝りたかったの。だけど洋介にこれ以上嫌われるのが怖くてっ……あの時黙って逃げるような真似をしてごめんなさい」


「瑠夏っ……」


 ぎゅうっと洋介に抱き締められた。

 求めていた温もりに、香りに、こぼれ落ちる涙が止まらない。


「俺も付き合ってた時、瑠夏にひどいことばかりした。瑠夏のこと全然大事にしてやれなかった」


 洋介の声も僅かに震えており、もしかしたら彼も涙しているのかもしれない。

 だが彼の胸に顔を埋めている私は、その表情を窺うことはできなかった。


「俺は瑠夏とだから結婚したかったんだ。結婚がしたいわけじゃなかった。なのに瑠夏のこと考えてやれなくて、自分のことばっかりで、俺は……」


 洋介の言葉は、まさに私が考えていたことと同じだった。


「私もっ……結婚できないことより、洋介がいなくなる方がもっと辛かった……」


 伝えたい思いはもっともっとあったはずなのに、胸がいっぱいで言葉が出てこない。


「瑠夏……俺、今日で終わりにしたくない。まだこれからも、瑠夏と過ごしたい」


「うん……」


「もう結婚しようとか、結婚できないなら一緒にいる意味がないなんて言わない。ただ一緒にいてくれれば、それでいいから……」


 洋介はそこで言葉を切ると、嗚咽のようなものを漏らした。

 彼が泣く姿は十年付き合っても見たことがなく、これが初めてだ。


「私も一緒にいたい。洋介がいない毎日はすごく寂しかった。気づいたの……私も結婚がしたかったわけじゃない。洋介とだから結婚したかったんだって」


 まるでもう二度と離れないとでもいうように、二人で何度も強く抱き締め合った。


 私たちはようやく三年分の答え合わせをしたのである。



 あれから一年。

 私は以前洋介と住むはずだったマンションで、彼と共に暮らしている。

 彼はほとんど飲み会に参加しなくなり、休みの日も私と過ごすことが多くなった。

 無理をしていないのかと尋ねたこともあるのだが、これが今の自分にとっての幸せなのだと告げる洋介の顔に嘘はない。


 私も国内事業部へ戻ることが決まり、今はこのマンションから日々通勤に励む毎日だ。

 これから先海外への異動希望を出すことは、もうないだろう。

 とはいえあの三年間での学びは貴重なものであり、日本に戻ってからも現地で得たあれこれを活かして仕事に邁進することができている。


 そしてどうやら春沢が、今年から日本に戻ってくるらしい。

 そんな話をアメリカ時代の同僚がメールで教えてくれたのだが、彼から私の元へ連絡はない。

 私が洋介との関係を修復したのだということを、別の同僚が彼に伝えたからなのだろう。


 きっと今ここで自分がしゃしゃり出ることによって、再び私と洋介の関係にヒビが入るのではないかと心配してくれたのだ。

 実際そんなことを同僚に向けてこぼしていたようで、彼なりの気遣いになんだか胸が温かくなった。

 帰国後の部署が異なるため春沢と関わる機会はほとんどないだろうが、これから先彼の活躍を陰ながら応援しようと思っている。


「瑠夏、早くしろよ。新幹線間に合わないって」


 鏡の前で最後の身だしなみチェックをしていた私に、洋介が急かすような声をかけてきた。


「ごめんごめん。思ったより時間かかっちゃって」


「お母さんたち待ってるんだからさ。ほら、行くぞ」


 今日は私の実家に二人で顔を出すことになっているのだ。

 洋介と空港で再会してから少し経った頃に、母はあの時のことを教えてくれた。

 どうやら私が洋介に対してずっと未練を残していたことに気づいていたらしい。


 そして洋介もまた、同じように私を思っていることにも。

 だが良い歳をした大人の恋愛に親が口を出すのもおかしいと思っていたようで、そのまま成り行きを見守っていたのだとか。


 洋介が実家へとやってきた時、あまりにも憔悴しきった様子の彼を見てつい私の帰国のことを話してしまったのだと謝罪もされた。


 だが私は母のあの時の行動に、心から感謝しているのだ。

 あの日洋介が空港に来てくれていなかったら、きっと私はずっと彼のことを引きずりながら暗い日々を過ごしていたに違いないのだから。


「お待たせ」


 玄関でローヒールのパンプスに足を入れると、ドアを開けて外に出た。

 すでに外で待っていた洋介が、黙ったまま私の方に手を差し出してくれる。

 私はその大きな手をぎゅっと握り締めた。


「新幹線乗る前に時間があったら、何か食べる?」


「あ、私あそこのサンドイッチ食べたい。ほらあの改札の中にあるカフェの」


「俺もそこ行きたいと思ってた」


「じゃあ決まりね」


 満開の桜並木の中、私たちは並んで駅へと急いだ。


 やり直しの日々はまるで三年間の空白期間がなかったかのように満ち足りていて、刺激的で、毎日幸せを噛み締めながら洋介の隣にいる。


 ──私のいるべき場所は、ここだった。


 長く遠回りをした私の恋心は、ようやく実りを遂げたのだ。


 いつのまにか洋介によって強く握り返された私の左手の薬指には、彼と同じデザインの結婚指輪がはめられている。

 日の光を浴びてキラキラと輝くそれに目をやった私は、甘えるように彼の腕に擦り寄ったのであった。


◇◇◇


「洋介、おかえり」


 久しぶりに会社へ通勤して帰宅すると、瑠夏がパタパタと廊下から駆け出してきた。

 普段はテレワークが多いため、こうして彼女に出迎えてもらう瞬間は新鮮で大好きな時間でもある。


「あ、こら。走るなよ」


 俺の方に向けて駆け寄る瑠夏を受け止めるように抱き留めた。


「今日は仕事が早く終わったから、私がご飯作っちゃった」


「無理してないか?」


「うん、大丈夫」


 俺の腕の中で顔を上げて微笑む瑠夏のことが愛おしくてたまらない。

 実は彼女のお腹の中には、新しい命が宿っている。

 ひどかった悪阻の時期を乗り越えて安定期に突入した今、俺たちは幸せな日々を過ごしていた。


 瑠夏と別れていた三年間、まさかこうして再び彼女と幸せな日々を送ることができるなんて想像もしていなかった。

 俺のところに戻ってきてくれた彼女を、今度こそ幸せにしたいと覚悟を決めている。


「もうすぐ結婚記念日でしょ? どこか美味しいところ行きたいね」


「店探しとくよ。何系がいい?」


「イタリアンと思ったけど、中華も美味しそう」


 瑠夏と結婚して初めての結婚記念日がやってくる。


 ──もう一年か……。


 その事実に感慨深くなり、自然とあの頃の記憶が蘇ってきた。

 約二年前に瑠夏と復縁した時に、もう自分の口から「結婚したい」と執拗に迫ることはやめようと決意したのだ。

 その二文字にこだわるあまり、何より大切な存在を失いかけたことを忘れはしない。

 瑠夏が隣で俺のことだけ見て笑いかけてくれる、それだけでいいじゃないかと。


 瑠夏が再び海外部署への異動を希望するのならば、それを了承するつもりでいた。

 彼女が好きなことをしてほしいし、俺の存在が彼女の邪魔するようなものになってほしくなかったからだ。

 しかし瑠夏は、もう二度と海外赴任はしなくていいのだと言っていた。


『すごく憧れてたんだけどね、海外のあれこれに。一度経験したらもういいかなって』


 そう言って笑う彼女の顔に嘘はなく、きっと三年間の間に色々とあったのだろう。

 その時の瑠夏の苦しみや辛さを共有できていなかったことが悔やまれるが、過去のことを振り返っていても仕方がない。

 

 瑠夏はあの後少ししてから俺が住んでいるマンションに引っ越してきており、毎日そこから通勤するようになった。

 そして以前アメリカにいた時に世話になったという同僚の男が日本に戻ってきたのだと、瑠夏から聞いたのもその頃だっただろうか?

 俺と別れてすぐに短期間だけ付き合ったという、例の男だ。


 ──なんで今このタイミングで……。


 そう思った器の狭い自分がいたことは間違いない。

 男女の関係にはならなかったとはいえ、向こうで瑠夏の支えになった男が再び彼女に接近したら……そんな不安が押し寄せる。


 こんな時、彼女と結婚していたら。

 彼女は俺の妻だと胸を張って言えたら……情けない理由で結婚を求める自分に嫌気がさしそうだった。

 でもそうでもして瑠夏を縛り付けてしまいたいと思うほどに、もう二度と彼女のことを失いたくはなかったのだ。


 そんな俺の変化に、勘の鋭い瑠夏はすぐに気づいたらしい。

 格好悪いところを見せたくなくはなかったが、嘘をつくような真似もしたくなかった俺は、馬鹿正直に情けない不安や戸惑いを彼女にこぼしたのである。


 ──呆れられたかもな。


 そう思って瑠夏の方を向けなかった俺の手に、彼女が自らのそれを重ねてきた。


『えっ』


 ハッとしたように顔を上げると、そこには微笑む瑠夏の姿が。


『洋介、私と結婚してくれる?』


『えっ……』


 突然の彼女からのプロポーズだった。

 あまりの驚きで、返事をすることができない。


『私に気を遣って洋介が結婚の話を出さないようにしてたの、知ってたよ。ごめんね……』


『瑠夏のせいじゃ……』


『私も前に別れた時あんなこと言った手前、結婚のことを言い出すのがなんとなく憚られて言えなかった』


 確かに瑠夏の方から二人の将来に向けての話題が出てくることはあまりなかった。

 俺たちは幸せな日々を過ごしながらも、どこか結婚というワードに触れるのを恐れていたのかもしれない。


『でもこれから先死ぬまでずっと洋介と一緒にいたいし、できたら洋介との子どももほしい』


『瑠夏……』


『だから、私と結婚してください』


 そう言って屈託のない笑顔を見せてくれた瑠夏が眩しすぎて、直視することができない。

 だがせっかく彼女が勇気を出してプロポーズしてくれたのだ。

 俺もその分彼女に思いを伝えなければならない。


『……大事なことを瑠夏に言わせてごめん。でも俺も、ずっと瑠夏と結婚したいと思ってたよ』


『うん、知ってる』


 いたずらな笑みを浮かべながら、瑠夏が頷いた。


『瑠夏じゃないとだめなんだ。絶対幸せにするから……俺と結婚してください』


 イエスの返事の代わりに、瑠夏は俺の胸に飛び込んできた。

 もう二度と、何があっても離さない。

 俺はそう誓って彼女のことを抱き締め返したのだ。



「……すけ。洋介?」


「あ、ごめん……」


「ご飯冷めちゃうから、早く着替えてきて」


 すっかり過去の幸せな記憶に浸っていた俺は、瑠夏の声かけで現実へと意識を戻す。


「今日のご飯何?」


「洋介の好きな肉巻きだよ」


 リビングに近づくにつれて鼻を掠める、夕飯の香ばしくて美味しそうな匂い。

 その香りを吸い込みながら、俺は今の幸せな生活を噛み締める。


 瑠夏じゃないとだめだった。

 彼女と結婚したからこそ、今のこの幸せがある。

 彼女がそばにいてくれるから俺は幸せなんだ。

 あの三年間の辛い日々がその事実に気づかせてくれた。


「瑠夏」


 大好きな妻の名前を呼ぶ。

 そして振り返った彼女に不意打ちでキスをした。


「瑠夏と結婚できて、本当によかった」


 俺は僅かに膨らみかけた瑠夏の腹に手を当てながら、これから先の人生で二人を守り抜くことをそっと心に誓ったのである。

 


最後までお読みいただきありがとうございました。

商業作品では異世界ばかり書いているのですが、こうした日常の男女のあれこれをテーマにした現代物も時々書いてます。

現実世界では難しいことも多いですが、物語の中では二人に幸せになってほしいのでこちらの結末を選択しました。

よろしければ評価などいただけますと嬉しいです。

ありがとうございました!

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