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第一章

世界の西のはずれ、風に削られた岩山の尾根に、その砦はあった。


 崩れかけた城壁、ひび割れた塔楼、色の抜けた旗。

 だが、正門だけは百年のあいだ一度も開かれたことがないかのように、ぴたりと閉ざされたままだ。


 門の前には、一体の魔物が立っている。


 岩と鉄で組まれた巨体。灰色の巨人──ゴーレム。

 瞳に光はない。それでも彼は、確かに「見て」いた。

 空の色を、風の向きを、土を踏む足音を、人間の匂いを。


 今日もまた、「勇者」を名乗るものが来ていた。


「ここが……西の砦か」


 銀の鎧を鳴らして、若い男が山道を登ってくる。背後には三人の仲間──僧侶、魔術師、斥候。

 男は剣を抜き、太陽に向けて高々と掲げた。


「俺は勇者レオン! 魔王の残した害悪は、この俺が断つ!」


 その言葉に、ゴーレムの胸奥で、石が擦れ合うような違和感が生まれる。


 ──勇者。


 魔王の喉を裂き、城を落とし、世界を救ったと呼ばれた存在。

 あの、燃える夜空の中で、魔王とともに見上げた小さな人影。


 ゴーレムは、ぎしりと首を鳴らした。


「ここは、魔王の砦。西の門。通る者は──殺す」


 石の割れるような声が、山に響く。


「ハッ、たかが残党の魔物が!」


 レオンと名乗った男が駆けだす。土煙が舞い上がる。

 ゴーレムは一歩、前に踏み出した。それだけで大地がどん、と鳴った。


 振り下ろされた聖剣と、岩の拳がぶつかり合う。


 金属が悲鳴を上げた。


「なっ……!」


 勇者の手にある聖剣の刃には、すでに蜘蛛の巣のようなひびが走っていた。

 僧侶の聖なる光も、魔術師の炎も、ゴーレムの胸板を黒く焦がすだけで砕け散る。


「ひ、ひかえなさいレオン! あれは……格が違う!」


「くそっ、退くぞ!」


 叫びながら後退する四人を、ゴーレムは追い詰めていく。

 拳を振るうたび、地面が裂け、勇者たちは転がるように山道を逃げ落ちていった。


 やがて、その気配も消える。


 静寂。風だけが砦を撫でる。


 ゴーレムは門の前へ戻り、元の姿勢で立ち尽くした。


 今日も命令は、果たされた。


 ◇


 まだ砦が新しかった頃。

 黒い外套の男が、石段をのぼってくる。


 王冠をかぶったその男──魔王は、背は高くないが、不思議な存在感をまとっていた。


「お前は、本当に、よく働くな」


 魔王は砦の門を見上げ、細い目を細めて笑った。


 ゴーレムはその前に跪く。


「命令。砦を守る。通る者を、殺す」


「そうだ。それが、お前の役割だ」


 魔王は笑いながら、ゴーレムの肩を軽く叩いた。

 ひんやりした石の体の上に置かれた、その手だけは驚くほど温かい。


「お前は最強だ。きっと西の砦から我が城に踏み込める者はいないだろう。

 だが、いつか、そんな砦をお前が通そうと思う者を、俺に見せてくれ。

 俺はいつまでも城で待っているからな」


 その言葉の意味は、ゴーレムには分からなかった。


 通そうと思う者──?

 通すかどうかは、命令で決まる。同じ言葉を聞いても、人間ならそこに「迷い」を感じ取ったのかもしれない。だがその頃のゴーレムには、命令以外の基準はなかった。


「……命令。ここを通る者は、殺す」


「ああ。今はそれでいい」


 魔王は口の端をわずかに上げる。


「これは契約だ、ゴーレム。お前は俺の砦を守り続ける。

 代わりに、お前はここに縛られ、永く存在できる。お互い悪くない取り引きだろう?」


「契約……了解」


「怖がることはない。魔物の契約ってのはな、ちょっと大げさに言えば“約束”みたいなもんだ。

 俺はお前を信頼する。だからこの砦を任せる。お前は俺の命令を守る。それでいい」


 そのときゴーレムは、ただひとつだけ記憶した。

 ──魔王は、自分を信頼しているらしい。

 その事実だけを。


 ◇


 星が何度も巡り、季節は何十度も移ろった。


 勇者と名乗る者も、魔王の名を知る者も減っていき、百年のあいだ、ゴーレムはほとんど独りきりで門を守り続けた。


 そんなある日。


「やっほー。生きてる?」


 ひどく気の抜けた声が、門の前に転がり込んできた。


 ゴーレムは視線を落とす。

 そこにいたのは、これまで見たどの人間とも違う姿だった。


 深い紫のローブ。ボサボサの髪を適当に後ろで結んだ女。

 杖も帽子もなく、泥だらけのブーツに、小さな革袋を一つぶら下げているだけ。

 けれど周囲の空気は、魔力でわずかに歪んでいた。


「魔力反応、異常値」


「うわ、本当にしゃべった。石のくせに」


 女は目を丸くしてから、楽しそうに笑った。


「私は魔女。人生を道楽でやってる、どうしようもない天才よ。

 あなたが、西の砦のゴーレム?」


 問いかけられ、ゴーレムは胸をどん、と叩く。


「西の砦。守護者。契約により、ここに在る。通る者は、殺す」


「はいはい、物騒ねぇ」


 魔女はあくびをひとつ。


「それで、通る前にひとつだけ。ここを抜けた先って、何かある?」


 唐突な問いだった。


「……不明。砦からの移動、禁止。契約違反」


「ふうん。じゃあ知らないまま百年も突っ立ってたわけ?」


 魔女の瞳に、興味と、ほんの少しの哀れみが浮かぶ。


「退去を勧告。ここを通る者は、殺す」


 ゴーレムは腕を持ち上げた。石と鉄の関節が唸る。


「いやよ」


 魔女はにやりと笑う。


「私、死に場所を探してるの。

 ここなら誰も文句言わないでしょ? 魔王の西の砦で魔女が死んだ、なんて、ちょっとおしゃれじゃない?」


 死に場所──理解不能な概念。


「……通さない」


 ゴーレムは拳を振り下ろした。

 地面が砕け、大量の砂礫が弾け飛ぶ。だが、そこに魔女の姿はない。


「遅いわね」


 背後から声。振り向いた瞬間、ゴーレムの首元を青白い刃がかすめる。

 空中に幾つもの魔法陣が浮かび、炎、氷、雷が次々と降り注ぐ。


 岩の体が割れ、欠ける。

 ゴーレムは黙々と前進し、欠けた部分は黒い光に包まれて再生する。


「おお、再生型。面倒くさ」


 魔女は舌打ちしつつも、楽しそうだ。

 やがて日が傾くころ、彼女は釣り上げた魚を逃がすように、ふっと距離を取った。


「今日はここまで。生き延びちゃった」


 息を切らしながらも、笑みは崩さない。


「また来るわ、西の門番さん」


「命令。次回も、殺す」


「うん、その調子」


 ひらひらと手を振り、魔女は山道を去っていった。

 ゴーレムは、その背が見えなくなるまで動かなかった。


 ◇


 それから数か月、魔女は何度も現れた。


「やっほー。今日も元気に門番?」


「通すわけには、いかない」


「はいはい。じゃ、今日も殺し合いましょう」


 戦う日もあれば、戦わない日もあった。

 魔女は砦の手前で勝手に焚き火を起こし、鍋をかける。


「食べる?」


「不要。栄養摂取、不要」


「ちょっとは羨ましいわね、それ」


 じゅうじゅうと煮える鍋から、肉と野菜と香草の匂いが立ち上る。

 ゴーレムには味は分からない。だが「匂い」として、記録はされた。


 ある日、ゴーレムは珍しく自分から口を開いた。


「質問。なぜ、死に場所を探す」


 魔女はスプーンを口に運びながら、空を見上げた。


「人生に、飽きたから……って言うのは半分冗談でね」


 小さく息を吐き、続ける。


「だからね、私は死に場所を探してるの。

 誰も信じてあげられない私が、あの魔王みたいに、なんか……“ああ、ここで終わるなら悪くないな”って思える場所で死にたいのよ。

 結果最後が裏切りに終わったとしてもね」


「……理解不能」


「そうでしょうとも」


 魔女は笑う。


「勇者から聞いたのよ。魔王の最後のこと。

 側近に裏切られて、それでも最後まで信じようとしてたって。馬鹿みたいだって、勇者は笑ってたけど」


 ゴーレムの胸の奥で、何かがざわめく。


「魔王は、愚かではない」


「私もそう思う」


 焚き火の火花がぱちりと弾ける。


「誰も信じられない私には、まぶしすぎる生き方だけどね」


 ◇


 夕暮れの日。

 魔女は焚き火を消すと、不意にゴーレムを振り返った。


「ねぇ、ゴーレム。砦の先、見たくない?」


「砦の、先」


「そう。あんたの魔王、言わなかった? “通そうと思う者をいつか見せてくれ”って」


 ゴーレムの脳裏に、あの日の言葉が蘇る。


 ──いつか、そんな砦をお前が通そうと思う者を、俺に見せてくれ。


 石の胸の奥が、軋む。


「……記憶。残存」


「なら話は早いわ」


 魔女は門へと歩き出す。


「私、行ってくる。砦の先に何が残ってるか、この目で見てくる」


「通すわけには、いかない」


 ゴーレムは腕を広げて立ちはだかった。


「そう来ると思った」


 魔女は少しだけ目を細める。


「安心しなさい。いずれ戻ってくるわ。

 死に場所を探す旅人ってね、一度気に入った場所には、何度も足を運ぶものなの」


「命令。砦を通る者は、殺す。戻ると言われても、通せない」


「うん、分かってる」


 魔女はゴーレムの胸にそっと手のひらを当てた。

 石の表面に魔力の紋がふわりと浮かぶ。


「でもね。本当は砦の先を見たいくせに」


 その一言は、鋭い杭のようにゴーレムの芯を貫く。


 見たいかどうか、考えたことなどなかった。

 ただ命令どおり、門の前に立ち続けてきただけだ。


「……分からない」


「分からない、って言えるのはいいことよ」


 魔女は笑った。


「命令だけで動いてる奴はね、“分からない”って言わないの。“知らない”“興味ない”で終わり。

 あんた、ちゃんと迷えてる」


 そのまま彼女は背を向ける。


「じゃ、今日は引き返す。約束どおり“いずれ戻ってくる”から」


 山道の向こうに消えていく背中を、ゴーレムはいつまでも見送っていた。


 ◇


 それからしばらく、魔女は現れなかった。


 風の音だけが砦を撫でる日々。

 胸のあたりが、時々重くなる。その感覚に名前はなかった。


 ──やがて、雪解けのころ。


「ただいま」


 魔女はふいに戻ってきた。


 いつもの調子の軽い声。けれど、その姿は明らかに変わっていた。

 頬はこけ、ローブの下の体つきもひどく痩せている。魔力の気配も、以前よりずっと薄い。


「魔力反応、低下。肉体、損耗。状態、重度」


「言い方ァ……まあ、その通りだけど」


 魔女は肩をすくめ、笑ってみせる。


「砦の先、見てきたわよ。魔王の城の跡も。綺麗さっぱりなかったけどね」


「……報告、要請」


「東の砦も、南も、北も、全部もう崩れてた。

 守るべきものがなくなると、砦って案外あっさり死ぬのね」


 魔女は門に背中を預け、空を見上げる。


「でも、西は残ってる。あんたがいるから」


 そう言って、ゴーレムの胸をこん、と軽く叩いた。


「ねぇ、正直に言うわね」


 魔女は、いたずらを白状する子どものような顔になる。


「私、あんたのこと、けっこう気に入ってるの」


「……評価不能」


「人間語に訳すと、“会いたかった”とか、そういうやつ」


 ゴーレムは少し考え、重々しくうなずいた。


「敵対対象、から変更。……再出現を、望んでいた」


「それ、人間語だとやっぱり“会いたかった”でいいと思う」


 魔女の笑顔には、少しだけ安堵が混じっていた。


 ◇


「で、本題」


 魔女は両手を打ち鳴らす。


「私、もうすぐ死ぬの」


「否定。生体反応、残存」


「技術的にはね」


 彼女はローブの袖をまくる。

 白い腕に、黒い紋様が絡みついていた。見覚えのある気配──契約の刻印。


「魔物の契約って、知ってるでしょ? あんたのは、きっと“軽いやつ”」


 ゴーレムは、魔王の言葉を思い出す。


 ──魔物の契約ってのはな、ちょっと大げさに言えば“約束”みたいなもんだ。怖がることはない。


「……契約。怖がる必要、ない」


「それ、魔王の受け売り?」


「肯定」


「優しい嘘ね」


 魔女は乾いた笑いを漏らす。


「本当の魔物の契約は、“命のやり取り”よ。

 砦の先の、魔王の痕跡に触れるには、古い魔族の契約を使う必要があってね。ちょっと寿命、差し出しすぎちゃった」


 紋様はじわじわと肌を侵食している。


「代償は寿命。私は、そんなに長くは生きられない。

 まあ、もともと死に場所探してたから、筋は通ってるでしょ?」


 さらっと言うその横顔は、どこか吹っ切れていた。


「魔王の言ってた“約束みたいなもの”と、だいぶ違うでしょ?」


 ゴーレムの胸の奥がざわつく。


 魔王は嘘をついたのか。

 それとも、自分には重すぎる真実を隠していたのか。


「……理解不能」


「いいのよ、理解しなくて。私だって、全部は分かってないし」


 魔女は深く息を吸い、ゴーレムを見上げる。


「ねぇ、ゴーレム。最後にひとつ、提案」


「提案」


「契約を、しない?」


 ゴーレムは目を見開く。


 契約──砦に縛る鎖の言葉。


「あなたは今、魔王との契約でここに縛られてる。

 でも、魔王はもういない。砦の先も、ほとんど何も残ってない」


 魔女はふらつく足取りで近づき、ゴーレムの胸に額を預けた。


「だから、条件を上書きしましょ。

 “通る者を必ず殺せ”から、“殺すかどうか、自分で決めろ”に」


「……命令、ではなく。私の、意思で?」


「そう。怖いでしょ。でもね、きっとその方が、魔王は喜ぶ」


 魔女はかすかに笑った。


「人を信じ続けた馬鹿な魔王なんだからさ。

 最後くらい、お前自身を信じさせてあげなきゃ」


 そう言って、懐から小さなナイフを取り出す。

 指先を軽く切ると、赤い血が一滴、ゴーレムの胸に落ちた。


 血は石に吸い込まれ、じわりと広がって紋様を描いていく。


「条件はひとつ」


 魔女は血まみれの指で、ゴーレムの胸板にゆっくりと線を引く。

 丸と星と稲妻を組み合わせた、子どもの落書きのような印。


「私のことを、忘れないで。

 砦が崩れても、世界が変わっても。

 あんたの中に、私との日々を刻んでおいて」


 刻印が眩しく光り、ゴーレムの内側へ沈んでいく。


 同時に、見えない鎖がほどける感覚がした。

 砦に縛り付けていた命令の縄が、一部だけ緩む。


「……契約。完了」


 ゴーレムの口から、自然とその言葉が漏れる。


「これであなたは、私を忘れられない。

 嬉しい? 迷惑?」


「評価不能。ただ、胸の奥が、熱い」


「それで十分よ」


 魔女はその場に崩れ落ちた。


「っ……!」


 ゴーレムは慌てて両手を差し出し、彼女の細い身体を受け止める。


「まだ、死なないわよ」


 魔女はかすかな声で笑う。


「これは、私の“死ぬ準備”。

 もう少し生きる。でも、そう長くはないから……急ごうね」


「何を、急ぐ」


「決まってるでしょ。

 あんたと一緒に、砦の先を見るのよ」


 そう言って、魔女はゴーレムの胸に顔を押し当てたまま、深い眠りに落ちた。


 門の前に、ゴーレムは立ち尽くす。


 胸の奥には二つの契約が同居している。

 砦を守れという、魔王の命令。

 記憶を刻み、自分の意思で選べという、魔女の提案。


 西から東へ、風が砦を撫でていく。


 ゴーレムは初めて、命令とは別の言葉を、心の中に浮かべていた。


 ──砦の先を、見たい。


 その欲求が、自分の中から生まれたものだと、はっきり自覚しながら。


 西の砦の石壁には、新しい刻印がひとつ刻まれている。

 丸と、星と、稲妻。

 それは、魔女とゴーレムの最初であり、最後の契約の証だった。

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