赤龍亭へようこそ。
月明かりだけが頼りだ。
霧に包まれた薄暗い街路を、俺は音を殺して歩いている。
この時間に外を歩く人間は、だいたい二種類だ。
命知らずか、今日を生き延びるために帰路を急ぐ俺のような男か。
「…運が良かっただけだな。」
誰に聞かせるでもなく呟き、俺は小さく笑った。
狩りで疲れ切った身体が、まだ熱を持っている。
赤龍亭。
見慣れた看板が霧の向こうに浮かび上がる。
…そういえば、ヨシュアと名乗ったあの少年は今頃どうしているだろう。
三日間、何も食べていないと言っていた。
それなのに、あの目は死んでいなかった。
そして思い出す。
あの時、確かに誰かの声が聞こえた。
理由もなく、胸の奥がざわつく。
俺は軋む身体に鞭を打ち、赤龍亭の重い扉を押し開けた。
薄暗いランプに照らされた店内は、いつも通り静かだった。
俺は決まっているカウンターの端に腰を下ろす。
「ジョニー、ひどい顔してるわ。大丈夫?」
馴染みのある声に、思わず息が緩む。
ルーシーだ。
「まずは酒をくれ。今日のおすすめは?」
「大蜥蜴の香草焼きと、コカトリスの卵のオムライス。」
「大蜥蜴の方で頼む。」
ルーシーが厨房に向かって声を張り上げる。
奥から、酒に焼けた野太い声が返ってきた。
葡萄酒のグラスを受け取り、一口含む。
喉を焼く感触に、ようやく生きている実感が戻ってきた。
店の奥では、冒険者らしい一団が一卓を囲んでいる。
酒の勢いか、話し声も大きい。
「魔王がいなくなって、すっかり平和だな。商売上がったりだ。」
「何言ってるんですか!まだ魔物を見たって話はありますよ。」
「どこの話よ。ダンジョン以外で魔物なんて、もう何年も聞いてないわ。」
魔王。
俺にとっては、遠い国の御伽噺みたいな話だ。
日々の糧を得るだけで精一杯の中年狩人には、関係のない世界。
今日が何もない一日で終わるなら、きっとそう思っていた。
「お待たせ。今が食べ頃だ。」
マスターの声と、鼻腔をくすぐる匂いが思考を遮る。
湯気を立てる料理を一口頬張る。
温かさが、染み渡る。
…生き延びた。
それだけで、今日は十分だ。
無心で食べているうちに、冒険者たちは会計を済ませたらしい。
足元のおぼつかない法衣の男を、若い戦士が支えながら店を出ていく。
「ルーシー、今日はこれで店仕舞いだ。上がっていいぞ。」
ルーシーは頷き、手早く片付けを終えると、軽く会釈して霧の中へ消えていった。
厨房の奥から、豊かな髭を蓄えたマスターが葡萄酒の瓶を持ってくる。
俺の隣に腰を下ろし、グラスに酒を注いだ。
「相棒、今日の狩りはどうだった?」
俺は、一瞬だけ言葉に詰まる。
…あの視線を思い出していた。
森の奥で、確かに感じた。
ドラゴンが、こちらを「見た」あの感覚を。
…捕食者の獲物を見る目。
「散々な一日だったよ。」
葡萄酒を一息で飲み干し、空のグラスを差し出す。
店内に、静寂が戻る。
俺は大きく息を吐き、語り始めた。
この世界の片隅で生きる、取るに足らない男の話を。
その始まりが…
ヨシュアと名乗る少年との出会いだったことも、
まだ知らずに。




