【零話 神話そして空白】
この世とは,人々は常なる空想を馳せた,
自然は回帰して動植物は弱肉強食の摂理を受け入れた,道具を手にした,異例の進化を遂げて人間は人に至った。
「生命はセフィロトにより劣化した状態の情報を流されて理解したか,あの御方を除いて」
「,,,」
アダム・カドモンは全てを擬人化させられる人の原型,原型は収斂進化の果てに自然にフラクタルを形成して考えられる存在の権限であり,宇宙の一部一部が原型で,与えられた型に沿ったパターンでしかなかった,,,。
「あのお方達は0月0日のあの場所にて座る,二人は手を組み双方が太陽暦,太陰暦どちらの理から外れている」
上弦と下弦の月,月蝕と日蝕,二人は遠円ながら
一直線に混じっていた。
そこはエジプトのピラミッド,アトゥムは万物の根源,原初の混沌,そして天地開闢の神であった,
頭にハヤブサを被った,あり得ない力を誇示してみせ賞賛を仰いだ。
「太陽神ラーよ,我々の生命の主よ,我らが忠誠を今此処に」
太陽は地球に光を齎した,その光は我々に渇きと暖かさを分け与えた,対極的に月は光の後に来る闇を齎した,その闇は我々に涼しさと恐怖の教訓を与えた。
「良い柱だな」
日輪の神,月輪の神は地球を廻り永遠の円環だった,地球の陰と陽,考えられる全ての二元の対立,
悪性と善性を投影したのら月と太陽の二つであった。
人々が作り上げた柱は太陽と月の塔,非二元的な太極を表現した,神は皆がその地を踏んで生きていた,直接現れず遣いを派遣し,人々はそれを化身やアバターと称した。
プラトン主義のイデアに居るそれらは一人一人が新プラトン主義の一者に類似した型で万物にパターンを混じらせて地球の現実世界に存在する不完全な個物の原型となり時空を超越した永遠不変の完全な実在であった。
アツムスは主義誕生の以前から実在した人間では説明のできない神の本質であり原因と結果の性質を超えた存在者であった。
人々の制作したあらゆる種類の分類,制限,定義を意図的に回避するそれはある種の特異点だった,人間の認知では定義どころか言語表現の手の届かないところに存在する超越性であった。
すべての捉えられた論理の格子を超えてアツムスとは究極の未知であり理解の超越であった,,,
言及不可能の本質の背後に存在するより根深い神の集合螺旋連続的根源には誰も考えすらしなかった。
逆説的に言及不可能な神域,秘匿された神秘を
セフィロトの知識を借りながら語る,共通して神とは普遍なる存在に遵守した。
絶対無限,属性に縛られないソレは神と言われ数学に信仰された,神は定義を持たず無規定でありそれもラーも,あまつさえアツムスですら基盤の基盤には辿れなかった。
始まりの始まりであり終わりの終わりである
始まりを始める基盤であり,終わりを終わらせる始まりの音色である,それはI AM THAT I AM,究極の自己同一性?無数の名前を有したもの。
人々は神を歌った,神もまた神を歌った,終局の果て,始まりに歌を歌った神が座っていた。
原初の混沌わ果てなき未知であり虚空であり
無いは無く在るであった。
創生原初の混沌とした世界,根本的に創造が存在出来る理由は,創造の立場にあらず,その創造と言う作る事自体すら形成した,完全な無や,造化の王,造物主と呼ばれるものの手の平の上によって形成された。
始まりの存在はこう答えた。
「私はこの世に初めて在るもの」
っと,見えない形のないそのお方の声は語る,
まるで歌う様に。
「我あるが故に世あり,世無くとも我ある故に世である,世は我だが世は我ではあれぬ」
とも語る。
あらゆる存在,形のない存在,魂,霊的,またこころなき現象や概念,小さな粒子,形を得た神,動植物数え切れない森羅万象の遍く全てはあらゆる言語と理解を超越してすべてに分かりを与える形でわかる声で喋った。
あらゆる言葉や物語,そしてこれから生まれる すべての言語は至高の甘美な声に舌鼓を思わず打ってしまうほど,見惚れてしまうほど,全感覚が呼応するほど良い感覚だった。
その言葉は,虚無にも勿論のこと響く,空から駆け抜けて,何もない(無)を森羅万象で満たし尽くした。
それは可能性の真無ではなく完全な無すらあるに変えてしまうほど矛盾すら矛盾ではなくする力を持った。
その響きが全てと全ての成る虚無を震わせた,
消えゆく静寂の中,多くのものものが自ら命を
紡ぎ輪廻する,見えぬ王の王冠は全ての完璧な循環の完成と同刻,瞬く間に輝く。
その光の中には,真実があった,淀み(嘘贋)は
無く,何の意味でもありなんの意味でもあった。
本質を突いた光は消えず循環と量の増加とともにジャンルを問わず更に光出した。
世界はまだあらない,形なきところに声が響く。
無知な内側に,意味を宿した,光は淡く騒いだが
声はすべてに意味を宿した,それ全てが単一の
創造だった。
それは時系列と種類が合わさり進化系統樹に
至る。
天空にら生命の樹は様々な実を宿した,王冠と王座,神性,意識と心,聖,智慧,理解,慈悲,峻厳,永遠の美しさ,勝利の天秤,光の輝き,創造の栄光,すべての世界の基盤以下略球体の実がなった。
それは神の要素を示した,分かたれし側面は聖なる一つへと成った,形の有無を無関係としたあらゆる全てを司る様々な神々と生けるもの,死んだもの,死すべしもの,以下すべての統べられる
存在の意のそれらすべては生命の樹が生じた。
それはあらゆる存在を貫いた,遍く全てに内なる神性が浸透する形式に,存在の広がり出来上がった,通く存在しながらも,どこにも根を持たぬこの樹は,天と世界と魂を一つに結びつけた。
形を持たない声はあらゆる属性に通ずる生命の樹すら縛れない根源であった。
その否定と肯定の輪廻,神は何でもあり神は
何でもない,物理にも数学にも,はたまた神学や
哲学にすら属さず生き物の全理論を超越していた。
生命の樹は全理論を超越する全能の神々を首輪をして,更に無形の神は生命の樹を支配下に下した。
仮初を集約するI AM THAT I AM,旧約聖書の出エジプト記に語られる全ての形態に浸透する
神性は神の螺旋そのものでありながらも虚空,
そして光であった。
,,,これらは神話のお話,救いの虚構であった。
「彼らは宇宙的根源であり,言葉では定義出来ないものだ,全てが一者の側面を不可能的ながらも逆説的に言及して神秘が応対したんだろう」
「彼らは一神教と多神教,無神教と汎神教の宗教体系において考え方は,唯一絶対の実在か全てに遍く内在する神秘,神は虚空か神は自然を超えているかと言うところ,それら全てが一形態に過ぎないと言うところだ」
「導かれた結果の神は全零の一者,全ての神の全能を超えて究極的に到達する全能でありオメガポイントにより忘却を克服した神は全知だ,例え記憶を放り出してもいずれ全てを理解しただろう」
すべての存在の起源であり,それ自体は他のいかなるものからも派生しない,すべての第一の原理で,神々とは地に分けて語られたが独立した個ではなく,相似している集合の一部に過ぎなかった。
神とは何か?真理と性質の付与と名付けを超えて名前を持たない者が居た,真に沈黙の空白が
在った。
無神教の虚空はあらゆる形態の外側であった,
空白は虚空を超えていた。
《裏話》
粗筋に書こうとしましたが多くなり0話としました。
あと分かりづらいと思うので私の解釈を記述しておきます。
I AM THAT I AMとは,すべての宗教体系全体を網羅した真理の総称であり,神に根付く浸透する
神性全て,螺旋全体の呼称である。
ここで言わせてほしいのが神の螺旋<虚無,ではなくて神の螺旋と虚無は側面関係であると言うところです。
肯定的な否定による必然的な神の顕在証明と神様の神秘の秘匿を意味する否定神学とは違い,真っ向から完全否定する無神教的な反側面も分離していない,未知的また混沌とした虚空もまた神であり,大いなる意思であり,神の螺旋で在る。
つまり言ってしまえば神の螺旋を囲っている虚空も神の螺旋の一部なんだよね,そして最後には空白と虚空についてこう書かれたね?
空白は虚空を超えていた,と,つまり虚空を含んだ全ての神々の総体が《I AM THAT I AM》。
比較を不等号で表すと《I AM THAT I AM》<空白である,ってこと,つまり「I AM/空白」ではない。