おとうと
そのときエリシアスは生まれて半年程度。皇子のための宮は小さくとも最新の家具が取り揃えられ、奴隷たちは皆先祖代々宮廷に仕える者たちばかりだった。大理石で造られた小さなおとぎの国。白亜の宮殿、花が咲き乱れる庭、小道、東屋、それらをぐるりと取り囲む生垣。等間隔に配置された衛兵の持つ槍の穂先がぴかぴか光る。
宮の真ん中に、柔らかい羊の毛織絨毯を幾重にも敷き詰めた部屋があった。控え目な模様の絨毯の海のさらに真ん中、赤子がころりと転がって指をしゃぶっていた。
フィリクスの背後には皇后レニノアの腹心の部下である侍女が三人。何かがあればすぐさま第一皇子を引きずり戻すことを厳命されていた。とうのレニノアは、不調で臥せっていたのだと思う。
光り輝く中にその子はいた。浅黒い肌はまだまだ白く、全身がふくふくで、むちむちで、フィリクスを認めるとじいっと見つめてきた。その黒い目。
(父上様の目だ……)
この子が皇帝だ。
フィリクスがそうっと両手を伸ばすと、左右の侍女が手首を掴んで静止させた。だから彼は異父弟を抱っこしたことはない。赤子の彼に出会えたのもそれが最初で最後である。
「エリシアス」
「ぅー」
やり取りといえばそのくらい。心にぽっと火が灯りぬくぬくと燃えて仕方なかった。いつも感じていたうすら寒い感じ、どこか凍えた気分が霧散した。彼はもはやこの世界に一人きりではなく、皇太子という身分に怯えることもしなくていいのだ。
その夜は喘息の発作が起きなかった。静かに眠りにつく姿勢を取りながら、頭の中に歓喜がぐるぐる渦巻いて寝られなかった。
――彼が生まれたことを、神々に感謝した夜!
藍色に染まる自室の全部がきらきらしく、真新しく見えたものだった。
ほどなくしてフィリクスからその大それた称号は剥奪され、北の離宮に入ることになる。のちのち、うっすらと状況を理解した。
つまり、皇帝グリアリスは女子供に興味などなかったのだ。レニノアが婚前から姦通の罪を犯していようがいまいが、フィリクスが我が子であろうがなかろうが。換えの効くパズルのピース。壊れたら補充すべきもの。
ミハルデ一族の面子を守ってやったことを盾に、戦費や人材を無心できることに実利を見出した。皇帝として賢い選択だった。もちろん影に流れる悪意ある噂は父の男としての面子を傷つけただろうが、国家運営のためになら歯牙にもかけなかったに違いない。
そんな父にも最愛の側室がおり、その女が産んだ本当に愛する子供たちがいた――に、違いない。そうであってくれ、とフィリクスは思う。
あの優しい人にも家族がいたのだと言ってくれ。慈愛を周囲に振りまくばかり、与えるばかりで、最期には妻の愛人に襲われ死んでしまっただなどと。あまりにむごすぎる……。
馬はまっすぐな街道をひた走る。空は曇り、みぞれか雹でも降ってきそうだった。寒風が肺を冷やし、きいんと縮んだみぞおちの底からあの咳がせり上がりかける。肉体はこれほど強くなったというのに、喘息は消えてくれなかったのだ。
「大将、嵐が来そうだ!」
「わかってる、来る前に突っ切る!」
後ろから聞こえる部下の声に叫び返した。
「無茶だよ!」
と、悲鳴混じりの返答がある。
「このあたりに村はない。突っ切った方が早い」
彼はそう叫び返し馬をさらに駆り立てた。愛馬は応えてスピードを上げる。街道は北へ、北へ、ひたすら長く続いている。
冬の嵐は一番目に来るのが一番大きい。ドレフ帝国のすべての平原を舐め尽くし、【大氷河】から零れる魔力石や遺物をヴァルナザ河へ流し込む。河が削り取った土はファルナッテ湖へ沈み、また周辺の田畑から流れ出た籾殻や麦わら、森の落ち葉などが分厚く沈殿する。
冬の間、凍り付いた湖の中でゆっくり混ざり合ったそれらが、農耕に欠かせない土となるのだ。
フィリクスは次第に馬の脚と同化した。まっすぐに前を見て、見果てぬまぼろしを追うように走る。駆け足の音とリズムに皮膚がほどけて中身だけ一体化する。
彼は北風の唸りを感じ、【大氷河】に積もる雪がゴウゴウと音を立てて移動するのを感じた。土や水の蠢き、連綿と続く耕作と命の連なりは、すべてひとつの和音を奏でていた。
彼らは風となって大地を渡った。もはや声を出す者は一人もいない。人間の言葉を口にした瞬間、加護は搔き消えて彼らは藻屑と化すだろう。
オルシャリム領にたどり着いたと同時に嵐がやってきた。
「すげえ」
と誰かが呻いたのは、本来であればこれほど早くにたどり着ける土地ではなかったからである。アミラコムからオルシャリムへは、最低でも三日はかかるはずだった。それも換え馬を飛ばしてである。彼らの背後で雷が落ち、かすかに火が上がる。雨風がそれをかき消し、雪が覆う。
ドレフ帝国の冬はテトラスに比べれば温暖だが、絶え間なく雪が降り続く。人々の往来は絶え、しばらくは紛争も起こらない……はずである。
関所の兵たちが目を丸くする。石づくりの建物に入り風が遮られてようやく、フィリクスの黒い目は正気を取り戻した。
「開門願いたい」
オルシャリムの街へ続く大門を彼は指差した。遅ればせに馬から降りると膝が震え、太腿がビクビク痙攣している。手綱を手にして身体を支える。三日三晩馬を飛ばしたかのような疲労があった。
「ご領主にお目通り願いたい。私はアミラコム分領公だ」
懐を探って手形を出す。受け取った兵士が確認のため紋章官の元へ走っていく。
「遠路はるばるよくぞお越しくださいました、公、いったん馬を納めてお休みになってください」
「いや。そんな暇はないんだ」
フィリクスは苦く笑った。それ以外口を利くことはなく、ただ前へ進めるときがくるのを待った。
弟の顔が見られるなら、どれほど待っても悔いはない。
関所の奥からざわめきが広がり、誰かがこちらへ歩いてくる。フィリクスは顔を上げた。
ヴァルシャード将軍がいた。皇帝グリアリスのそば近くに常に控えることで有名な、忠臣である。
「ああ、将軍」
「……お会いしたくはありませんでしたな」
と言いながら将軍が片手を振る。兵士たちが一斉に関所の狭い部屋から出て行った。オルシャリムの街を取り囲む石の城壁の一部に設けられた関所は、事務手続きのための場所というより砦の一部のように無骨である。
兵隊の足音が去ると、一層風の音が鳴り響いた。暖炉にかけられたままの小鍋からシチューの香りが立ち上り、焦げ付かないかと意識が逸れる。フィリクスは内心、苦笑しながら両手を広げた。
「兵たちの身の安全を保障してくださるなら、俺一人であなたに従いましょう」
将軍は頷いた。禿頭がてらてら光り、渋面を浮かべた顔は年月が経って皺が深く刻まれている。あるいは主をなくした心労か。それとも、その幼君を隠し続けることが原因なのだろうか?
ヴァルシャード将軍が声をかけると、関所の中から年老いた侍女が現れた。侍女だ、と思ったのはエプロンをしていたからでありそれ以上ではない。頭巾を被った彼女に将軍が案内を言いつける。
「ここにいてくれ。追って指示を出すから」
フィリクスが言うのに、バリフが目を尖らせて進み出た。
「お供いたします。僕は小姓だから――」
「バリフ」
彼は首を横に振って見せる。
「恥をかかさないでくれ」
少年の肩を年嵩の兵が掴んだ。項垂れた彼と一緒に、アミラコムの兵たちはぞろぞろと砦の奥へ消えていく。風の音がゴウゴウとうるさい。こゆるぎもしない関所は、ひょっとして膨大な距離の城壁の中すべてに居住空間があるのかもしれない。戦いが日常だった時代の名残りである。
「こちらへ」
という将軍に付いていった。彼がその気になればフィリクスを始末することができるのは知っていたが、兵たちが無事ならば構わないと思った。
「俺はただ弟に会いたくてきたんだ」
狭く急な階段の途中、フィリクスは幅広い背中へ呟く。
ヴァルシャード将軍はぴくりとも反応せず、ただ階段を上った。他へ抜けるための廊下やハシゴが最初はあったが、次第に見当たらなくなり、やがて階段は螺旋状になっていった。もはや階段を上っているのか、塔の中を這い上っているのか判別がつかない。
ぱっと視界が開け、二人は城壁の上に出た。出てきたところを振り返ると物見櫓がある。ゆるい円形を描く城壁に突き出た四角の建造物である。城壁には凹凸があり、兵が身を隠して射撃できるよう床に窪みが掘られている。所々に木板で塞がれた穴があり、これは侵入者の頭上に熱湯や煮えた油をぶちまけてやるためのもの。
街に入り込む輩を何がなんでも撃退してやるという意志に満ちた、まさしく城塞だった。
「なるほど、オルシャリムは防衛に秀でた街なんだな」
将軍は重苦しく頷いた。
「元々、魔物の襲撃から人間を守るため開発された土地ですからな」
「そうか。ここで人々のため日夜励むあなたのような軍人を誇らしく思うよ」
「……似ておられますな」
「えっ」
「グリアリス陛下に、似ておられます」
フィリクスは沈黙した。将軍もまた、物思いにふける老人のように項垂れた。巨大な身体が二回りも縮んだように見え、鎖骨に顎を埋めるようにした姿は痛々しい。将軍の足取りは重たく、わずかによろめくようにも見えた。
迷いながらフィリクスは言った。
「……陛下はもうおられない。それでも、あなたは彼を陛下と呼ぶのだな」
「ええ。たとえお亡くなりになったとはいえ、我が主はあの方だけです」
「素晴らしい」
ほうっとため息が漏れる。ちらほら雪が降り出していた。喘息の兆候は温まった彼の身体から逃げ去った。残るのは人っ子一人見当たらない黒い石の城壁、その上を渡る風だけである。
「それこそがドレフ人の名誉だと、俺は思う。誇らしいよ。あの方にそれほど尽くしてくれる配下がいたこと。救われる思いがする。逃げ出して、決して許されないほどの不義理をしてしまったから」
「あなた様はアティフの小刀を帝国に戻してくださりました。ともかくは、それでどのような罪も拭われましょう」
「ああ、小刀。あれは今、どこに? エリシアスの手元にあるのか?」
「左様。皇太子殿下がお持ちです。皇位の証として」
「よかった」
全身から力が抜けた。フィリクスは頬をかいて笑った。黒髪がさりさり額を刺して痒い。
「安心したよ。それなら彼は、大丈夫だな。すぐにでも心ある者たちが集まって、エミリオ・カヴィルを打倒すべく兵をあげることができるだろう。俺もまた、微力ながら力を尽くそう。アミラコムもまた一兵として使ってほしいと、お伝えいただけるか? もし、警備上の問題がないならぜひ――俺が会いたがっていると、エリシアスに伝えてくれ」
将軍は痛ましげに眉を寄せた。
フィリクスは嫌な予感がした。
「それは、できません」
「何故だ? 俺は……」
「たとえ私が許しても、彼はあなたを許さないでしょう」
ぐらりと大地が歪んだ、気がする。フィリクスは呆然と立ちすくむ。
頭の中で数式が躍った。測量。弟。きゃらきゃら笑う声。楽しかった日々。彼は感謝した、弟が生まれてきてくれたことに。星の運航と数学は密接に関わりあっている。きっとエリシアスが生まれてくるために、彼という土台は必要だったのだ。
俺が生まれてきたことにも意味があったのだ、と彼はエリシアスの顔を見ながら思った。
救われた気がしていた。
「エリシアス殿下はあなたをお恨みです、フィリクス殿」
死刑宣告のように声は響き渡る。
「そして私もまた……あなたが殿下に接触するのを望みません。何もかもを取り上げられておしまいになる前に、お逃げなさい」
真剣なまなざしで将軍は言った。雪が舞い散っていた。風が吹いた。
曇天の元、光らしい光はどこにもなかった。




