求婚
アレクシアは大輪の薔薇のような女性だった。うつくしく、意志が強く、頭がよく狡猾で、彼女なりの理論に基づいて行動していた。彼がアレクシアの前に跪いて求婚することの理由は、だから突き詰めればただひとつだったのかもしれない。彼女がとても、うつくしかったこと。
永遠に傍にいてくれるのを願った。そうしている間、ずっとフィリクスは強い喉の渇きを感じていた。背中や首が凝り固まり、不愉快な筋肉痛じみてズキズキ痛んだ。みぞおちは重たく、もう何年も忘れていた喘息の気配が肺の中にかすかにざわめく。
最初の求婚は不発に終わったが、彼は何も恐れなかった。
何度だって挑戦するのだ。決定的な拒絶を受ければもちろん引き下がろう。怖がらせたいわけではないのだから。けれど。
(もし、ひとかけらでも俺に興味を持ってくれているなら)
フィリクスは何でもやるつもりだった。道化者になって歌って踊ってもいいし、再度軍団を動かす契約を結んでもいい。持てるものはすべてアレクシアにくれてやり、自分は素寒貧になったって構わない。
次の求婚の際には少し長く一緒にいてもらえた。彼女はホテルの花園に女王のように君臨し、座っていても立っていても意志の強い瞳のきらめきが変わることはなかった。冷たく湿った空気が退散し、陽の光が降り注ぐ。
フィリクスは自分の節くれだった手や無骨さ、背は高けれどずんぐりした体型が彼女の気分を害するのではないかと心配になった。生まれてからこれまで、そんなことを考えたこともなかったのに。
「俺は――君の目から見た世界が見たくなったんだ」
そう言ったとき、それが紛れもない本心であることを自覚した。遊び慣れた伊達男であれば口説き文句のひとつやふたつ事前に考えておくべきだったかもしれない。だがフィリクスは正直言ってそっちの経験は赤子同然である。ならば、彼女を目の前にして思ったことを正直に口にした方がなんぼかマシだ。
そうして言ったことが、そのまま本心だった。
これまでけだもののように生きてきた。生きるために生きて殺して食べて飲んで眠った。それ以外に欲しいものも、成し遂げたいこともなかった。父から与えられたアミラコムのことは愛おしかったが、奪われたら命がけで取り戻そうとするかといえば、そうではない。あの土地は彼の故郷ではない。ついてきてくれた仲間たちのことは頼りにしている。彼らのうち一人でも殺されたら名誉を賭けて復讐するだろう。だがいつか立ち直り、彼の顔と名前が静かに忘却の中に埋もれることを知っている。
その証拠に薄情な彼はもうシンクレア先生の顔も思い出せない。ルミオンの死に顔は覚えていても、生きているときの彼の笑い声を思い出せない。初めて剣を教えてくれた傭兵の名前はなんだったか。死に際に言われた言葉は覚えていても、彼のことを何も知らない――。
フィリクスも同じだ。
死んだら誰の記憶にも残らない。
何十年も経ってからふと彼のことを思い出してくれる人は誰もいない。彼がいなくてもドレフ帝国は続く。部下も仲間も新しい領主に馴染む。
誰か一人……。一人でも、思い出してくれたら生まれてきた意義がある。
もしその一人を自分の意志で決められるなら。選んでいいのかわからない。その権利があるとは思えない。でも。
自分が死んだらアレクシアに思い出してほしいと思った。ほとんど初めて、忘れられたくないと思った。
今までさんざん生きるために人を殺して、時には楽しんで斬り合いをして、虐殺された人の死体の群れまで見てきた。アレクシアに自分のそういう側面を見られたくないと思ったし、けだものではなく人間として彼女の記憶に残りたかった。
オレンジ色の薔薇に囲まれ、木漏れ日に肌を撫でられて女性が座っている。くるくる渦巻く土色の巻き毛が肩を伝い、大地の女神ナーフィラのヴェールのように腰までを包み込む。飾り彫刻がされた蔓棚の繊細な影がミルク色の肌を染め上げる。彼女は木陰と陽の光が似合う。その青い目。夏の空のようにどこまでも晴れ渡る目が、いつかフィリクスの墓石を見つめてくれたらそれだけできっとまた人間に生まれ変われるだろう。
結局、求婚は受け入れてもらえなかった。
お互い捨てられないものがあったからだ。フィリクスはいざとなれば皇帝グリアリスのため死ぬし、アレクシアには女王になる目標があった。
仕方がない、と思いながら彼は彼女の元を後にする。
(あーあ)
思いは叶わなかった。夢は破れた。彼女をアミラコムに連れ帰り、一緒に繫栄させていく夢。だが世界が色を失ったり、狂気的な思いに駆られることはなかった。
フィリクスはアレクシアの卵のようにまろい頬の線を眺めた。それを愛らしく包み込むくるくるの髪の流れを見つめた。夢より遠くを見据える青色の瞳が彼をまっすぐに見つめ、薔薇色の唇が拒否を吐いた。
彼女背は低く、こっちを見上げてくれないとつむじしか見えなかった。そんな身体全体に意志の力をみなぎらせて、全身で彼に向き直り、否と言った、それは真摯に誠実に。
彼の言うことを、思いを、否定せず受け止めてもらえたのだった。
誰も、そうしてくれなかったことを。
それだけで十分だと思えた。アレクシアは彼のものではなかったし、いつか彼以外の男のものになるのかもしれない。そのときは潔く、中央大陸を去ろう。西大陸か、南大陸か。どこか遠くに行って、夏の空の青色を思いながら過ごそう。
フィリクスはエミリオ・カヴィルにはならない。愛情と執着を勘違いすることはない。
そう思えるだけの恋情を教えてもらった。これを僥倖と呼ばずしてなんという?
フィリクスは顔を前に向け、誇り高く彼女の元を立ち去ることができた。
ホテルの奥に誘導されることで面子を守ってもらえたのだ、ということに気づいたのは宿舎に戻ってからである。笑みがこぼれてたまらなかった。彼女は愛らしく、よく気が周り、周囲の評判を気にする人なのだ。なんて商人らしい。王侯貴族は平民にどう思われるかなんて気にも留めないのに。
(俺は相当イカレてるなあ)
と思った。望むところだ、とも。
鳩が来たのはそのすぐあとだった。皇室の紋章がついた正式な文書だった。格式ばった流麗な文字がこういうことを言った。
――アミラコム分領公はリュイスのさる貴婦人との制約を果たすためドレフ人の血と鉄の力を貸した。
――ゆえに、皇帝グリアリスの名の元、その名代としてリュイスとの絆を深め、我が国の高潔なる無欲さを喧伝する栄誉を与える。
つまり、しばらくリュイスの貴族社会に顔を売ってこいと。次の国王が誰になるのか、議会の動向はどのようであるか、探ってこいというわけである。
やれやれ、とフィリクスは天井の壮麗なシャンデリアを仰いで笑った。
またアレクシアに会えるかもしれないことが嬉しいのを認めないわけにいかなかった。
それからの日々は退屈の一言だった。挨拶、挨拶、また挨拶。無害なお茶会だの園遊会だのに招かれ、戒厳令下で王城に進撃した一幕について舌が回らなくなるまで繰り返し語らされる。
貴婦人たちは蝶のように花のように綺麗だがそれだけに見え、男たちは着飾った衣装やこれ見よがしに胸に飾った勲章の向こうに野心が見える。誰もがフィリクスを値踏みしていた。肩眼鏡や扇子越しに、この無礼な若いドレフ帝国からの使者はどれほどの価値と立場を持っているのか計っている。
フィリクスは数えきれない屋敷やホールや夜会や会合で歓迎された。金銀財宝で飾り立てられた応接のための空間。香水の香り、ワインの匂い。長年のうちに絨毯に染みこんだ埃の臭い。
「まあ、そうして王城へ進軍なさいましたのね」
「ぜひまだ誰にもお話になっていないことをお聞かせくださいませ」
「ドレフの軍は本当に、血と鉄で道を切り拓いたのですな。なんと勇壮な」
フィリクスは騎士らしく後手に手を組んで胸を張り、微笑む。
「誇張が過ぎますよ。兵はただ、命じられた通りに進んだだけです」
いつでも同じ調子で答えられるのはひそかな特技である。声の抑揚、間の取り方、視線の落とし方まで、完璧に計算済みだった。
遠巻きにささやく声はわざと聞かせようとしているので無視する。
「皇帝グリアリスの名代だとか」
「だが不義の子だというではないか。なんとまあ」
「立場がないので焦っているのでしょう。他国にまで食指を伸ばして……」
「突然の求婚だったそうだぞ。いやはや傭兵上がりは作法も知らぬ」
「あの娘の血筋が欲しかったのであろうよ。しょせん傭兵の国の一将軍に過ぎん」
フィリクスはにこやかな笑顔を絶やさない。杯を口元に運び、チーズをつまみ、耳を澄ませる。ブドウ酒の酸味が舌を刺す。噂はどんな古い酒より価値がある。
なんという伯爵が主催だったか、宴からの帰り道で護衛の兵がとうとう音を上げた。
「大将、あんたよくもまあいつまでも付き合えますね」
まだ若いにきび面の兵だった。隣の相棒に肘鉄食らわされて黙った。
「ま、明け方までいても死ぬわけじゃないしな。百個くだらん噂を聞いて、内一つが当たれば儲けものだ」
兵たちは顔を見合わせ、おずおずと小さな声で言う。
「その、――王家の血を引く娘に求婚したってのは、ほんとなんで?」
「そうだぞ。フラレたが」
「ははあ……」
翌日から、兵隊どもの視線が妙に生ぬるくなった。あんたでも失恋の痛みを知ることがあるんですねえ、……とかなんとか囁かれることさえあった。
ほっとけ。
さて、そのようにして顔を売ること何日目か。
フィリクスはアレクシアが人殺しをしたことを知った。ガイガリオン伯爵およびその息子が死んだ。妾とその娘は行方知らずになった。
貴族たちは眉を寄せ、社交界だけに通じる複雑な隠語で状況を伝えあう。フィリクスもここまでくればなんとなく意味がわかるようになっていた。
「なんてはしたない」
「妾を処断したのはよかったが」
「息子を処刑とは、妾の子を脅威と認めたようなもの」
「派手好きでいらっしゃるんじゃないかしら」
「ちょっとやり方が、ねえ……」
「処刑の場に立ち会ったそうだよ」
「王陛下は……ああ、元王陛下はそれをご覧になったと?」
楽隊が軽やかな音楽を奏で始めた。おそらく主催の老齢貴婦人が噂の広がりに耐えかねたのだろう。若い者たちが笑いさんざめき、ペアを作ってダンスフロアへ繰り出した。円を描く男と女たち。シャンデリアの魔法灯が装飾品をピカピカ輝かせる。
フィリクスはにこやかに後ろに下がり、ちょっと中座、という体裁を保ったまま外へ出た。風はまだ冷たく、火照った頬を冷やしてくれる。
笑いが浮かんで仕方なかった。
アレクシア。――もちろん彼女は自分自身の手を汚さなかったに違いない。そんなことをするにはあの手は小さすぎ、冷たすぎてよく動かないだろうから。
フィリクスはにんまりする口元を抑え必死に笑いをこらえる。
(君もとうとうこっち側か、アレクシア)
そうか。
君も。
尽きせぬ恨みを抱えて、それを行動原理にしていた人だったのか。
フィリクスはこの世でもっとも恨んで憎んで愛している人から目を逸らし、復讐など考えもしないことで心を守ったが、そうか――。
「強いな、アレクシア」
復讐を計画することは、敢行することは、とても辛いことだ。計画を練れば練るほど過去を思い出し、されたことが心に刻まれ、嫌なことばかりに囲まれる幻想を見る。フィリクスにはとても、耐えられなかった。
皇后レニノアの上にのしかかり、首に刃を突き立てるその瞬間を。
妄想することさえ恐ろしかったのに。
「やったんだな」
おめでとう、おめでとう。
満月へ向かってフィリクスは杯を掲げた。アレクシアがやり遂げたことに、乾杯する。




