リュイス②
それからの日々を、アミラコムに残ったカフィールに知られたら叱られるだろう。というか殴ってくれ。
フィリクスは最初、アレクシアに会うつもりなどなかったのだ。本当だ。
リュイス王城の占領がつつがなくレイヴンクール公爵家に引き継がれ、宛がわれた宿舎に落ち着いた時点で、フィリクスは点呼を取った。戦勝の余韻に浸る暇もないほどのあっけなさだったが、浮かれて何かやらかす者がいないとも言えない。自分の兵隊だからといって、だからこそ信じきるのは難しかった。
フィリクス自身も、勝ったあとの高揚感でうっかりやらかした思い出がないとはいえない。具体的にはカードに有り金全部ぶっこんだ。返ってこなかった。
広間に並ばせた兵隊は八十人と少し。十人の兵士に天幕がひとつ、この集まりが軍団の最小単位である十人隊である。十人隊ごとに十人隊長がつき、それが十個集まって百人隊になる。今回は十人隊八つがアミラコムから動かせるギリギリの人数だった。これ以上は防衛の手を抜けなかったのだ。
「持ち物点検するぞ。私物を全部出せ」
号令すると、動揺したのとしていないので半々である。
案の定、どっちの手荷物からも細かいものが出てきた。金のドアノブ、宝石飾りのついた貝殻のスプーン、窓枠から引き剝がしたらしい銀の飾り枠、などなど。王宮に入り込んですぐちょろまかしたにしては目端が利いている。
「俺は略奪はするなと命じたはずだが。――まあいい。盗みを行わなかった者は行った者を殴れ」
それでそのようになった。野蛮な打撃音とこらえきれなかった呻き声が止むと、息の音以外は静かになる。
「反省したか、野郎ども?」
兵士たちは声を揃えて応答した。天井が震え、声の衝撃でみぞおちが縮むほどの音量である。
「今回の作戦は多分に帝国上層部の思惑および俺個人の思惑が絡んだものであった。にもかかわらず諸君らはよく奮闘し、成果を挙げた。ドレフ兵の精強さを誇らしく思う。アミラコムにて規定の給金と俺個人から恩賞が支払われる。国に戻るまでに盗ったもんは返せ、以上。――じゃ、酒でも呑むかあ」
フィリクスがざっくばらんに手を振ると、歓声が部屋に満ちた。
無礼講の打ち上げが始まった。石造りの広間の巨大な暖炉に盛大な火が焚かれ、薪は節約など意に介さず放り込まれ続ける。王城の豪奢さとは確かに比べものにならないが、こちらの方が心からくつろげる。
橙色の光と湯気が天井に梁と人影を踊らせる。分厚い木の扉は閉ざされ、バリフが差し出してくれる杯がひたすら旨い。煩わしい王侯貴族との調整も、あの生けるヴァンパイアの王のようなレイヴンクール公爵の眼光も、今は思慮の外である。
長い樫のテーブルに次々と料理が運ばれた。香草をまぶして焼いた肉の塊、とろけさせた山羊のチーズ、山ほどの黒パン。贅沢にも蜂蜜とバターがある。中央には花瓶より大きい壺が置かれ、中身のブドウ酒を各自が柄杓で掬うのだった。
鎧を外した騎士たちはほどなくして肩の力を抜いた。素焼きの杯を掲げて乾杯し、十人隊長たちが入れ替わり立ち替わりフィリクスのところに顔見せにくる。――俺はこうして立ててもらえるほどのことはしていない、と彼は内心、思う。
軍隊と傭兵団のもっとも大きな違いは国の保護のあるなしだが、その本質はほとんど同じだ。名誉を重んじ、規律を尊び、仲間を大切にし、そしてリーダーには配下を食わせる義務がある。
ドレフ帝国において将兵の給与は肩書の元に一律である。末端の兵士、特に家族のある者は、それだけでは暮らしていけない場合も多い。若いうちはまだなんとかなるが、隊長格への出世もできないまま中年になり、さらに怪我を負うと悲惨なことになる場合も多い。それらの不足を補うのが略奪であり、商人や貴族からの借金であった。近頃はどうしようもなくなって、我が身を担保にする者さえいると聞く。
フィリクスは集まった隊長たちに、ごく自然に切り出した。借金に苦労している兵はいないか、今回の略奪を働いた者の上司を中心に。追い詰められた挙句急に辞められては困るし、首でも括られたら夢見が悪いからだ。
「いざとなれば俺が債権を買い上げていったん肩代わりするから」
と、酒で喉を湿らせながら彼は言う。これもよくある話だった。一軍を預かるからには部下のあらゆる面に目を行き届かせねばならない。
「隠し立てせず、打ち明けるよう言ってくれ。決して恥ずかしいことなんかじゃないんだ」
隊長たちは顔を見合わせた。乾杯と献杯が何度か続き、天気の話だの兵営で飼っている猫の話だのが前置きとしてあって、やがて中でもとりわけ古参の男が話し始めた。明日が晴れか曇りかの話と同じ調子で。
「分領公閣下、実は――」
そうしてフィリクスは、自分が先ほど切り出した一件がすでになされていることを知った。
「……お前たちの借金がすでに肩代わりされている?」
「はい。ある商会の名前で……あー、いえ。つまり、フュルスト商会が俺たちの借入書を握っております。それぞれ、間に何人か挟んでいますが」
彼は黒い目を見開いて、誤魔化すため酒をぐびりと飲んだ。
「詳しく話してくれ」
結論から言えばフィリクスは、フュルスト商会の手練手管について見誤っていたというほかない。兵士たちの背負う少なからぬ借金の権利は切り売りされ、流れ、大本のフュルスト商会へ繋がっていた。綿密な計算に基づいていることは話を聞くだけでもわかった。
つまり――彼女は最初からフィリクスの善意など信じてはいなかったのだ。寄る辺のない女が我が身と引き換えに保護を願い出るような、殊勝な取引を持ち掛けたのではなかった。
彼女はフィリクスを競争相手と見做し、制御しきれないかもしれない危険なじゃじゃ馬として扱い、正しく把握しようとした。彼を通り越して彼の部下たちに手を伸ばすことで、目的を達成した。
「はっ……ははは、ははははっはっは!」
フィリクスは机を叩いて笑い出した。愉快で愉快でたまらない。
騎士と兵士が水を打ったように静かになる中を立ち上がり、ブドウ酒を持ち上げて高く掲げる。
「作戦の成功を祝して今一度。――乾杯」
叫んで中身を口の中に一息に流し込んだ。少し間を置いて追随の声が上がり、そこかしこで喧噪が元に戻る。
フィリクスは空になった杯を置いて部屋を出た。引き留める声には片手を上げるだけにとどめた。
自分に宛がわれた部屋に戻ると、暖炉はぬくぬくと燃え寝台も整えられている。至れり尽くせりの世話焼きは、ひょっとしてここまでフュルスト商会の指示が通っているからなのだろうか?
「やれやれ」
苦笑いしつつ、手首に嵌めた指揮官の証の腕輪を外した。留め金の内側に紐に撚った羊皮紙が入っている。広げると、乏しい灯りの下に奇妙な文字が踊る。
――王なしの国。
――お前が王に。
「リュイスの血筋でもない俺に、ついてくる騎士がどれほどいるものかよ」
フィリクスは紐を暖炉にくべた。ぱっと上がったオレンジ色の光がとろりとした眠気を連れてくるが、燃え尽きるまで火箸でつつく。正体がなくなり灰になってもぼんやりとその作業を続けていた。
皇帝グリアリスから送られた腕輪の中に、この紐はあった。文字はカクカクした焼き印で、どこの誰が、どうして、と問う必要はなかった。焼き印の文字を使うのは皇帝直属の【影】の一味と決まっているからだ。
父と弟はこの進軍を機にリュイス王国を侵略しろと告げていた。
名誉のため、密約の返礼のための出兵だったのに、そうしろと言うのだった。
国内が疲弊し魔物の発生までが起こる中、どうして他国に手を伸ばせるのかわからなかったし、そもそもフィリクスにはそんな不名誉な侵略を行う気はない。最初から握りつぶされることは織り込み済みの、試験のような指令だったのか、あるいは。
「父上様」
……俺を国外に逃がそうとしてくれたのだろうか。
もし、そうならば。父は、弟は、まだ俺という一個人を見ていてくれると思っていいのだろうか?
答えはない。きっと永遠にないままだろう。身内同士で騙し合うのが皇族だ。
それに、そんな侵略は決してできない。名誉の問題や軍事的に阻止される可能性ばかりではなく、すでにフィリクスの兵士たちが金で縛られているからだ。
仮にここでリュイスの政権を握ったといって、貴族たちは従うまい。フュルスト商会は債権を履行し、アミラコム分領に残されたフィリクスのすべての権利と兵士たちの生活のすべてを奪うだろう。ドレフ帝国から増援が来る? いやいや。今、あの状態の祖国にそんなものを頼めば、冷害による不作と経済苦に苦しむ総督たちが目の色変えてリュイスの国土を蹂躙するだけ。誰も得をしないばかりか損をして終わるだろう。
借金の返済を拒否する者は制約の女神サーランに呪われて死ぬ。始祖王だって言っていたではないか、約束は、守るものだと。
「ははは……」
やっぱり状況がおかしかった。他国の心臓部である都に逗留しておきながら、何もできずすごすごと帰る、帰らねばならないことも、こんな状態に追い込まれたことに気づきもしないでいたことも。
「やっぱり君は面白いな、アレクシア」
その名前は甘かった。錯覚だとはわかっている。だが彼女を思い出すと、もう止まっていられなかった。土色の髪と青い目。小さな身体は抱きしめたらきっと柔らかいだろう。そのやわさの中に、いったいどれほどの手腕を隠している? 俺を油断させて、約束を守らせて、高笑いでもしているのか、アレクシア?
かすかに指先がわなないた。フィリクスは目を閉じ、現実を受け入れる。――彼はやっぱり、愛欲の皇后レニノアの息子なのだ。




