すべきこと②
フィリクスの行いは功を奏した……というべきか、幸いにも成功したというべきか。周辺領主とてアミラコム近辺の不作には悪影響を受けていたことが原因となり、それなりの『支援』を得ることができた。
国境を越えた先のリュイスの各領主にはまだ体力があったため、揉め事の仲裁などから返礼を見込めたのも大きかった。具体的には境界問題などで争い続ける村の代表者を二人、酒場に集め、その周りを取り囲んで平和的な話し合いが終わるのを待つ仕事である。根気がいる、地味な仕事だった。
兵士たちからフィリクスへ注がれる視線は厳しかった。それは彼が私財を含む財源から給金を支払えなくなったとき、敵意に変わり、不慮の事故と死を招くだろうと思われた。
私財。そう、皇帝グリアリスは彼に少なからぬ財をくれた。皇帝の子として。皇太子に選ばれぬかわいそうな子への餞別として。
足を向けて寝られない、という他ない。あの人の情愛は汲めども尽きぬ泉のようである。もちろんフィリクスが父の望む成果を出せなければ泡となる愛でも、――フィリクスは嬉しかった。
アミラコムの財政は落ち着き、冬が来る前に人々の食い扶持をもたせることができた。一段落である。
フィリクスはアミラコムへ戻り、猛然と働き出した。運河建築の計画を立てるため都ナルザクから建築家と測量士を呼び、地盤強度を測るため土魔法属性の魔法使いを呼び、横領をはじめちょろまかしをする小悪人を一掃するべく決算書類を漁る。アミラコムに元からいる秘書やら徴税官吏やら管財人やら、叩けば埃の出る奴らは山ほどいた。ほどほどの悪事で済ませている要領のいい奴は脅して、ほどほどから出過ぎた馬鹿は追放して……。寝る暇もない。
現場の対応は元からの仲間たちに任せた。彼らはフィリクスが考えそうなことを考え、フィリクスが言いそうなことを言えるからだ。実のところ、ジャンなどは自分の言っている言葉の意味がわからないだろうが、それでもあとでフィリクスが検分したとき過不足のない言動ができている場合が多いのだから驚きである。
カルザー村の話は、そんな動きの中フィリクスの耳に届いた。
「山間から赤ん坊の泣き声がする?」
「へ、へえ。誰もいねえとこからで……。おっかなくておっかなくて」
領地の見回りのため、乏しい収穫を終えた田畑を巡っていたときだった。見かけない顔の農夫が集団に混じっていることを誰何したところ、山間の小さな村から親戚を頼ってやってきた男だと判明したのである。まるで逃げるように、冬が来る前に?
フィリクスは馬を降りてその男を呼び寄せた。そしてその村のことを知ったのだった。
「ふうん……」
「き、聞き間違いじゃねえんで。村の連中もおっかながって。冬の間だけでも平野に住まわせてもらおうと……お許しください、お許しください」
「ああ、怒ってないよ。もういい、下がれ」
ぺこぺこしながら立ち去る農夫は、ひょっとしたらあとで親戚に叱られるのかもしれない。領主様のご不興を買って、もしうちの分の配給が減らされたら出ていってもらうぞ、とでも。
(悪いことしたかな)
と思いつつフィリクスは分領公の館に戻り、上質なオーク材を使っているわりに古びて雨漏りがするのを避けながらバリフを呼んだ。
「明日、山間に出立する。兵隊を五人集めてくれ。お前の見立てでいいから」
「僕もご一緒させてください!」
「そのつもりだよ」
バリフは飛び跳ねるように駆け出した。
フィリクス、バリフと五人の兵士が山間部に入ったのは、まさに明朝のことだった。アミラコムの南西に位置するドゥラセリ山、まろい丘にも似た小さな山である。
フィリクスは馬を急かして山へ分け入った。麓の村の粗末な家々から顔を覗かせる人々を一瞥もしなかった。
山道は細く、整備されていない。これまで一度も石畳が引かれたことはないだろう。岩肌に沿って蛇のようにうねる道を一行は進む。朝の冷たい空気が鎧の隙間から忍び込み、着込んでいるのに寒いくらいだった。吐く息が白い湯気となって立ち上る。振り返ればアミラコムの平原が、刈り入れの終わった畑が、土の色に黒く佇んでいる。
日が登り切った頃には完全に山間に没していた。騎士たちは縦一列となり、無言で進む。馬の声以外の声らしい声はなく、足場を確かめつつ進むフィリクスは焦りを抑える。
彼は行かなければならなかった。
やがて谷間が現れた。これ以上は馬で進めそうにない、と思った瞬間、視界が開け放棄された村が見える。申し訳程度に耕された畑と、麓で見たよりさらに粗末な掘っ立て小屋が数軒ある。谷向こうの岸壁にへばりつくように棚田があったが、収穫が見込めたようには思えない。
足元の小石が崩れ、谷へと転がり落ちていく。
「陣形、構え」
フィリクスは低く静かな声で言う。さすがに訓練済みの兵たちはいっせいに剣を抜き、所定の位置についた。何が何だかわからない顔のバリフが同じようにしたとき、カン高い絶叫が響いた。赤ん坊のような、盛りのついた猫のような声である。
丸く開けた形に開墾されたカルザー村をとりまく藪の奥から何かが飛び出た。みゃあああああああん、みゃあああああああああん。そのひどく醜い小さな生き物は騎士たちに向かって飛び掛かる。女子供の声に似た絶叫を発しながら。
緑がかった影が藪を突き破って躍り出た。ぱっと見は小柄な人影に似ている。手足があり頭があり胴体がある。だがそれは断じて、人ではない。子供ほどの身長だが背は曲がり、不自然に関節が多い手を振りかざして高く飛ぶ。細く節くれ立った指、に黒く汚れた爪が長く伸びてくっついている。濁ったドブのような緑と黒と灰色で構成された体表はぬらぬら光っていた。ところどころにまだらな斑点が浮き、カエルのように光によって複雑に模様を変える。異様な生臭さ、死にかけた人間の腐臭に似たにおいが生理的な嫌悪感を呼び起こさせた。
「互いの背中を守り合え!」
フィリクスは鋭く叫んだ。頭の上から降ってくる醜悪な物体の一撃を、剣で止めた。籠手が鈍い音を立てるほどの衝撃だった。
「隊形を崩すな! 二列を保て!」
藪からさらに数体のそれが飛び出してくる。小柄だが素早く、枝から枝へと跳び移りながら騎士の背中を狙おうとする。後衛の騎士が剣を突き出し、切っ先が一体の肩を貫いた。絶叫は耳障りこの上なく、憐れみの感情など浮かばないほどだ。どうっと倒れた一体に、残りのそいつらはいきり立った。
黒い血が土に飛び散り、湿った地面に染み込んだ。――つまり、殺せるということだった。
騎士たちの中にかすかに怯えがあったとして、血を見れば霧散する。剣で斬れば殺せる相手に対し、ドレフ兵が臆することはない。
若い騎士が剣を振るい、横合いから迫った緑の腕を斬り払う。もう一体がその刺客を狙うのを、フィリクスは馬を棹立ちさせ蹄で頭を潰して阻止した。
続けざまに身体をひねって肩で次の一体を弾き飛ばす。よろめいた隙に、古参兵が首を刎ねて殺す。
「お怪我は」
「あるわけがない」
山の静寂は完全に破られていた。怒号、悲鳴、金属音、そして荒い息遣い。湿った土の匂いは血肉の悪臭に上書きされ、谷を吹き下ろす風は止み、鳥のさえずりは消える。
ドレフ騎士は崩れない。
互いに互いの壁となり、切り裂き、突き、薙ぐ。無秩序に襲いかかってくる奴らに対し、兵隊の動きは統制され、無駄がない。
最後の一体が吠え声を上げながら突進してくる。フィリクスが振り返るより早く、バリフが叫びながらそれを付き殺した。
血反吐と、土と、警戒の視線と恐怖の匂い。それから頭上に青々と続く空の色。
フィリクスが警戒を解き、手を上げて戦線の解散を合図すると、一斉にため息がこぼれひとつの終幕となった。
彼は身軽に馬から飛び降りる。
「ゴブリン、見るのは初めてだな」
へなへなと崩れ落ちるように下馬したバリフが化け物を見るような目で主を振り仰ぎ、ひいひい肩で息をした。
「どこで誰が……どうやって……」
「死体は村人ではないだろう。おそらくどこかから連れてこられて死んだ者たちがいたはずだ。そしてその死体から魔物が湧いたんだ」
「意図的に、でしょうか」
フィリクスの隣にやってきた古参兵が問う。大したもので、息切れをすでに治している。フィリクスは彼の目を受け止めて頷いた。
「かもな」
黄ばんだ牙をむき出しに、濁った目をひん剥いて死んでいるそいつを軍靴で蹴った。ブーツの爪先が汚れたことに舌打ちが漏れる。
こいつらはすべてが醜悪だが、顔は特に見るに堪えない。
額は低く落ちくぼむほどで、魚類のように左右に離れた黄色い目をしている。白目が見えないほど黒目が大きい。瞳孔は猫のような縦型で、今や急速に白く曇りつつあった。
鼻は潰れて鼻孔は広い。耳は尖り、口はその耳元まで裂けるように大きい。覗く牙は乱杭歯、不揃いで黄ばんでいる。端から零れた唾液がダラダラ糸を引き、腐った肉の臭いがした。
「ゴブリンはまだ小型の範疇の魔物だ。どこかに発生源がある。少し休んだあと、それを探し出して燃やす。次の魔物の発生を防がねばならん」
とフィリクスは大声を出した。それから肩をすくめ、あの、皇太子時代のお決まりだった猫撫で声と笑顔を見せる。
「皆、ご苦労だった。俺の動きについてこられるのはお前たちしかいないと思っていた。みごと期待に応えてくれたことを嬉しく思う」
――彼が兵士たちの心を掴んだことを、バリフは全身で実感した。
少し休んだあと、フィリクスは率先して立ち上がる。
「さあ、もう一仕事だ」
そうして実際に、誰よりもよく働いてそれらを見つけた。
人間たちの死体。だいぶん前に殺戮されたらしい、無惨さを残した死体だった。数は数えきれないほど、だがひとつの盆地を埋め尽くすほど。カルザー村からほど近い、棚田のある谷のやや下方に置き捨てられていた。
人相さえ分からないほど膨れ上がり、折り重なるように倒れた名もしれぬ彼らは、腹を食い破られていた。内側から発生したゴブリンどもによって。それだけで、彼らが奴らを討伐した面目が立つというものだ。
ひとつの大家族、あるいは村一つ分ほどもいたかもしれない。子供らしい姿はなかった。それが唯一の救いだった。
谷を渡る強風に悪臭が流され、カルザー村まで届かなかったのだ。そのせいで魔物の鳴き声がするまで誰もここにこんなものたちがいることに気づかなかった。
あまりにも哀れなその有様に、誰もが言葉を失った。
兵士たちは黙々と魔力石のかけらを撒き、術式が仕込まれたそれに火をつけた。魔力が火種を増幅させ、瞬く間に青色の炎が上がる。死体たちはようやく死の安息を得た。
死者の思いの染みついた物品を持ち帰ればそこから新たに魔物が湧く――という話を信じたわけではないが、フィリクスはその場を炎が舐め尽くすまで見届け、何も持ち帰ることはなかった。火葬の現場でも緑のぬらぬらした体表の感触がぬぐえず、しきりに手を拭く兵士もいた。
アミラコムの館に戻った彼は皇帝へ鳩を飛ばし、出来事を報告した。
魔物は人間の死体から湧くものである。ゴブリンどもがあのまま放置されていたら、何が起きたか考えたくもない。魔物は共食いをする。共食いするごとに凶悪な種族へ変質し……最終的には人間を食い殺す大型の魔物が生まれる。
「まだ道具を手にする前のゴブリンでようございましたな」
山を下りてすぐ、そう告げる古参兵にフィリクスは目を丸くした。
「ゴブリンにも発達の段階があるようで。奴らも奴らなりに話し合いでもするのでしょうか、人間が放棄した空き家などに住み着いてしばらくすると、人間の道具を見様見真似で扱うようになるのです。今回は対処が簡単でよかった。爪や歯で攻撃してきただけでしたから」
「……棍棒だの包丁だのを扱うゴブリンもいるってことか?」
「剣も、槍もです。公」
重々しく頷いて古参兵は一礼した。あとには考えこむフィリクスが残された。
ドゥラセリ山は小さな山であり、カルザー村など地図によっては省略されている小ささだ。死んでいた人々について調べさせているものの、不可思議なほどに手がかりがない。
カルザー村から逃げてきたというあの男は、いつの間にか消えていた。誰かの手引きがあったに違いなかった。
やがて都ナルザクから報告書が来た。流れの商人の手に委ねられた、見知らぬ筆跡で。
――この件には関わるな、と。
フィリクスは天を仰ぎ、目を瞑る。帝国の構造がゆるゆると崩壊しつつある、その音が聞こえる気がした。




