すべきこと
ドレフ帝国のほぼ中心にある中央平原、およびファルナッテ湖へ向かってヴァルナザ河は流れる。【大氷河】から南東へ、アミラコムへと。ヴァルナザ河の支流であるラポー川、クルザード川、ナフタリア川には大量の雪解け水が集まり、稲作が可能だった。
ラポー川から引いた水を水田に湛水し、本来ならば住民を飢えさせないほどの収穫が得られるはずである。だが冷害により収穫量は激減、輸出や他地域との交易に回す用の米を食っても足りない。いくら灌漑技術があってもラポー平原自体が疲弊していてはどうしようもない。
冷害が収まったのちにむけてすべきことは思いつく。大規模な運河を建設し、灌漑へ向けて準備する。水車と水路を整備し、人力で水の流れを変えるなんて非効率なやり方をしなくてすむようにすべきだ。
しかし金がない。人も唯々諾々と従うか微妙なところである。なにしろフィリクスには信用がない……まだ。
では、どうするか。
「アミラコム分領に駐在する軍の再編成を行う。分隊長を現在の五人から七人に増やし、その中に新たに三人を入れてもらう。俺と、カフィール・ディアン、ラディール・サリアを」
豪華だが少し時代遅れな内装の執務室で、彼はたんたんと告げた。貴族間のごたごたが原因で、二年ほどアミラコム分領の代官をしていた中央官吏は鼻で笑い、
「そんなことで軍人たちが納得するとでも……」
と言いかけたが、フィリクスがそっと肩に手を置くと黙った。
彼は官吏より頭二つ分ほど背が高く、肩幅も広く、何より目つきが違った。戦場を知る者と知らない者、命のやり取りをしたことがある者ない者では、どうしたって隔たる。
フィリクスはにっこり笑った。皇太子時代の記憶がぱっと蘇り、我儘を押し通すときのためのとっておきの猫撫で声が出た。
「俺がしろと言ったら、するんだ。いいな?」
「……ひっ」
「俺が、しろと、言ったんだ。だから、するんだ。すぐにかかれ」
分隊長を全員解任し、その下にいた兵隊たちを卵の黄身と白身を混ぜるように攪拌して七つの隊に分ける。少し決算書類を漁っただけで、軍人たちが支給金をちょろまかしていたことは明白だった。彼らも理由はわかっていたのだろう、大人しく身を引いた。ひとつにはフィリクスが敵相手には容赦しない男だということが知れ渡っていたこと、もうひとつには、収穫が目減りし実入りの少ないアミラコム分領に見切りをつけて傭兵稼業に向かった方がいい、と彼ら自身が判断したことがあっただろう。
「領内の政治についてはドゥミル、ジャン=ヴァンフィリア、イシュリード・ナラザディに任せる。俺の計画通りにすればいけるはずだから」
「ちょっと待て、そんなもんいつ書いたんだ?」
かろうじて驚きの声を上げることができたのはイシュリードくらいのものだった。あとの二人は言葉もなく、その間に挟まれたバリフがうろうろと視線を彷徨わせる。
フィリクスは立ち上がって上着を羽織り、答えた。
「昨日。徹夜で」
「フィリクス。お前……」
はあーっと大きなため息を一つ、イシュリードは仁王立ちでフィリクスの前に立ちはだかる。
「なんだよ」
「お前って……本当に偉い人の息子だったんだなあ」
「そうだぞ。意外だったか?」
「ま、何かしら事情がありそうな生まれとは思っていた」
「そうか?――まあとにかく、ここのことは任せるから」
「それでお前は何をするってんだ?」
「そりゃもちろん」
フィリクスはにいっと笑う。浅黒い肌に窓から差す光が当たって輪郭が黄金色に輝く。彼はワクワクしていた。黒い目はきらきら輝き、黒髪さえ心なしか艶めくほどだ。そうして好戦的な表情をすると、フィリクスは驚くほど神の彫刻に似ていた。軍神サルカーンに。
サルカーンは元々人間だった。ドレフ帝国のどこか辺境の領主の息子であるが、その父親は雷神アルシュヴァ。領主の妻であった母親が水浴びをしている際に見初め、白鳥となってその胎に子を宿らせたという。
サルカーンが十八の年、戦争が起こる。彼は夜ごと焚き火の位置を変えて味方の数を敵に誤認させた。彼が手を振るとヴァルナザ河が氾濫し、平原を巨大な砂嵐が包み込み、敵を敗退せしめたという。
実際には、生まれ育った土地の水脈や地形をよく把握していた彼が、工兵によって水攻めや土砂崩れをけしかけた、というのが落としどころだろう。だがその逸話がサルカーンの死後、彼を神の座まで押し上げたのだ。
――どこか、似ている。
と、フィリクスの仲間たちは思わないでいられなかった。妻から生まれた夫の子ではない子供の話は、とうの夫婦がドレフ帝国の最高位を戴く二人であることも相まって、下世話な噂話として帝国内に流布していた。その子供というのが、今ちょうど執務室を出て鼻歌交じりに厩まで歩いていく、この美しくも危険な青年その人であるという話も。
いつだったかの酒の席で、ラディールがそのことについて尋ねたことがある。
「大将、あんた本当はどこから来た人なんです?」
フィリクスは火酒の杯を振ってへらへらした。酔いが回り色濃くなった黒い目をかっぴらいて、薄い唇が毒を吐く形に歪められた。
「俺はどこからともなくこの帝国にやってきたんだ。だからいずれ、どこへともなく去るよ。そういう運命を背負ってら」
……そんなことを言ったのを、本人はもう忘れているだろう。
フィリクスは強かった。誰よりも先に敵陣に切り込み、一番危険な役目を率先して引き受けた。ラズナディア騎士団があった頃から、むしろその前から、その危険でありながら豪快な生き方は傭兵たちのある種憧れだった。誰でもできることではない。彼に命を救われた者でさえ首を横に振るほど、危うい生き方と戦い方だった。
だが彼は、やったのだった。そして信頼を勝ち取り一つの群れに受け入れられ、今やもうひとつ、自らの群れに君臨する立場である。フィリクス自身は気づいていないのだろう。その稀有な成功がどれほど人の心を心酔させるかを。
彼はやり遂げた者だった。だから彼らは彼を敬愛し、ついていくと決めたのだった。
小走りになったバリフが早口に言う。
「あの、フィリクス様。俺は? 俺はすること、ないんですか?」
「お前は俺の小姓だよ。色々、指差したものを持って来てもらう。いやか?」
バリフはあまりに光栄すぎて頭がぼうっとしたらしい、さっと頬を上気させこくこく頷いた。フィリクスは思いがけないほど優しい目で笑った。
厩にたどり着くと、すでにフィリクス自身が厳選した兵隊たちが出立の姿勢で待ち構えている。
「つまりだ。――行っちまうのか、大将?」
イシュリードは頭をかきながら尋ねたときには、すでにフィリクスは馬に跨っていた。
「ああ、行ってしまうぜ、俺は。野盗を討伐して小金を稼いでくる。それから各国の優しい貴族様に食糧援助を求めてくるよ。アミラコムのことはお前たちが、周りのことは俺が引き受けた」
つまりは脅迫の旅というわけである。よくある話だった。職にあぶれた傭兵が徒党と組んで各国の領地を巡り、貴族を脅して対価を得るのだ。あるいは、大抵の家は隣近所と諍いの種を抱えているものだから、それを『合法的に』解決することで金をもらう。
フィリクスは争いの調停役になり、または強盗すれすれの流れの傭兵団の真似事をすると言っている。それは少なからず彼の名声を傷つけ、騎士の名誉を損ねるだろう。
だが生きるためには必要なことだった。誰かが泥をかぶらねばならないのなら、それは自分がすべきことだとフィリクスは決めたのだった。
「わかった。しょうがねえよな。金も米もアミラコムにはない」
イシュリードがあっさり頷くと、馬上でフィリクスは苦笑する。
「もうちょっと引き留められるかと思っていたんだが」
「――誰もそんなことしませんよ、大将! みんなあなたの覚悟をわかってます。僕ら六人はみんな。他の人たちもきっとすぐわかってくれるはずです」
最後の部分だけ小声にして、バリフが目を輝かせた。用意されていた馬に飛び乗った少年は、これから始まる冒険への期待に満ちている。フィリクスの小姓という特別の地位に就いたことで誇りにはち切れそうであることは、誰が見てもわかった。
フィリクスはバリフの頭をぽんと撫でると、馬を方向転換させた。そこには兵士たちがいる。アミラコム分領に駐屯しているドレフ帝国の兵士である。東方の戦線に何度も赴いては戻ってきた老兵もいれば、最近予備役から編成された若者もいた。フィリクスを値踏みする者、疑う者、憧れる者、隙あらば寝首を掻こうとする者も、そして誰かの間諜もきっと混じっていることだろう。
フィリクスは兵士たちの鎧と槍が問題ないことを確認すると、声を張り上げた。
「お前たちにはこれから、俺の名の元に傭兵団の真似事をしてもらう。否やは言わせない。何故ならアミラコムを救うには金がいり、食料がいるからだ。アミラコム公に任命された以上、俺にはアミラコムを救う義務がある。――皆、義務のため俺に従ってもらう。以上。出立!」
ごく簡素な演説だった。
自然な動作で先頭に立つフィリクスの馬のあとを、胸を張ったバリフが追う。騎兵たちが後に続き、歩兵たちもまた歩調を揃えて行進を始める。
味方さえあてにならない旅だが、それでもフィリクスはやり遂げるだろう、とイシュリードは思った。これまでそうしてきたように、これからも彼はそうするだろう。
……軍神サルカーンには妻がいる。大地と豊穣の女神ナーフィラである。
サルカーンが戦に我を忘れて焼け野原をこさえてしまうと、妻は裸足でそこを歩く。彼女の足跡のくぼみからは草が生え、花をつけ、種ができ、血の混じった泥沼にはやがて黄金の穂が波打つ。
本来なら魔物を産むはずの人間の死体は木々の苗木となり、それらは瞬く間に成長して木陰を作る。兵たちは剣を置き、跪いてナーフィラの通ったあとに口づけるのだった。
寒波の年に凍りついた川に彼女が触れると氷は溶け、魚が生まれて跳ねる。死んで凍った小鳥は蘇り、再び木の枝に舞い戻って歌う。冷害の年には? その記述は確か、どの神話にもないはずだ。だがきっと、ナーフィラならなんとかしてくれるのだろう。
彼女は春の風であり、大地であり、花である。夫サルカーン以外の誰も、その姿を見ることはできないとされていた。
民が祀るほとんどすべての聖堂には、彼女の彫刻か逸話を刻んだ石碑がある。四大女神の一人である春の女神はナーフィラの別人格か、サルカーンとの娘であるとされる。
サルカーンには己の所業を悔いる涙の神の側面があるので、戦場で得た傷を癒してくれる妻が必要だ。そしてナーフィラもまた、豊穣の奇跡を施す旅に同行する強い夫が必要だ。
二柱の神々はドレフ帝国の信仰の中心にあり、いつか帝国が危機に陥れば天より降臨し国を守ってくれると信じられている。
もしもフィリクスが忘れてしまったまつろわぬ神の予言が現実のものであるならば、そのときこそサルカーンとナーフィラに救いを求める者は多いだろう。
そんなことが起きないように、神ならざる人間は祈ることも許されない。




