ドレフ帝国②
沈黙が肌にぴりぴりするほど痛かった。母はこんな人だっただろうか?
フィリクスが覚えている皇后レニノアは、神々しいほどに美しい人であるはずだった。金糸と銀糸を集めて織った絹のような髪、光り輝く白い肌、神々が寵愛を込めて撫でたに違いない絶世の美貌、豊満な肉体。性格は優しくたおやかであり、男であるならば彼女に注目し関心を示さずにはいられない。ドレフ帝国の長い専制政治が産んだ、奇跡のような美女である……。
(昔は、俺がこの人を守るんだと息巻いていたような)
ぼんやりと思い出すのは同じ後宮の同じ宮で暮らしていた頃のことだが、すでに夢よりも遠い記憶である。
ひとつだけ言えるのは、彼女は彼などが守らなくても大丈夫であるということだ。十年以上離れていて平気だったのだから。母は皇后なのだから。
「何を笑っているの?」
母は整えられた爪の先をフィリクスに向けた。控えめながらむっとした様子で、フィリクスが謝るのを待っているのだと赤い目が言う。
「すみません。懐かしくて」
「ふうん。……わかんないわあ」
皇后はため息をつくと、薔薇水を一口飲んだ。髪の毛が顔にかからないよう、後ろから抑える役目の侍女がしとやかに仕事をする。そうだ、こういうこまごました仕事がたくさんあるところだった、宮中というものは。
「侍女の顔ぶれがずいぶん変わりましたね。時間が経っているのだから当然か」
母はぽかんと口を開けたが、すぐに上品に閉じた。口元を抑える指先のひとそよぎさえ、人の目を意識した、どこか芝居がかったこの上もなく優美な動きなのだった。
皇后レニノアは、そういう人だ。それだけなのだ。以上でも以下でもない。
「そういえば、ずいぶんと。ええ、入れ替わり、立ち替わり」
あやふやな回答をして、困ったように窓の外を見る。皇后が困っているのだからお前たちが会話を引き継げ、という意図を察した侍女の一人が、鈴を転がすような声音で言った。
「あなた様は本当に皇子様なのですか? まあ、あたし恥ずかしゅうございますわ、皇子様にお目通りするのでしたらもっとおしゃれしてくるんでしたわあ」
朋輩たちから軽やかな笑い声が立ち上り、消えた。フィリクスは侍女には返事をせず、窓の向こうを見やる母親の横顔へ問いかけた。
「ここ数年は粛清の波が止まないと聞いています。帝国は東方に戦費をつぎ込み過ぎたようですね。国内の不満分子を抑えておくのも限界なのでしょう。冷害と相まって、いや冷害が起こったせいで兵を退いたわけだから。軍人たちは当てにした恩給がもらえず、故郷に帰っても食うに困る。これで反乱が起きないわけはない」
「フィリクス!」
皇后の、彼女なりにとんがらせた声がキンキンと響く。
「皇帝陛下のなさることに口を出すとは不敬ですよ!」
「――その通りだ」
その声はこの場の誰にとっても唐突であったに違いない。
侍女たちが次々に壁際へ下がり平伏した。皇后レニノアも足を正して深く頭を下げる。ただ一人動かないフィリクスの首筋に、ひやりと刃が迫る――。
「私の意志は帝国の意志である。ゆえに私以外が口出しをすべきでない」
言いながら、皇帝グリアリスは片手を上げて近衛騎士を止めた。
フィリクスのうなじから圧力が退いた。彼は肩越しに振り返り、音もなく剣を収める騎士に片目をつぶって見せた。ハルサディルの反面教師的なやり方を間近に見た経験があってよかったと思った。
クックックと低い笑い声に彼は振り返る。どかりと胡坐をかいて座り、皇帝は目元を柔和に和ませた。豪華な衣装には香が焚きしめられ、最後に会った時より深く皺が刻まれた顔には往年の美貌の面影がよぎる。握った拳の色が白く、かすかに震えたのをフィリクスは確かに認めた。横に侍る皇后に目もくれず、疲れ切った父はフィリクスに笑う。
「すっかり変わった。見違えたよ。一人前の男になったようだ」
「いいえ。陛下に比べれば……」
「もう父上と呼んでくれぬのかい?」
「父上様」
フィリクスは言った。彼の意志より先に、ころんと言葉が転がり出た感じがした。前回の体面から年月が流れていたが、二人の距離は瞬く間に埋まった。
皇后は傍らで起こることに興味なさげに己の爪を見ている。楚々としたお人形の御役目通りに。――この人のことは、今更どうしようもない。
「アティフの小刀を手に入れましたので、献上に参りました」
フィリクスは笑みを消して言った。ぬう、と唸り声がしたのでかすかに目だけで見ると、あの忠実なヴァルシャード将軍が粛々と控えている。フィリクスは少しだけ心が温かくなるのを感じた。少なくとも、皇帝は一人ではないのだ。
「それは助かる。すぐに使者を使わせるゆえ引き渡せ」
「そのようにいたします。……引き換えと申しましては僭越ですが、」
「申せ」
「どうか俺の忠誠をあなたに誓わせてください、陛下」
宝石飾りのついたサンダルごしに、フィリクスは父の黒くなった爪を見ている。いたわしく、そして悲しい。皇帝という役職の持つどうしようもなさ。一人の人間が骨身を削って国に仕えねば回っていかない国家運営なんて、人倫に基づくと言えるのだろうか? 始祖王が知ったら嘆くに違いない。
「理由は?」
大きな手で顎を掴み、父は思慮にふけるように目を閉じる。もう片方の手は皇后の髪を弄ぶ。それはよい手触りなのだろう、それはそれはよい香りなのだろう。犬猫を撫でるような手つきにも、レニノアは無反応である。
「帝国の崩壊を押し留められるのはあなたではないからです、陛下。それができるのはおそらくエリシアスだ」
皇后がピクッと身じろぎし、将軍のため息はますます大きい。部屋の中に居並ぶ侍女も騎士も、この会話を聞いている。だがフィリクスがそんなことにたじろぐはずもない。
「今代の問題のツケを支払わされる弟を支えたいのです」
「一度逃げ出したお前がかい?」
「あのときはそうするしかなかった。あのまま離宮にいればどうなっていたやらわかりません。今は違います。自分の身は自分で守れますし、多少なりと力もある」
ふっと皇帝は笑った。フィリクスの耳に間違いがなければ、面白おかしくも誇らしげに、父親が我が子を誇る声そのままに。
大きな丸い完璧な形の目を上目遣いにして、母はフィリクスが次に何を言うか探ろうとする。白い繊手が力を込めて絹の上着を握るのを、誰にも見咎められないと信じている。彼女は宮廷を生き抜いた皇后であり、名家の令嬢であったが――フィリクスを嫌い、その命を狙ったことがある。
今となってはそんな事実はどうでもいい。執拗な食事抜きも暗い部屋に一人閉じ込められる罰も、庭を歩いていると木の枝が降ってきた事故も。もうすべて過去のことだ。
フィリクスがレニノアに幼少期の愛の返済を求めることはないし、今の彼女に対しても全く何も請求しない。だがとうの彼女には、ひょっとしたらそれが理解できないのかもしれなかった。
エミリオ・カヴィルからやってくるはずの見返りを数十年も枯れず待ち続け、衰えを知らぬまま夢を見られる彼女であれば。
「いいだろう。辺境の土地をくれてやろう。リュイス王国との国境地帯だ」
「ありがとうございます」
「アミラコム」
皇帝は声を上げた。文官たちが入室したかと思うと、目にも止まらぬ速さで組み立て式の机が出され証文が書き上げられていく。見惚れるほど流麗な飾り文字とインクの跡も冴え冴えとした達筆さ。
「冷害により農地が痩せている。リュイスとの国境を守り、小麦の流通を回復させよ。ああ――連れていきたい者がいればいくがよい」
「いいえ、誰も。俺が連れてきた男たちがいれば十分です」
「そうか」
皇帝が手ずから教育した優秀な学者や秘書がいてくれれば助かることはわかっていた。だがフィリクスはこの宮廷の誰も、彼の戦いに巻き込むつもりはなかった。
乳母は幼い彼を守ろうとしてくれたが、結局は宮廷から逃げるしかなかった。彼女は大人になった彼と関わりたくないと全身で示した。
手渡された書類を皇帝自ら検分し、フィリクスを指先で呼ぶ。彼はごく慎重に、ゆっくりと動いた。近衛騎士たちの鋭い視線を全身に感じ、絨毯の毛足の長さを指先と足裏に感じ、皇帝と皇后の纏う香がまったく違う産地の異なる香木からくるものだと初めて知った。
「アミラコム分領公子として、我はそなたを任命する」
皇帝の、皺がれた手の甲が伸びてくる。細くなった指が額に触れる。フィリクスは目を伏せたくなり、目頭が熱くなるのを感じる。――この人が衰えるのに合わせてその隣で成長していけたなら、どんなにかよかったことだろう。だが過去は変えられない。
「拝命いたします」
「心身を賭して帝国に仕え、我亡き後は我が子エリシアス皇太子に仕えよ」
「この身に代えましても。――俺がドレフ帝国のために戦わなくなるのは、エリシアスに拒絶されたときだけです」
皇帝は頷いた。将軍と騎士たちが壁際でうんうん唸る。窓の外には風が吹いている。
皇后だけが不服そうだった。何か言いたかったのかもしれないし、自分と夫の間にはない絆のようなものが、夫と我が子の間にはあることがいやだったのかもしれない。フィリクスはそこまで彼女を助けてやれないので、退室してから記憶を思い出すまで彼女が奇妙にぐずっていたこともわからなかった。
仲間たちの待つ控え室に戻ってきてようやく、フィリクスは小さな声で快哉を叫んだ。
「やったぞ。俺は領主だ!」
おおっと彼らは立ち上がり、フィリクスに歩み寄り、思い思いに祝福する。
「やったじゃねえか」
「土地持ちになりたかったのか?」
「へえ。どこですどこです?」
「裕福な土地かい?」
「大将ォ、頼むからこのおっかない短剣早く取ってくれ」
まだ線の細い鳶色の髪のバリフ。中肉中背だが誰よりも素早いカフィール・ディアン。赤ん坊を抱くように帳簿を抱えているドゥミル。ぼんやりした顔の、だが誰よりも喜んでいる純朴なジャン=ヴァンフィリア。どこからか失敬してきたらしい金の杯にワインを注ぎ出すイシュリード・ナラザディ。古巣の連中を見るのに緊張気味なラディール・サリア。
フィリクスは彼らのことが好きだ。かつて母に抱いていたのとは違う感情で、守ってやりたいと思う。同時に、彼らが同じ思いで彼の背中を守ってくれるのを知っている。
フィリクスは男たちと抱き合い、笑い合い、互いを称賛し合った。
皇帝の使者がやってきて、アティフの小刀を要求するまでそれは続いた。
十日の旅ののち訪れたアミラコムは聞いていたより荒涼とした、ひどい土地だったが、フィリクスはなんとかその統治をやり遂げようとした。
国の支援について、都ナルザクを旅立つ前詳しく調べておいた。食料や炭、浄化の魔力石などの貴重な物資は皇帝からの慈悲として各地に分配される……という建前だが、普通なら新興領主などに融通されない。そこはそれ、俺の父の名を言ってみろと官吏に迫り、無理矢理出させた。おそらくは皇帝がひそかに号令してくれていたのだろう、かなりの速さで物資が届いた。
それらをやる気どころか生きる気力さえ奪われかけた農夫とその家族たちに分け与えると、それだけで時間と体力を奪われる。新領主をうさん臭く思う代官どもはまったく働かないので尻叩きが必要だった。うんとキツイのが。
小麦の輸出業より田畑を立て直すことの方に金を出させなくてはならなかった。商業から利益を出している者たちに、そうではない分野に金を出せと迫ってもなかなか難しい。
既得権益を犯されるのを何より嫌う土着の地主たちを宥めすかし、足りない明らかに私財を貯め込んでいる豪商にかまをかけ、ときに暴力を匂わせるまでしてフィリクスは働いた。
馬の調教のようなものだ。
戦争より大変だった。
次第に、かつてラズナディア騎士団にいた頃、あるいはもっと前にフィリクスを知る傭兵たちが集まってきた。彼らは元からの仲間たちとアミラコムの兵隊たち、どちらにもよく馴染んだ。それもそのはず、ドレフ人とは戦争の民である。市民階級であれば必ずといっていいほど傭兵経験がある。
皆、フィリクスの無鉄砲な強さを知っていた。彼を尊敬する者もいれば、苦々しく思っている者もいた。彼が得た肩書に惹かれた者も、旨味だけ吸い取ろうとする者も。
フィリクスは彼らを平等に組織し、訓練と田畑の整備、また訓練、それから街道の整備に動員した。同じ動きを朝晩繰り返すごとにわだかまりはほどけ、掛け声は徐々にこなれて、すぐに彼らは彼らだけの軍団となった。彼の兵たち。いつか彼のため死ぬかもしれないとわかって集まってきた者ども。
フィリクスは強く、強くあらねばならなかった。そのことは苦ではなかった。帝国のために、と口では言いながら、胸の内に決して口に出さない女々しい思いを秘めた。
(もし、この土地をもう少しでも改善できたなら)
また君に会うことが許されるだろうか、アレクシア。




