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ルクレツィアの場合


 南国ファーテバの都シ・ロン。フュルスト卿のお屋敷といったら豪華絢爛、王宮をもしのぐと言われるほど。その薔薇園のほとりの東屋に、一人の女が座っている。


 ルクレツィア。姓はない。便宜上はフュルスト。戸籍上はまだガイガリオン伯爵夫人の称号を保持していたが、さすがに人前で名乗るほど恥知らずではない。

 うつくしい女である。ゆるく波打つ艶やかな黒髪に、切れ長の碧の目。古代の彫刻のような鮮烈な美貌。背は高く、動きはきびきびと俊敏だ。


 事実上の夫であるフュルストが新聞をはらりとめくった。

「おや、塩の値段が下がった。小麦の値段も安定したし、こりゃあ戦争は回避できたかな? 骨を折った甲斐があった」

「いいことだわね」


 と返したものの、ルクレツィアは経済に興味はない。夫と娘が楽しそうに何やら悪巧みをしていることは知っている。へまをしないでね、家族を危険に晒さないでね、と思う。二人がそんな失態をやらかさないのを知っている。


 彼女は薔薇園の花々が揺れるのを見る。思い出して、言う。

「今度、第三側妃様の慈善バザーがあるの。うちからもいくばくか寄付させてもらうわね」

「それはいい。新しいドレスを仕立てなさい。王族の方々にフュルストの名前を売り込んでおくれ」

「任せて。私そういうの得意よ。お茶会も夜会も、社交はみんな好き」


 ルクレツィアは貴族が好むものならなんでも好きで、得意である。

 人の顔を覚えること、人と関わることが好きだ。綺麗な服が好きだ。ぴかぴかの宝石が好きだ。髪を結うこと、侍女に梳かしてもらうこと、それから娘の髪をしてもらったように優しく扱うのが好きだ。息子たちが走り回るのを見るのが好きだ。この家が好きで、フュルストが好きだ。それ以上は何も望まない。


 かつて彼女には矜持があった。ガイガリオン伯爵、と名前を思い浮かべるのも汚らわしいあの男に、王の命令により泣く泣く嫁ぎ、フュルストと生木を裂くように引き離され、妊娠し、生まれてきた娘はあいつにそっくりで、そしてそして。矜持に頼って生きていこうと心に決めたのだった。

 貴婦人らしく無表情に、常に落ち着いた声で話し、必要以上のことで動くことも喋ることもない。いつでも堂々とした、それだけの女になろうと思った。そうして完璧でいればあの男への意趣返しになると思ったし、実際にそうだった。


 ――女のくせに愛想がない、血筋を鼻にかけた陰険な女、もう抱く気にならない、跡取り息子を産めなかった腹。

 誰に何を言われても平気だった。だってすでに娘はいたのだから、ルクレツィアは石女ではない。男の子を産めないのはあいつの責任だった。


 思いがけない再会をしたあの夜会。控え室で貪るように交わした秘密のキス。熱だけがあった夜。フュルストのまなざしひとつでルクレツィアは愛が死ぬことはないのを知った。久しぶりの帰宅時に膨らんだ腹を見てガイガリオン伯爵は激昂したが、すでに社交界に彼女の妊娠は知れ渡っていたので、なんの手出しもできなかった。


 双子の男の子たちをよすがに、愛を終わらせたはずだった。

「アレクシアは今どこにいるんですの?」

「うん?――ああ、リュイスにいるはずだよ。あなたのご両親に会ってくると言っていた」

「まあ、お父様怒らないかしら。不義理をしたのは私なのに、あの子が怒られたら不憫だわ」

「なあに、なんとかするだろう。僕らの娘だもの」


 ちょっと照れたように笑う夫の少年のような顔が好きだ。ルクレツィアの心に愛情があふれる。愛は死なない。この虎のような男はこれからも生きて、彼女と子供たちを守っていてくれる。彼女のすることを認め、一緒に家を盛り立てる仕事を共有してくれる。


 それにしても。

「アレクシアはどうしてあんなにあなたとそっくりなのかしら? 血は繋がってないのに」

「不思議だよなあ。双子より僕っぽいときもある」

「――ねえ、知ってる?」

 フュルストは新聞をテーブルクロスの上に置き、優しい顔でルクレツィアを見つめる。その目。ああ。何もかも捨てて彼の手に己を委ねてよかった。


「私に駆け落ちを唆したのはアレクシアなのよ。あの子がみんなで一緒に行こうって言ったから、私決断できたのだわ」

「ああ、知っているよ」

 彼は組んだ手を膝について、そっと思案する様子で遠くを見る。柔和な笑い声は商談のときとまるきり違う。取り立てた美貌ではなく、けれど目を離せなくなる顔だ。


「私だけ行ってと言われても、双子だけ連れて行ってと言われても、私は動けなかったと思うわ。貴族の女の義務に自らがんじがらめになっていたもの。それが、あの子に言われて――あの子の言葉を聞いて、ぱっと、目の前が開けて。今があるの。本当によかった。あのままガイガリオンにいなくて、よかった」


 しばらくの沈黙があった。薔薇園を吹き抜けた風がかぐわしい芳香となって二人の鼻腔を満たした。東屋の大理石はどこかぬくもりを帯びた冷たさで、手を伸ばして触れれば昂った熱を鎮めてくれる。


「僕もガイガリオンを殺そうと思った。あのとき。十八歳の、君の結婚のことをきいたあの日。でもできなかった。君は誇りに殉じるとわかっていたから」

「ええ。十八であなたに誘われても、きっとついていかなかった」


「何故だと思う、ルクレツィア? あの子の、アレクシアの何があなたを僕に走らせたんだろう? 僕がどれほど言葉を尽くそうが、双子が生まれようが、頑なに動かなかっただろうあなたの自己犠牲の心をどうしてあの子は動かせた?」

 ルクレツィアは目を伏せる。何故だかとても、恥ずかしいことを口に出そうとしている気がした。

「あの子は言ったのよ。あのね……ふふふっ。ガイガリオンを屋上から突き落として殺してくれるって。私の代わりにやってくれるって、言ってくれたの」


 フュルストは目を見開き、ふっと吹き出して低く笑い転げた。徐々に大きく、こらえきれなくなる笑い声は虎のよう。これから戦う予感に震えるけだものの立てる音。


「そうか!――ははっ、そうだったのか。それじゃ、奴はあの子の獲物だね」

「ええ、ええ。それはいつだって感じてた。あの子はガイガリオンを許さないし、あの男の妾もその子供らも許さないでしょう。己の立場を脅かされ、尊厳を侮辱されたのですもの。貴婦人の生まれがそれを許すわけはない」


「君は? ルクレツィア? 君の尊厳は?」

「私? 私はもういいの。だって――」

 うつくしい女は歌うように言った。

 風は柔らかく、男は優しい。彼女の世界は相互へのいたわりに満ちて、外界に向かって閉じている。この先開けることはなく、それでいいのだ。


 ここは男が彼女を守るためにつくった世界。ずっと欲しかった、憧れた、安寧がここにある。

「ほうっておいてもいずれ朽ちるものに心を砕く意味はないから。それでもあの子がそうしたいというのなら、権利を譲ることくらいわけないわ」


 ルクレツィアはそっと立ち上がり、フュルストの膝に乗り上げてキスをした。男の両手が身体に絡む、その安堵。お腹の下の方からせり上がってくる愛情に彼女は身を任せる。


 うつくしい碧の目の女は、赤い唇の端を上げてうっとりと呟いた。

「あの子は私たちの娘――だから、私たちのすべてを受け取る権利があるのだもの」


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