商人の娘②
次の機会は思ったより早く訪れた。そのとき、フィリクスたちは南国ファーテバに足止めされていた。一週間、暇に暇を重ねた末の午前中である。
貿易港ハクスの拡張工事のため、テトラスからわざわざ大理石を運んできた商人の護衛任務だった。ところが、工事業者が土壇場になって値切り交渉に入った。雇い主は激怒し、腰を据えた長丁場の喧嘩に入った。フィリクスたちを用いて相手側に襲撃をかけることまで視野に入れているとまで打ち明けられ、ならばこっちももらうもんはもらいますよと吹っ掛け、またこっちもこっちで口論が起こり……。
というわけで、思いもよらない休暇と相成ったわけである。まあ雇用状態は継続しているわけだから、その分の金は支払われているわけで、フィリクスたちとしては否やもない。とはいえ、身体は鈍る。南方特有のねっとりした空気にはまいる。
「だめでした……決着つくまでとことんやるらしいです……」
いい加減進捗ありましたか、と言いにいかせたバリフがとぼとぼと帰ってきたのを見て、一同は同じタイミングでため息をついた。
カフィール・ディアンがもう何十回となく研いだ短剣を振ってぼやく。
「大将、もう見捨てて俺らだけで次行っちまいましょうよ」
「だめだ。今後の評判に差し支える」
「でけえ図体と態度してっからに意外と社交的なんだから……」
「何か言ったか?」
「えへ」
帳簿を片手にしたドゥミルがはい、と片手を上げた。
「とはいえ、護衛は終わったのにこんなに拘束されるんじゃ割に合いませんや。宿泊費はまけといてもらわないと」
今いるのは客が持っている小さな宿舎だ。建物はどこもかしこも天井が高く、シャンデリアが下がっていない。風を通し、シャラシャラうるさく言うのを避けるためだ。大きな窓と、埃よけの薄布のカーテン。タペストリーのない剥き出しの壁。
フィリクスは寝椅子にどっかり寝そべった状態で、ひらひらと手を振る。
「わかった。次あったときにでも掛け合っておく」
「お願いします」
「――つってもなあ、こうも暇じゃだらけ癖がついちまっていただけねえわ。ちょっと日雇い取っ払いで仕事探してきていいか、フィリクス?」
ざっくばらんな口調で言うのはイシュリード・ナラザディ。フィリクスのことを呼び捨てにするのは一行の中で彼だけである。小さな暖炉にかがみ込み灰の世話をしていた年若いバリフが、むっとした顔で振り返るのに気にする様子もない。
「しばらくの休暇だと思えばいいだろう」
「野郎どもに囲まれて寝るしかねえののどこが休みだってんだあよ」
フィリクスは背もたれの装飾の方が興味深いふりをして目線を伏せる。室内には沈黙が落ちたが、決して居心地悪い空気ではなかった。むしろ逆である。
彼としては、雑魚寝部屋を割り当てられたことに不平はなかった。部屋の隅の壺にいつでも水がたたえられて、暖炉が小さいのも気に入っていた。これ見よがしに大きく、肖像画だの花瓶だのに彩られた暖炉には飽きていた。
うだる熱気、拭いても浮く汗、海風は時折腐臭のようにも感じられ、井戸水さえぬるい。口に入るものはどれもこれも極端に塩辛いかスパイスまみれ。雇い主とその交渉相手の話は遅々として進まず、毎日カッカと停滞した怒りの気配がする。
それでも彼の生まれた場所よりここはよほど息がしやすい。
下働きの声がして、呼ばれたジャン=ヴァンフィリアがのそのそ出ていく。彼らはくつろぐ野良猫の群れのように互いの存在を許容しつつ、くありと欠伸したり爪を見たりする。戦争の最中、停滞した戦線でじいっと突撃のラッパを待つときのように。
ほどなくしてジャンは戻ってきて、神妙な声でフィリクスを呼んだ。
「なんだ?」
「あー、その。ご都合よければ来れませんかって呼び出しですよ。……フュルスト商会から」
フィリクスは飛び起きた。
男たちは顔を見合わせ何とも言えない表情で口元を引き結んだ。
気づいたときには持っている中で一番いい、洗濯したてのシャツに着替えて出かけていた。フュルスト商会の印の捺された手紙は、ごく近い日程で会えないかという事務的な伺いに過ぎなかったのに。
アレクシアがいたのは貿易港ハクスが抱える繫華街の豪華な旅籠だった。使用人に名前を告げると、たんたんと二階に通された。リュイス式の絨毯を踏みしめ、タペストリーのある上等客室に案内される。彼女はバルコニーにいた。
土色の髪が風に揺れていた。何やら手紙の内容を精査している。真剣な横顔だった。
――胸の奥で何かが軋みを上げて回転を始めていた。心臓が思わず早くなるのを意志の力で押さえつける。フィリクスはこれが何かを知っていたが認めたくない。俺は母上様とは違うのだ、あんなふうに溺れたりはしない。
けれどアレクシアはうつくしかった。彼にとってはそれだけがすべてだった。
やがてレースのカーテンごし、アレクシアはふと顔を上げる。彼に気づいて驚いたように動きを止める。フィリクスは片手を上げ、彼女を見晴るかすのがその複雑な刺繍ごしでよかったと思った。宿舎の薄布だったら目も当てられなかっただろう。
「びっくりしたわ」
レースを持ち上げながら女は言った。午前中のまだ柔らかな日光が模様を通り、白い肌の上に花の影が散った。布から顔を出すときにアレクシアは少し下を向いた。けぶる睫毛の陰影が頬に落ち、その整った小づくりな目鼻立ちが強調される。海よりも深い夏の空のように青く澄んだ瞳がフィリクスを認めた。土色の髪がふわふわと踊り、表情がくるっと変わって歓迎の微笑みの形に崩れる。
室内の濃い影の中にいるフィリクスがどんな目で自らを見つめているかもいざ知らず、朗らかな貴婦人の声で彼女は言った。
「こっちへいらして。少しお話いたしましょう、フィリクス」
彼は海の真ん中に落ちた心地がしてそれは夏の空の色をした海で港付近の泥が捲き上げられて濁ったあんな場所じゃなくもっと、もっと沖合のきらめくように澄んだ、イルカだの得体の知れないだが死ぬほど麗しい魔物どもが通る航路のそば近くの海の色で、深さで、全部が見通され解体されそのまま彼女につるんと一息に飲み込まれ、それからまるでいらないもののようにぺいっと吐き出され見向きもされなくなるのじゃないかという恐怖に一瞬、胸が詰まった。
ものも言えなくなるのが怖かった、そんな軟弱な男を彼女はお呼びじゃない。そうだろう?
なので、ついついいつもの値段交渉のように食って掛かり、強いリーダーを気取り、足を組みかえ挑発し、とうとう止まらなくなっている自分に気づいたときフィリクスは静かに死にたかった。
誰か後ろから殴ってくれないだろうか。それか短剣で心臓を刺してくれ。
アレクシアはすっかり商人の仮面をかぶってしまっていた。フュルスト商会の女秘書。商会長の娘。借金を利用した汚い商売で騎士の忠誠までをも意のままにする、新興商会のやり手の女。
あああ、と胸の内にいるフィリクスは絶叫するのに、現実の方のフィリクスときたらぺらぺらと言わない方がいいことを喋りまくる。たぶん、彼女に舐められたら終わりだと――違う、格好悪いところを見せたくなくてとにかくのべつまくなし喋っている。
自分を大きく見せようとして。
穴があったら入りたい。
実のところ口はよく回るものの頭の中は凍り付いたまま、アレクシアが身じろぎするたびにその様子を目に焼き付けようとするばかり。
(小麦の話をしている)
ことくらいしか、もうわからない。彼の立場を考えればあるまじきことだった。
もしもここにカフィールかイシュリードがいたら、彼の望み通り気絶させて連れ出してくれたろうに。
(陰険だ、陰湿だ、恨みつらみを忘れないひねくれた女だ)
精神の均衡を取り戻そうと、嫌なことを思おうとすればするほどフィリクスは目の前の女の顔から眼を離せなくなる。
アレクシアは――皇帝グリアリスに似ていた。そしておそらくは、彼に生き写しの跡取り息子となっているだろう弟エリシアスに。この上もないほど純白な純真さを装うことができるくせに損得に敏く功利的で、計算ずくで動いたかと思えば思いがけないほど利他的に振る舞うときもある。要領よく最適な行動を取るのに、一番苦心するのは相手の心がどこにあるかわからなくなる瞬間があること。観察眼は確かなのに。
放っておけない。そう、彼や彼女にはそういう隙があり、自分こそがそれを埋める楔であると勘違いした人間を惹き付けてやまないのだ。皇帝グリアリスの忠実な部下、ヴァルシャード将軍は彼の幼少の頃からそば近くに仕え、死ぬときまで一緒だと豪語する。エリシアスにも気の置けない友人がきっとできたはずだ。そしてそいつらは、弟を自分の命よりも大切に慈しむはずだ。
残念ながらフィリクスはそういう忠誠を捧げられる対象ではない。彼は野良犬の群れの王、互いの欠点を補い合うチームのリーダーであって、皇帝ではない。
彼はそれを産まれる前から知っている。
そして、彼女はアティフの小刀を彼に差し出す。フィリクスは動揺する。
「後宮の侍従長であったという人でね……」
という説明に聞き入り、心臓がついに悲鳴を上げたのを感じる。ああ。――どうして知っているんだ? どうして。
北の離宮、満天の星、数学と天文学、一人の夜、喘息のリズム。
……もしも本殿に忍び込んでアティフの小刀を盗み出し、そのまま立派な大人になるまで隠れていられたら、皇帝になれるのかな。皇帝の証。みんなが大事に、大事にしているもの。
そんな妄想していたことを、どうして知ってるんだ、アレクシア?
もちろん妄想しているのは今、ここにいる彼である。アレクシアが彼の幼少期の思考まで知っていることはさすがにないし、彼女は目の前の復讐に夢中で彼個人の内面にまで気が回らない。目の前の人間が知っているキャラクターと同じ容姿と名前をしているからといって、本で読んだ知識だけで人格を量ろうとするほど愚かでもない。
結果としてフィリクスはアティフの小刀を胸に抱き、アレクシアの元を立ち去った。
宿舎に戻り、誰にも見せずに粛々と小刀に布を巻き、考え事に没頭する。
男たちは顔を見合わせ、六人でまとまってヒソヒソ話し合った。やべえとうとうおかしくなった……やっぱあれ恋愛すよ……ウソつけそんなわけがあるか、でもそうとしか、えらくめかしこんで出ていったしな……女に呼び出されて? あの斬り込み隊長があ?
やがてフィリクスが動き出すと、彼らはピタリと口を閉ざした。
「ドレフ帝国へ戻る」
フィリクスは静かに告げる。
「来たくない者は無理しなくていい。離脱することで報復は決して考えないから」
それだけを言って、荷造りを始めた。少なからず世話になった商人への不義理や、宿舎の費用について思い出すこともなかった。
……フィリクスはかつて、ドレフ帝国が欲しかった。皇帝になれさえすれば誰もが彼に跪き、大切にしてくれるに違いないから。
見果てぬ夢を夢だと割り切っても、心のどこかに憧れとしてその切れ端が残っていたのかもしれなかった。エリシアスの配下に降り、無能な兄として一生を道化役に徹する道を選ばなかったのは、いつかその切れ端が爆発して何かやらかしてしまわないか怖かったせいもある。反逆や離反はいつだって、押さえつけられていたものが爆発したとき起こるものだから。
帝国へ至る街道を馬で走り出したとき、心の中の切れ端は姿を変えた。馬蹄の響きに合わせて踊る女の姿になった。それは炎のように形を変え、スカートは回り土色の髪は広がっては萎んだ。
アレクシアが欲しかった。胸の奥に火が付いた。
そうだ。欲望。生きる上で必要不可欠なもの。欲しいものがあった彼らは生き残り、そうではなかった者は死んだ。欲望を、憧憬を、渇望を、夢を、愛慕を、なくした者から順番に死んでいく。人間とはそういう生き物なのだ。
そして驚いたことに、彼はもはや皇太子ではない。したいことをしていいのだ。生きるためではなく、ときには死ぬために動いてもいいのだ。彼の命は彼だけのもの。彼の人生は彼だけの時間。命も時間も、自分のためだけに使っていい。誰に捧げてもいいのだ。
南国ファーテバの早い日の入りが道ゆく彼らの背中を照らした。赤い日の光の中で目がくらむ。風の中から潮の香りが消え、なじみ深い下草の匂いがする。旅の匂いだ。始まりの匂いだ。
彼はわずかに顎を仰向かせて風を受けた。
そのときフィリクスは、それまでの人生で一番自由だった。




