ラズナディア騎士団③
フィリクスは彼らからさまざまなことを教わった。
まったくもって知らないことばかり。若さは最大の資産であり体力は三十五を過ぎたら急に落ち、傭兵として稼げるのはせいぜい四十までだとか。
資産を形成する方法。ただやみくもに金貨を貯め込むのはだめらしい。信頼のおける商人か、傭兵団の金庫に預けると、それを増やしてくれる仕組みもあるらしい。銀行はだめ、あれは金持ちのもの。
戦争が起きたとき、勝つ方を見極める方法。負ける方に付かなければならない場合、敵側についた顔見知りの傭兵に融通してもらい脱出する、あるいは保釈金で命を助けてもらうやり取りの仕方。仲間との連絡方法。
失敗してもやり直す方法。たとえば手足を失い傭兵として生計を立てられなくなった場合、どうすれば村や町で暮らせるようになるか。墓堀り人夫か処刑人の手下になるしかない、わけではないらしい。信頼さえしてもらえれば、手足のない男でも妻を娶って村の片隅で細々と生きる道がある、らしい……。
最初は何をきれいごとを真剣な顔で、と思ったし、俺を騙して何がしたいんだと思っていた。だが一年が経つ頃にはフィリクスは悟った。きれいごとはきれいごとだ。だが――彼らはそのきれいごとを本当にするため、寄り集まり、労わり合い、守り合って生活しているのだった。
フィリクスはここで初めて、実の子でない子供を我が子として育てる父親を見た。自分の親ではない老人の面倒を見る女を見た。一人の男とその前妻と後妻が仲良くしている。異母弟妹と異母兄姉が一緒に遊び、かごの作り方を教え合っている。
少なくともそこに裏表があるようには見えない。こんなことがあるのか。後宮で遊ぶ皇子皇女たちは、帰って母親の側室たちにあったことを逐一報告するのだ。それが次の茶会や園遊会での当て擦りの元になる。だから母親は子供に裏をかかれるなと教え、子供たちも母親同士の権力均衡を敏感に察知して、遊びはたやすく虐めに変化する。
母レニノアは息子のフィリクスを決して異母兄弟と遊ばせなかった。彼女が犯した罪のことは誰しも知っていたから、息子の言動を通じて自分がさらに謗られることになるのを恐れ、少しでもきっかけを掴ませないようにしたかったのだ。彼女はフィリクスにあなたは特別だと教えた。あなたは皇帝と皇后の子、暗殺の危険もある、他の子たちと遊んじゃいけない、と。
フィリクスがそれを信じていたのは何歳までだったか。確か、喘息が激しくなる前まで無邪気にも信じ込んでいたのだと思う。父も母も自分のことがあまりに大切すぎて、この皇后のお部屋から出してくれないのだと。
「フィリクス、君はひょっとして金の使い道がないのか?」
とハルサディルが目を見開いて言ったとき、フィリクスは二十三歳になっていた。
「……悪い、ですか」
「いいや。ただ驚いている。君のように若い男といったらいくら金貨銀貨があっても足りない頃じゃないか! 賭け事、武具の新調に手入れ、馬、馬具、それから可愛い女の子たちへの贈り物。どうだいフィリクス? 本当は欲しいものがいっぱいあるんだろう? ハルおじさんにだけ言ってごらん」
と言いながらにやにやにじり寄ってくる団長を、近いです、とフィリクスは押し戻した。
集団の長の額をぐりぐり押しても殺されない騎士団もあるのだった。
「別に、欲しいと思わないから手を出さないだけです。馬も武器も貸与してくれるじゃないですか、それでいいんですよ」
「もったいないなあ。もうちょっとカッコよくすれば女の子はみんな君に首ったけだろうに」
ハルサディルはため息をつくのだった。不可思議な男だ、とフィリクスは思う。誰よりも戦を嫌っているのに参戦するのをやめない。どうやら戦争で稼ぐこと、騎士団や傭兵団の存在を必要悪だと感じているらしい。テトラス国境でのこの戦争に参加するのを率先して決め、それはラズナディア騎士団の総意でもあった。
彼は自分の天幕の前にある自分の焚火にハルサディルを招いた。団長は恭しい芝居をして、簡素な椅子に腰かける。この椅子にももう慣れた。
テトラスの山岳地帯は野営地を張るのに適していない。地面は硬く凍り付き、天幕の基軸が安定しないのだ。頑丈な荷馬や牛でさえ疲弊している。
「で、まさか本当に金の話をしにきたわけじゃないでしょう。何か話があるんでしょう?」
故郷を失ってから実に四十年近く、ラズナディア騎士団は中央大陸のあらゆる場所を彷徨ってきた。団長は何度も交代し、団員の顔ぶれは変わった。ラズナディア騎士団がいやで飛び出していく子供たちもいたし、フィリクスのように受け入れられて入隊した者もいた。ハルサディルを始め誰もが彼らを止めなかった。戻ってくる子供たちもいれば、遠くの土地で誰に知られることなく死んでしまった子供もいた。
――もう、限界だった。このままではラズナディア騎士団はラズナディア騎士団でなくなってしまう。
「ああ。次の団長は君だと私は思っているんだが、君の真意を知りたくて」
フィリクスはしばらく黙った。この会話も、団長の膝の角度も首の揺れ方も、すべて筒抜けである。天幕生活に秘密は存在できない。
「俺、よそ者ですよ」
「一番強い。私ももう年だ、そろそろ一番ではなくなる」
「あんたの指揮がなければ騎士団は今のように動けません。瞬く間に空中分解だ」
「それでいいんだよ。こんな無茶苦茶な騎士団がよくもまあここまでもったものだ。私もすっかり老人になってしまった」
と笑う男はまだまだ現役で、身体の厚みも足取りの確かさも、フィリクスが会った時とまったく変わらない。
彼はフィリクスに剣術と指揮のすべてを教えてくれた。フィリクスの人生に師匠と呼べる人がいるとすれば、それはシンクレア先生とこの人である。
「この戦争で手柄を立て、適当な貴族に取り入って小規模な土地に入植する。ドレフ帝国に吸収されたあの土地、恋しい故郷を諦めるのは辛いが……このままでは、子供が生まれなくなってしまう。そこまで疲弊することはできない」
フィリクスは頷いた。
「絶対にその方がいいと思います。健康な男女はともかく、それ以外にとって放浪生活は厳しい」
「そうだとも――フィリクス」
「はい」
「我々と君の間には、軋轢もあったと思う。だが私は君への支払いを遅らせたことも、誤魔化したこともないし、我々が君を拒絶したこともなかったと記憶している。君がいやになればいつでも立ち去れるようにしていたが、君はそうしなかった。ならば、君もまた少なからず私たちに愛着を持ってくれているのだと、そう考えていいね?」
考えるまでもなく、答えは決まっていた。フィリクスとしてむしろ安心した気持ちだった。そうとも、彼はこの目的のためこの騎士団に招かれ、居場所を与えてもらったのだ。思った以上に心地いい居場所だった。彼らは優しく、厳しく、フィリクスの知らなかった、必要なことを教えてくれた。
もしもラズナディア騎士団に所属していなかったら、彼はいつかどこかの酒場でいらない喧嘩を買って刺されて死んでいたと思う。自分の中にそれを厭う気持ちさえなかった。
生きるために生きられるようになることがフィリクスの目標だった。宮廷の誰かの意図と関係なしに、ただの人間として生きることが。
だがただの、本当に平凡なただの人として生きるには、人生は長すぎた。フィリクスには目標がなかった。自力で生きられるようになってから、自分が歩んだ道のりがあまりに豪華に舗装された一本道だったことに気づいてゾッとした。命のやり取りをするようになって初めて、生きていることの実感と楽しさを知ったが、その道へ踏み入るのはけだものに成り下がることだった。
このままここにいても、なんらすべきことはない。より多くの手柄を立てて出世することは、けだものの状態であの豪華さの中に舞い戻ることを意味した。
ラズナディア騎士団はフィリクスを受け入れてくれたが、血の繋がりのない彼を本当の意味で包んでくれるわけではない。だが彼らはフィリクスが憧れる人間としての生き方を体現している。せめてその光に近づきたくて、だからフィリクスはハルサディルへ頷く。
「俺はあんたたちが好きだ、ハルサディル団長。ラズナディア騎士団のためになる戦いなら本望だ」
フィリクスは胸の手を当て、獰猛に笑った。
「やれるだけのことはやってみよう」
そうしてテトラス国境におけるその戦争は始まった。
ラズナディア騎士団はドレフ帝国の辺境総督が雇った混合傭兵団の一員として参戦した。敵はテトラス王国が差し向けた、やはり傭兵団である。領土をめぐる小競り合い、とはいえ仮にも国家と国家の戦いであるからどちらも面子がかかっている。
傭兵は体のいい捨て駒にされる。だが、こちらも黙って使われているわけではない。
フィリクスは斬り込み隊長として前線に出張るかたわら、敵側の傭兵団と内通した。激しい混戦状態と見せかければ監視役の目を欺くタイミングはいくらでもある。相手の責任者に接触し、ほどほどのところで撤退を打ち合わせ、その通りにした。ラズナディア騎士団から一人の死者も出す気はなかった。
ハルサディルの方も大いに忙しい。総督の代理人の天幕に呼び出され、頭ごなしに怒声を浴びせられてもニコニコしている彼のことを、フィリクスは大いに尊敬する。
「誰だって自分と家族と友人たちに死んでほしくないのさ」
と、殴られた頬をさすりながら彼は言う。
「だから私たちを矢面に立たせる。彼らは賢い。だが私たちの立場が彼らより下なのは、私たちが無能だからではない」
「その通りだ。俺たちはやられっぱなしにはならない」
フィリクスは前を向いたまま歩み続ける。代理人のきらきらしい天幕から離れられてせいせいした。出口付近で休めの姿勢を取ったまま、ハルサディルと他の傭兵団長たちが言われっぱなしになっている声を聞くのは辛かった。
そうとも。フィリクスは腹が立って仕方ない。流れの騎士団とは、傭兵団とは、いつだって利用されっぱなしである。
もしも彼があのまま宮廷で育ち、正規軍を指揮できる立場になっていたら同じようにしただろうか? 傭兵を犬かもの言う障壁のように扱っただろうか?
エリシアスは?
弟もまた、そんなことをする大人になっているのだろうか。
「戦争は意地の張り合いです。いずれ向こうが折れる。ドレフ帝国の方が頭数が多い。これ以上だらだら死人を増やしても意味はない」
フィリクスは言い、ハルサディルは頷く。
「効果的な勝利がいる。君の名を近隣諸国に轟かせるようなものが――できるか?」
「できる」
フィリクスは前を見ている。
「恩を返すよ」
たとえそのために死んでも悔いはない。
彼はその夜、ため込んだ給金をとびきりの武器に換えた。刃に魔法術式が刻まれた、珍しい古い剣である。
翌朝、開戦の角笛が鳴り終えるのを待たず、彼は単騎で敵に突っ込んだ。やってやる。今、まさに、やってやる。心は奇妙に静かで、ただ、ここで死んだとて悔いはなく悲しんでくれる人もおらず、血の繋がったすべての人間たちは彼がここで死ぬことを知らないのだ、という――諦念があった。
凪いだ夏の空のように澄み切った心で、フィリクスは敵の斬撃や弓を避ける。軍馬の強壮な脚はみごとに彼を敵陣深くまで連れていってくれた。
頃よいところで馬の首を叩いて戦線から離脱させ、彼は自分の足だけで戦場を駆けた。目指す天幕はすぐそこだった。テトラス王国の国王代理人がいるところである。そっちの代理人は別名義があったはずだ、ええーっと、公爵だったか伯爵だったか。どっちでもいいか。
フィリクスがその男の首を刎ねたとき、彼は満身創痍に近しい状態で、だが黒い目がらんらんと煌めき肩で息をして興奮していた。身体じゅうを傷つけられ、十人以上に囲まれて斬りつけられ、それさえ楽しんでいた。
「どうしたんだ? やってみろよ。もっとやってみろ。俺を殺してみろ」
と、呪文のように呟く自分の声をどこか遠くで聞いていた。
指揮権を持っていたもっとも尊いテトラス人が死んでしまったので、なし崩し的に戦争は終わった。ドレフ帝国側も剣を引かざるを得なくなる。これはしょせん、貴族と貴族が平民を駒にして行ったゲームの一種なのだから。対戦相手がいなくなったのに推し進めるなど盗賊と変わらない。貴族は同じ貴族から節操なしで礼儀知らずと罵倒されるのを何より嫌う。
ラズナディア騎士団を含めたドレフ帝国側の戦闘員、およびテトラスに雇われていた傭兵団もまた解散する運びとなった。
停戦交渉が始まったころ、フィリクスは自分の天幕の中で包帯まみれになって呻いていたので、どのような条件が出されたのか知らない。伝え聞いた話では功績の中に彼の名前も挙げられ、ハルサディルは大いにフィリクスを宣伝し持ち上げて、多くの褒章を勝ち取ったという。よくやってくれたものだ。やれるだけのことをやった甲斐があったものだ。
解体式の梁に支えられた布天井を眺めて寝込み、熱にうつらうつらしながら、フィリクスの頭の中でわんわんと響く声があった。
――いつか、肝心なときに、正気づく。
――上っ面だけじゃなく……心まで変えなきゃ……。
――俺はドレフ人として。
――ドレフ人として、きちんと。
――待つな。それを、待つな。
――自分で迎えに行け。
――役立てるだろうか? 俺は役立っている?
熱が下がって身を起こしたとき、枕元には相変わらずぶつぶつと不平不満を垂れ流すドゥミナ婆と孫娘のジャフィナがいた。フィリクスの身体は他の傭兵に引けを取らないほど強靭である。すでに傷口に薄皮が張り熱は下がった。ジャフィナは包帯を取った彼の上半身を見て顔を赤らめ、祖母にこづかれていた。
そんなやりとりも、すべて意識の外である。
フィリクスはただ、考えている。
――お前は危ういところに立っている。
けだものと人間の中間地点に。いつの間に、こんなところにいたのかまったく自覚はなかった。
「敵陣に一人で斬り込んで大将首を取ってくるだなんて、正気の沙汰じゃないんだよ!」
と怒るドゥミナ婆の提言を待つまでもなく、異様なことである。
そうか。こういう傭兵がたくさんいるのを彼は知っていたのだ。ハシル・ミルシャディアは正しかった。くだらない諍いで仲間を殴り殺した元傭兵で、フィリクスに最初に戦い方を教えてくれた人。
夜になり、フィリクスは一人、天幕の中に寝転がる。
彼はようやく、自分に自我があることを知った。




