邂逅②
フィリクスは小さな洞窟の壁にもたれて座った。左足を伸ばし、か細い苦痛の悲鳴を上げながらズボンの生地を引き破る。太股がえぐれて裂けていた。赤い出血がどばりと溢れ出し、新鮮な肉の匂いが鼻腔を満たす。傷の縁はすでに青あざじみて黒く変色していた。よくない傾向だ。悪いものが入り込みかけている。
彼は幅広の手で顔をこすり、頬をはたく。気持ちが持ち直すと、粛々と仕事を始めた。
下腹に締めた帯から火打石と針と糸を取り出す。洞窟の空気は意外に清涼で、吹き溜まった枯れ葉と小枝が片隅に積もっていた。真ん中にそれらをかき出して、舞い上がる埃だの小動物の死骸だのに眉をひそめながら火をつける。彼の火起こしはなかなか巧みである。あっという間に暖を取るに十分な火ができると、針を炙って消毒した。
本当なら浄化の術式が刻まれた魔石か、少なくとも強い酒がほしいところだったが生憎どちらもない。傷口からは血がドバドバ溢れ続けている。このままでは危険だった。
すうっと息を吸って、吐いて。フィリクスは傷口を縫い始めた。すぐに玉のような脂汗が額に浮かんだ。拭う間も惜しんで作業を続ける。ちくちく、痛い痛い。ああ。
(ルミオンもこんなふうに痛かったのか?)
と、心の片隅に死人の顔が浮かんだ。ルミオンはか細い男だった。髪の毛は不自然に伸びて、目の焦点はうつろで、あまり食べず――排泄をするたび苦しんでいた。
フィリクスとてもう少年ではないのだから、今となっては彼がどんな『用途』の奴隷だったのかわかる。軍神サルカーンは戦う者には等しく祝福を与えるが、愛欲に溺れる者を嫌悪する。その大神殿に仕える者は皆、結婚も交際も許可されない。男女で右翼と左翼に祈る場所が分けられ、厳格な規律によって異性を見る機会も稀である。……だから、欲を吐き出す相手が必要になる。たとえば行く当てのない若く弱い奴隷だとか。
神官どもは称える神の性質をいつの間にか曲解したのだ。そしてそれはドレフ帝国の、いや、人間というものの本質なのだ。
言い伝えは変質し、尊い教えは他者を縛り叩くための棒になる。犠牲者はどこまでも犠牲者であり続け、権力者もまたそのままである。
かつて彼を産んだ女が経験した百年の恋が、くだらない不倫と男に貢ぐための言い訳に堕落したように。
ぶちっと音をたてて皮膚がちぎれた。傷のあまりに近くに針を刺してしまったらしい。激痛の中生じた更なる激痛に、フィリクスは荒々しく舌打ちした。彼は自覚していないが、それは獲物を逃がしたけだものが我が身を噛んで鬱憤を晴らすような荒々しさだった。
ようやくすべての縫合を終えて玉結びをし終えたときには息が上がっていた。フィリクスは壁に背をついてぜいぜい肩を揺らす。汗を拭い、カサカサ逃げていくムカデか何かを腹立ちまぎれに踏み潰してやろうと目で探したとき。
そいつがいた。
ありえない。
だがいたのだ。
「ル……ッ」
フィリクスは自分の名前の一部にしたその苗字を叫び、剣を抜くのと立ち上がるのを同時に行おうとした。だができなかった。
彼の身体は硬直していた。心臓の音だけが耳元にうるさかった。
(まずいまずいまずいまずいまずいまずい)
油断していた。完璧に。
周囲は敵ばかりだとわかっていたはずなのに。誰も助けてくれないのだと自覚していたはずだったのに。昨日の味方が今日の敵になり、明日には密告者になる。フィリクスが受け取るべき報酬や彼自身を狙って、誰もが敵に回る。
彼は何も持っていないのに、持っていないからこそ誰かの腹を満たす獲物に分類されるのだ。クソったれめ。
そいつは、ルミオンの姿かたちをしたそいつは、ゆっくりと彼の前にある焚火の周囲を巡った。二本脚で立ち歩くのに苦労しているのが見てとれる、ヨタヨタした歩き方。
(トロール、ゴブリン、の魔力ある個体)
敵が一歩歩くごとに、動けないフィリクスは心の中で叫ぶ。
(化けられるなら、ウェアウルフじゃなくルー・ガルー)
だって死人が立って歩くわけないのだから。こいつは化け物だ――魔物だ。
(あと、何がいた。人間に化ける奴は、なんだ)
汗が顎の先から滴り落ちて、石に当たりポツンと音がした。動けないのに耳ばかりは鋭敏だ。
(馬ならケルピーなのに)
と、思った。
「なんだ、そうなの?」
奴は笑って、瞬きの間に不自然な馬の形を取った。ゾッとする。見た目はポニーに似た、小型の馬だ。だが下半身は魚で、たてがみは魚のひれである。狭い中に吹き込む風はやみ、海の匂いまでがする。本能的な恐怖にフィリクスは背筋を震わせた。
「あれ、違うの? 嫌い? わかった」
そいつ、敵、奴、はまた形を変えた。
驚くほどうつくしい女へと。土色の髪の毛がくるくると腰まで伸びて、すらりとした手足に絡み付く。意志の強そうな眉と吊り上がった目元。すっきりした鼻筋、薔薇の花のような唇からは今にも辛辣な文句が飛び出てきそうで油断ならない。
背は低いがウエストはギュッと締まっていて、今にも奮い付きたくなる。髪をさらりと肩に流す手つきの妖艶さ、まだ自身の魅力に気づいていなさそうな若さ、持ち上げた可愛い顎の形から貝殻のような耳の小ささまで、何もかもが麗しい。
「あ――」
フィリクスは呟いた。金縛りは解けていた。
彼は瞬時に臨戦態勢を取った。剣に手をかけ、唯一の逃げ道を目の端に入れ、油断なく化け物を見据える。こんなわけのわからない奴相手には逃げるが勝ちであるが、怪我や谷底の地形を計算に入れると難しいかもしれなかった。
(ならば、せめて一撃入れて死ぬ)
というところまですぐに覚悟を決められるのが彼のよいところであり悪いところでもある。
「あ、ああー」
そいつはきいっと叫んで頭を抱えた。文字通り、両手で土色の髪の毛を無惨に乱して地団太を踏んだ。
「もうっ、どうしていつもこうなるの。私はあなたに会いたかっただけなのに!」
「は?」
「何よっ、もう。何がいけないの、何が嫌なの? この子の姿ならあなた、なんだってぽかんと言うことに聞き入るものだとばかり。……んもうっ、やんなっちゃう。分からないったら」
フィリクスは静かに瞬きした。どうやらこいつは、交渉の余地があるのかもしれなかった。言葉が通じる、ということは、会話ができるかもしれないということだ。
そして彼は今のところ、カザールに受けた傷のためなるべくならもう戦いたくないのだった。ここで突っ込んでいって返り討ちにされるような初心者ではないのだから。
「なあ、お前は言葉を話せるか?」
「あら? なあに、聞いてくれて? ありがたいことだわね、それは」
女――のかたちをしたそいつはピイピイ吐き捨てるように言うと、苛立った仕草で両手を広げた。
「話をしてくれるってんならこっちこそ願ったりだわ。そう警戒しないでったら。私――私は全然、強くないのよ。ただの伝令役。ただのその他大勢なの」
フィリクスはゆるゆると剣から手を離した。何故だか、とても重要なことが間違っている気がした。そう、目の前の女の姿と言動があまりにそぐわないのである。
こいつはこの女の尊厳とか魂とか理性とか、とにかく人間がその個人であるために必要不可欠な何かを踏み躙っている……フィリクスはそう直感した。
少なくとも、この土色の髪の女はこんな表情や喋り方をしないのだろう。そのことがわかるのだ。何故なのか、理由は知らなくとも。
「あっ、また怒った。もーう。じゃ、これなら?」
と呟くなり、そいつはくるりとその場で一回転する。
皇后レニノアが豪奢な衣装のまま一礼した。
「これならよろしくて? おお、我が子よ。お話をしましょうね……」
気づけばフィリクスはそいつの喉を掴んで洞窟の壁に押し当てていた。縫合の上から再び出血が始まり、頭はくらくらして視界はきいんと歪み、だが滾る怒りと憎しみばかりはごうごうと燃えてならない。
「その姿は、」
彼はひしゃげた声で言った。
「その姿だけは、許さない」
「……わーか、ったよう」
到底声が出せる、息が吸えるような隙間はないはずなのに、そいつは確かに笑った。苦笑したのだ。なんてことだ。ひらひらと手を振り、瞬時に姿を変える。
いつだったか、見たことがあるようなないような容貌の男になった。イ・シュド宮殿の侍従のお仕着せを着ている。フィリクスがしぶしぶ手を離すと大げさに咳をしてみせ、喉をさすって舌を出した。
「あーあ、痛かったあ。もういいや。話しやすい話し方で話すね、私はそのようにできているのだもの。その方がよっぽどか楽しいや」
都ナルザクの中央訛りが入った話し方である。……母にもこの、気取った鼻に抜けるような癖があった。フィリクスは深呼吸した。
自覚が湧いた。
怒りと憎しみ。彼がずっと見ないようにしていたもの。
それはずっと、彼の中にあったのだ。母の姿を見るなり激昂してしまうほどに。
「なんだ、まだ死んでないじゃん。いいじゃん」
とそいつは笑った。
間近に見てようやく、そいつが傷から流れる血より赤い目をしていることにフィリクスは気づいた。
「種族は?」
「うん?」
「魔物なら種族があるはずだろう。名乗れ」
「いやだなあ、私は魔物ではないよ」
と、そいつは笑う。嫌な笑い方だった。借金取りがこれから売られていく小娘を見てするような、馬鹿にした顔。人格を知らない侍従の顔がこうして利用されているのは気分が悪いが、――土色の髪の彼女の姿をされていたときより腹立たしくなかった。
やっぱり理由はわからない。そいつは呆れたようにクツクツ笑う。
「わかんないよねえ。よく考えてみたら君が彼女にああしてこうなるのは、これからもっと先の話だった!」
「貴様、心が読めるのか」
「座れば? ねえ? もう失血できついんじゃない?」
フィリクスは魔物を見る。そいつは無感動な薄ら笑いを浮かべて見返す。
彼は結局そのようにした。壁に背を向けて座り、騒ぎのせいで消えかけた焚火に次の小枝をくべたのである。燃やすものがなくなる前に、この話にけりを付けなければならないだろう。
「で? お前は誰だ? 話とはなんだ?」
「一気に話すなよう、と言いたいところだけれど、そうだよねえ。知りたいよねえ。……ええと、つまり私は大昔にここにいたまつろわぬ神の残滓なんだけど」
「は?」
「いやーそうだよね、わかんないよね。ごめんよう」
そいつはへらへら頭をかいた。困ったなあ、などとひとりごちる、横顔にさえ嫌悪が湧く。フィリクスは嫌々頷いた。話が進まないからだ。
「ええと、つまり。これは世界の秘密についての話なんだ」
と言いながら、そいつは話し出した。到底信じがたい話を。
「始祖王が死んで、この世界が異種族との共存ではなく追放を選んだとき、こっちに残った連中も少なからずいたんだ。人間の伴侶がいたり、生まれた土地を愛していたり、さまざまな理由でね。当然、迫害されたけど。死んだ奴らも大勢いたけど。でも、生き延びて子孫を残した奴らもいて。そいつらの子孫は大抵、魔力持ちだった。やがて人間たちが国を建てると、生まれ持った魔力を用いて頭角を現す奴が出始めた。だって魔力があるって、素晴らしく強いってことだからね。うくく」
――妙な笑い方だ。
「で、ドレフ帝国の皇統というのはダークエルフの血を継ぐ者が始めたんだけど」
フィリクスは呻き声を押し殺す。足の傷の痛みに集中する。話を中断させたら、こいつは二度と同じことを喋らなくなるだろうから。
「他の異種族の血は薄くなっていくばかりなのにねえ! テトラス王国のエルフの血とか。もうほとんど人間なのに。でも、君らの血は、不思議と濃いんだよねえ……」
名も知れぬ魔物はうっそりと笑う。血の色の目がこっくり濃くなっていく。悪夢のようだ。いっそ何もかも自分の妄想であれ、とフィリクスは願った。




