グリアリス
皇帝グリアリス。ジズモーン大帝の曾孫。
父イシュラディティに疎まれ、西の辺境で宦官ザリスッタと佞臣カルミアスに養育され、長じて類まれな軍事的才能を発揮してのちはイシュラディティの後継者として都ナルザクに邸宅を与えられ、出世して自力でイ・シュド宮殿への訪問権を勝ち取り、やがてイシュラディティが死ぬと自ら帝位に就いた。
イシュラディティの他の子供たちは軒並み殺戮された。そもそも、イシュラディティ本人もまた暗殺だったと言われる。半人とされるグリアリスはまったく悪びれた様子もなく、自らもまた二十六人の子供をつくった……。
侍従の絶叫によって天幕を跳ね上げた近衛騎士たちが迅速にフィリクスを捕らえ、膝を尽かせ、その首筋に向かって曲刀を振り上げたそのとき、彼の脳裏にあったのはそんなことだった。
親父はやっぱり俺のことを見ても何も思わないんだと納得した。それもそのはずだ。親殺しも兄弟殺しも平気だったし、皇后を蔑ろにすることだって平気だったんだから。宮殿から出奔した皇子のうちの一人のことなど、何も思わないだろう。
「それまで」
と聞こえた、透明で深味のある澄んだ男の声がまさか自分のことを指すとは思わず、間近に迫った死が消えたことにフィリクスはハッと息をつく。ハッ、ハッ。今更になって冷や汗が滲んだ。
「もういい、下がれ」
「ですが、陛下」
「お前は皇帝に口答えするのか?」
彼は首を傾げた。戦場にほど近いところに腰を下ろしているとは思えないほど、分厚いクッションに座っていた。絨毯は目の覚めるような緋色で、ドレフ帝国の歴史が貝が渦巻くように刺繍されている。くらくらする。フィリクスが二度と戻らないと決めた歴史が、二重になって、または飛び出て、目に突き刺さった。
――親父がいる。そこにいる。
ふと、ここに母上様がいたらと思った。あの悲しい、かわいそうな人がいたら。きっと喜んだだろう。彼女は自分の人生に飽き飽きしていたが、それでも夫の歓心を買おうと努力していた。一族のために。自分自身のために、彼女はそのチャンスを決して逃さなかっただろう。
近衛騎士が下がり、天幕の中に静寂が訪れる。侍従があたふたと姿を消すと、残るは皇帝グリアリス、ヴァルシャード将軍、それから跪いたままのフィリクスだけである。といっても、見えないところには騎士だの暗殺者だの、皇帝の身を守るための生きた剣がたくさん控えているのだろうが。
「剣」
と、ヴァルシャード将軍が言った。フィリクスは腰に下げた小ぶりなナイフを外して横に投げた。絨毯の上にぽとりと落ちた粗末なナイフの皮の鞘。火の爆ぜる音。
「陛下、こやつがいかがいたしましたので?」
「知らんのか、将軍。ああそうか、そなた後宮には供をせぬものな。――我が子ぞ」
「なんと」
「二人で話したい。外せ」
「いかにご下命とあれどそればかりは。決してお言葉を疑うわけではありませぬが」
「やれやれ、偉くなると頭も固くなるらしい。のう、フィリクス? 困ったものだ」
と、父は笑う。フィリクスはぽかんと彼を見つめた。
腰まで伸びた黒い髪がさらさらこぼれ、黒い目が黒曜石のように光る。始祖王はそれに加えて白い肌を持っていたという。異界から召喚された彼は旅をし、ドラゴンを倒し、異種族を時空の狭間へ追放した。そしてダークエルフの女王と契ってのち、彼は立ち去り、中央大陸の真ん中に女王と浅黒い肌の赤ん坊が残された。――それがドレフ帝国の興りである。
手で促され、少年はのろのろ立ち上がる。父親は彼を手近に差し招き、酒杯を差し出した。濃い酒精の香りにフィリクスは頭の芯を殴られた心地になった。
ヴァルシャード将軍の厳しいまなざしも、背中に感じるどこかの誰かの殺意も、今は意識の外である。
「本当なら少し夜風に当たりたいんだが、あいにくお忍びでね。兵に顔を見られてはいかんのだ」
「ご自重ください」
「お前には話してないぞ、将軍」
将軍は肩をすくめた。筋骨隆々の身体に鎧を着込み、毛むくじゃらで、サンダルから突き出した足の指の爪は伸びている。そんな人がするにはいかにも無邪気に見える仕草だった。
対する皇帝はクッションの上でくつろぎ、伸びる脛を金の足輪が幾重にも彩り、額にはトパーズ飾りのついた金環を嵌めている。黒髪に生える黄色の長衣は一枚の布を身体に巻いてピンで留める形の上着だが、たっぷりした生地の質といい縫い目の揃い方といい、長旅のためのものには見えなかった。
きらきらしい皇帝の姿にフィリクスは母を思い出した。
「さて、フィリクス。死んだと思っていた」
たんたんと皇帝は告げる。まるで明日の天気の話をするように。だからフィリクスも同じ温度で返答した。
「いいえ、俺は死んでいませんよ。ここにいます」
「地位を捨てるのか? 生まれに付属する義務と責任はどうしたというのだ?」
「あなたが親兄弟を殺したのと同様に、放棄して逃げようと思います」
瞬間、殺気が膨らんで肌を焼かれた。とフィリクスは思った。
自分が震えていないのが不思議だった。何かがすとんと腑に落ちた感触があった。浮かんだのはハシルの死に顔だった。それを見つめながらフィリクスは続ける。背筋に知らない冷たさが行き来する。
「お話を邪魔したことは謝罪します。わざとじゃありませんでしたし、あなたの視界に入ろうとしてしたことでもなかったのです。俺のことは放っておいてください。俺は――もう戻りません。帝国にも、宮殿にも」
酔いは冷め、喜びからも目覚めた。ごく幼い頃、まだ皇太子殿下と呼ばれていたとき、皇帝の膝に乗ったことがあるのを思い出した。皇帝に顔と名前を覚えられたと思えば、どんな人間だって嬉しさに舞い上がり、忠誠を誓ってしまうだろう。それまで心にもなかった忠義だって芽生えるだろう。
そうだ。皇帝とはそういう地位のことで、グリアリスはその地位にふさわしい能力を生まれながらに持っていた男なのだ。
「俺は皇太子の器じゃなかったし、皇帝の器でもない。そもそも、知ってたんでしょう? 俺はあなたの息子じゃない。血統も違えば正義にも悖る。生かしてくれたことには感謝しています。でも、俺は母の罪そのものだ。エリシアスが生まれて、俺の存在価値はなくなりました。もう解放されたいんです」
フィリクスは最後にぺこりと頭を下げた。絨毯についた手が温かかった。頭のつむじに法律上の父親の目を感じていた。恩義を感じているのは本当だと、信じてほしいと思った。
やがてフィリクスが顔を上げると、グリアリスは優しく微笑していた。そして彼はフィリクスに向かって手を広げた。
それだけで、少年は動けなくなる。覇気というべきか、威圧感と称するべきか。皇帝には口を開かず他者を意のままにする素質があった。ぴりりと引き締まった空気の中、男は口を開く。金環とトパーズが炎の色にきらめく。
「ひとつ、エミリオ・カヴィルは皇統の流れを汲む者で、お前にも皇帝位を要求する資格がある。ひとつ、私はレニノアを許している。よって彼女にもお前にも罪はなく、罪を詐称する者は帝国において罪人である。最後に、ひとつ――私が復帰を命ずればお前は従わねばならぬ。それを理解しているか?」
フィリクスはまっすぐに皇帝と向かい合い、深く頷いた。
両手は膝の上でわなないたが、彼本人にも、はたまたグリアリスにも知覚されなかった。天幕の幕と幕のあわいに潜んだ者たちだけが気づき、かすかに反応した。
「……はい」
「なら、いいんだ」
皇帝はぱたぱた手を振り、にっこり笑った。毒気が抜けたフィリクスがごくっと喉を鳴らすと、ヴァルシャード将軍が大仰なため息をつく。
「身構えずともよかろう。我が君が息子と呼び、そのように会話なされた。あー、ならば私にとって、あなたは皇子そのものである」
背中に感じたいくつかの気配が消えた。皇帝は大ぶりの金の腕輪を手首から外すと、フィリクスへ投げて寄越した。
「あっ」
「餞別。そなた、おそらくこれからもずうっと大変だからの。おそらく十年くらいは」
「じゅ、十年」
「何、長いようで短かろうよ。子供時代とはそういうもの――じゃ、下がれ。元気でやれよ」
フィリクスは腕輪を握りしめる。膝で移動して、さっき投げたナイフを取り戻した。
皇帝グリアリスはくありとあくびをして、手を振る。クッションの上で座り直すと裾がさやさや、貴婦人のそれのように鳴った。すでにフィリクスに興味はないようだった。戦場の程近くにあっても長い黒髪はぬばたまに輝くのに、まるきり近所の気さくなおじさんである。この世に並ぶ者なき地位にはふさわしくないほど。
フィリクスは将軍に促され、天幕を出ようとした。ごく小さな声で皇帝が彼を呼び止めたのに気づけたのは、きっと幸運だったのだ。そうだろう?
「我の後継者はエリシアスだ。皇后はレニノアだからな」
囁き声より少しだけよく通る声。皇帝の声は、大理石の広間のはるかかなたから人々に語り聞かせるにふさわしい。
「皇后の子が帝位に昇るべきである、ゆえに――同じ立場の子として、エリシアスが望めば助けてやってくれ。フィリクス」
皇帝は戸惑いさえ見せず流れるように言い足した。
「我が子よ」
フィリクスはそんな一言で揺るがない。耳当たりのいい、望んでいた言葉を聞いたからといって足を戻すことはないのだ。すでに彼は選んでしまった。自分で選んで、決めたのだ。
自由に風のように生きること。生きたいと願ったこと。たとえ誰に振り返えられることがなくても。
フィリクスは逃げることと尽くすことしか知らないが、それでもその献身の果てに望んでやまない何かを見つけることができるのを知っている。一度も報われたことはなくても、いつかそうなる日が来ると確信している。
だって彼は皇后の子で……皇帝の第一子なのだから。そうだろう?
「言われなくても、陛下」
フィリクスは笑う。皮肉なことにその笑顔が皇帝にとてもよく似ていると、ヴァルシャード将軍だけが気づいて眉を上げた。
「俺はエリシアスの味方で、ドレフ帝国の民です。母も弟も国も愛しています。呼ばれれば必ず行くし、裏切られても恨むことはない。――あんたのことだって、今でも愛してますよ、親父殿」
フィリクスは天幕を持ち上げて外へ出た。夜風は冷たく、ほてった頬を優しく撫でた。
背後で哄笑が起こり、そば近くを歩いていた兵の一人がびくっと顔を上げる。生きた彫刻のごとく微動だにしないのが売りの衛兵だというのに。
フィリクスはくすっと笑ってしまった。歩き始め、そのまま振り返らなかった。
過去は天幕の中に温かく横たわり、彼を息子と呼んだ。
それだけで十分だった。
彼は明け方まで隊商の天幕を探したが、見つからなかった。それもそのはず、隊商の主はとっくの昔に行方をくらまし、娼婦の天幕から出てきた他の護衛兵どもはそのことを知って激怒して後を追った、一連の喜劇の上演後である。楽しくふらふらしていた報いにしては、なかなか過酷な幕引きだった。
太陽が出た頃には、皇帝どころか将軍の影も形もない。そもそもそんな行幸があったことなど誰も知らない。一夜の夢より儚くたちが悪い。
当てにしていた報酬はパア。荷物と言えばナイフが一振りと小さな革袋に入った干からびたパンひとかたまり、それから帯の中に金の腕輪が増えただけ。
フィリクスは自分で自分を笑って、歩き出した。東方戦争は常に兵力不足である。募兵所は探せばすぐに見つかった。
「なあ、まだ空きはあるか?」
と天幕の隙間から声をかければ、中にいた兵士たちは顔を見合わせたあと、面倒そうに入れと顎をしゃくる。
フィリクスはそうした。
兵士として支給された槍も鎧も決して質のいいものではなく、彼が死んだら軍に返さなくてはならないものだ。だがそれでも古びたナイフよりかなりましで、名もなき傭兵たちの刃こぼれした剣よりはるかにまし。
今いる場所に満足することを覚え、フィリクスはやがて父と母の顔を忘れた。エミリオ・カヴィルやシンクレア先生、ルミオン、ハシル・ミルシャディアの顔も。
エリシアスの幼い顔と笑い声だけが残っている。




