元傭兵
驚いたことに、フィリクスはまだ背が伸びた。大したものを食べてもおらず、あまり寝てもいないのに。身体の厚みは増し、首と手足は太くなり、肩と腰はがっしりした。いっとき、全体のバランスが取れず彼はずんぐりした体型に見え、だがすぐに背骨がまっすぐ伸びてひょろひょろした印象に戻る。それを繰り返し、繰り返し。
ルミオンを看取ったあの冬から一年が経ち、彼はどう見てもよいものを食べ育まれたドレフ人になった。
まるで宮殿から解放されたことを悟った身体が、彼の意志に応えたようだった。
フィリクス自身は、骨の痛みも肉の疼痛も喜んで受け入れた。なにしろこれからは一人で生きていかなければならないのだから、頑丈になるに越したことはない。
傭兵団には相変わらず入れず、隊商の荷物持ちから護衛兵になったのが夏のこと。見様見真似の剣術は不思議と身体にぴたりと合った。教わっていない技を何度も練習し、誰もコツを教えてくれないから見て考えて覚える、という方法を貫徹したところ、遊び半分ではあるが剣を教えてくれる傭兵も現れた。
フィリクスと同じく、隊商に雇われた護衛のうちの一人だった。名はハシル。ハシル・ミルシャディア。罪を犯し傭兵団を追われた元傭兵だった。これはこの上もない幸運だった。ドレフ人は傭兵になることが多いが、その剣術にはれっきとした派閥がある。師匠は弟子に、父親は息子に技や経験を教え、それ以外の者に大切な知識を分けてくれることは滅多になかった。
かつてシンクレア先生はドレフ人を群れで暮らす異種族の子孫と言った。その伝説を信じたことなどなかったが、実際に市井に降りたフィリクスはその意味を痛感することになる。
彼にまともに剣術を教え、いや、彼をまともな人間の一人として扱ってくれたのは、一年を経ても今のところハシルだけだったからだ。
他の男たちが稀に何かを教えてくれるとき、フィリクスはまずそれが嘘か冗談か、はたまた本当のことなのかを熟考した。たとえ仕事で必要な伝達であっても嘘である場合があった。最初のうちは、彼らが何故そんなことをするのかわからなかった。そんなことをしても隊商の進みがのろくなり、フィリクスはそいつを恨み、悪いことばかりではないのか、と。
だが――次第にわかりつつあった。この世は敵と敵がいがみ合う場所であり、味方というのは同じ傭兵団や一族や家族の中にしかいないのだ、と。世の中で出会う者がすべて敵ならば、恨みを買うことさえ利益になるのだった。適当なことを言って戸惑うのを嘲笑えば憂さ晴らしになり、嘘を教えてそいつが死ねば自分の分の報酬が割増される。最初から敵だと思っているからそういう扱いができる。
ハシル・ミルシャディアとフィリクスは群れのはみ出し者だった。だから互いに寄り集まり、それは小さな二人きりの群れのようにも見えた。他の男たちにとってはそれさえ笑いの対象だったが、構わなかった。
生き残るためならどんな恥辱も耐えられた。フィリクスには人と触れ合った経験が少ない。馬鹿にされて当たり前だ。
隊商が小休憩を取るとき、そこが高地であれ平地であれ、気が向けばハシルはフィリクスを稽古に誘った。短く整えた髭とがっしりした身体つき、ドレフ人らしい浅黒いはだ。フィリクスは彼に憧れていたのだろうか? あるいは、憎んでいたのかもしれない。なんといってもその稽古はまったく、ハシルの八つ当たりに近しかったから。
彼らは実剣を使った。その方が覚えるとハシルは言い、本気の突きを出した。
「ほい、右。ほい、左。あーあ、また死んだぞお前」
「ぐっ……」
フィリクスの方は言葉を出す余裕すらない。必死に相手の動きに食らい付き、身体で勝ち負けの筋を覚えるしかなかった。
そんな彼らを他の護衛兵たちは笑い、雇い主の隊商さえも笑う。ときどき、口笛や手拍子や野次が飛ぶ。そんな日々が一か月は続く。
隊商が向かっているのは東の土地だった。さすがに、東方戦争の戦地ではなく、その後方地点。軍の補給部隊に物資を届けるのが仕事だった。隊商の主は豪快な笑い声と恰幅の良さ、それから気前の良さがご自慢の壮年男で、フィリクスのようなずぶの素人に毛が生えた者でも雇われたことからして、その美徳が本物であることが知れよう。
実際は、仕事の過酷さに対比して報酬が少ないためベテランの護衛兵が集まらなかったのだ、ということをフィリクスが知るのはもう少し後のことである。この世はそんな仕事と雇い主ばかりだということも。
一行は荷馬に積めるだけの荷物を積み、平原と渓谷を越え旅を続けた。二か月で行って戻ってこられるはずの道のりは三か月になり、夏が終わり、秋の落ち葉が街道を埋め尽くしても続いた。主に食ってかかる傭兵、二、三人連れ立って離脱する者たちも出始めた。
フィリクスは黙々と足を動かし仕事をした。護衛兵、といっても彼は戦ったことはない。野盗のたぐいが現れると率先して動くのは元傭兵、なんらかの事情で『群れ』を離れ一匹狼としてこの隊商に加わった者たちであり、フィリクスの仕事はその間に荷馬と商人たちを安全な場所に誘導することだった。
ハシルは当然、他の元傭兵とともに一番前で敵と相対する役である。フィリクスはそれが羨ましかった。
敵と戦えるということは、一人前ということだからだ。
やっと東方の戦地の気配が漂い始めるまで、長い長い道を歩いた。放棄された村があり、荒れ果てた街があった。田畑には略奪の燃え残りがあり、街道の傍らに首を括られた死体があり、食い残された家畜の残骸を見たりもした。小さな丘の上の一軒家で、家族が互いに抱き合って絶命していることもあった。
いずれも、フィリクスの心を動かすことはなかった。それらは彼の中でまだ実感のない、他の知識と同じ棚に投げ入れられた事象に過ぎなかったし、あるいは皇太子と呼ばれていた時代に叩き込まれた平民はものいう家畜という価値観もそれを手伝っていたのかもしれなかった。
いずれにせよ、フィリクスは人が死ぬことを自然に受け入れるようになった。ハシルが死にかけて呻いているのを見つけたとき、東方部隊の補給地は歩いてあと二日の距離に迫っていた。自分に剣の手ほどきをしてくれた男がぜいぜい息をして苦しんでいるのを見つけ、フィリクスは肩から革袋を下して斜面を滑り降りる。
野盗が、おそらくドレフ帝国南西総督トズラディーン配下ヴァルシャード将軍の部隊に蹴散らされた東方民族たちが野盗と化し、フィリクスのいる隊商を襲った。なりふり構わぬ攻勢により、荷馬たちは恐慌状態に陥りちりぢりになった。大人たちは馬を集め、フィリクスは散らばった荷物を集められるだけ集めることになった、という次第。
「遺言はあるか?」
腰のナイフをしゃりりと抜いて、フィリクスはいつもと変わらぬ声音で問う。ハシルは乾いた笑い声を漏らす。腹の傷を抑える蒼白な手の指は三本足りない。その間から、ごぼりと鮮血が溢れる。
「俺、はお前みてえなガキのこと……よく知ってらあ」
「ハシル? 家族は? 恋人とか、馴染みの娼婦とか、友達とかはいないのか? 言い残したいことがあるなら早く言って。俺、頑張って覚えるから」
いっそあどけなく、十六歳の少年がしゃがみこんで言うのに、ハシルは苦い顔をして首を横に振るのだった。彼の傷は戦傷ではない。斜面を滑り落ちた拍子に、倒木の鋭い枝に腹部を刺し貫かれたのである。
「かわいそうに、恥ずかしいだろうな」
とフィリクスは言った。ぽつねんと、感情のままに。
かわいそうに、という言葉の持つ意味など知らなかった。ルミオンにそうねぎらわれたときも、シンクレア先生に頭を撫でられたときも。彼はいつだって、そうか俺はかわいそうなのかと思って――それでおしまいだった。
だが今は、ハシルのことをかわいそうだと彼は思う。
「誉を上げたかったろうに。こんなところじゃなく、大理石か絹の寝台の上で死にたかったろう! かわいそうだな、ハシル……」
「お前は……」
死にかけの元傭兵は死に足掻く。伝えなければならないと思っている。この、何も持たざる子供に、せめて最後の慈悲をかけてやるべきだった。
ハシル・ミルシャディアは腐ってもフィリクスの剣の師匠だった。
フィリクスはもっとずっと後になって、このことを思い出す。だが今は、ただハシルがうんと言ってくれるのを待っている。せめてもの情け、彼を楽にしてやりたいと心から思い、手にしたナイフを滞りなく使えるか気にしている。
――俺はドレフ人としてきちんと役立てるだろうか、と。
「おめえみたいなんは……いつか、肝心なときに、正気づく」
「は?」
「上っ面だけじゃなく、心まで変えなきゃいけねえときがいつか、来るぞ。それを待つな。自分で迎えに行け」
「ハシル? 何を言ってるんだかわからない。ハシル」
「お前は――危ういところに立っている」
そう言い残して彼は去った。
あとには途方に暮れたフィリクスが残された。
「危うい?」
見回してみても、周囲に危険はなさそうである。崖っぷちというわけでもない。ならばますます、ハシルが命がけで伝えたかったことが何なのかわからない。
「俺? 俺が? なんだってんだよ……」
ナイフを手にしたままぐしゃぐしゃと頭をかき回し、フィリクスは嘆いた。刃を使わずにすんだことに安堵している自分が胸の中にいて、それがものすごく嫌だった。
「わっかんねえよ。なんなんだよ、ハシル」
フィリクスは項垂れ、ぶつくさ言いながらハシルの薄い瞼を閉じてやった。早くも風が彼の体温を奪い、皮膚はたるんで冷たい。
呼び声がしたのでフィリクスは大人しく隊商に合流した。ハシルがいないのに他の連中が気づいたのは次の休憩のときで、彼はハシルの持ち物を回収してこなかったことを詰られ、殴られた。
そのようにしてやっと到着した補給地で、荷馬は重たさから解放されフィリクスたちはいくばくかの報酬を支払ってもらえた。ようやく、である。前払い金より多いが最初に提示された全報酬よりはかなり少ない、それでも支払いがあったのは喜ぶべきことだった。
荒れた野に天幕がどこまでも連なり、海のようにひらめいている。その一つ一つが物資の倉庫であり、捕らえた敵を奴隷として売り払うための競売所あるいは保管所であり、傷病兵の療養所や祈禱のため、厩代わり、両替商、寄り合い所と何でもある。壁がやや頼りないだけの街がある、とフィリクスは思った。
同輩たちが娼婦の天幕へ駆けていくのを尻目に、彼は面白おかしく天幕の群れを見て回った。考えてみれば隊商の中で彼が一番若い。目にするものが物珍しいのは当たり前のことである。
フィリクスはあっちの天幕、こっちの天幕と影から影を渡り歩き、戦線の状況や兵の嘆きを聞いた。一度など、どう聞いても男同士のそういうか細い声が漏れ聞こえて慌てて逃げ出したこともあった。それさえ面白くて一人で肩を震わせていると、古参兵すぎて頭がおかしくなったらしい大柄な兵隊に絡まれまた逃げた。
あっという間に日暮れがやってきた。隊商に割り当てられた天幕が見つからない。不安はなかった。こんなに布と布がひしめいているのだ、どこかの天幕の風よけと内側の幕の間に出も入り込んで眠ればいい。きっとよく寝られることだろう。
有体に言って酔っぱらっていた。それはフィリクスが初めて体感する祭りのようなものだったから。兵と兵が取っ組み合い、腕相撲をする場所に迷い込んだときには勝負に飛び込み参加までして、賭博の元締めを怒らせた。憲兵らしい役目の兵に追いかけられたり、逆に誰かに肩を抱かれて一緒に歌ったり。夜は更けていく。明日には俺は前線に戻って東方の奴らを皆殺しにする、と叫ぶ男がいる。汗のにおいと酒のにおいが混ざってすごい悪臭がするかと思えば、薬草の香りと祈りの声に満ちた静謐な天幕がそのすぐ隣にある。
フィリクスはふらふらと歩き、歩き疲れてひとつの天幕にもたれ座り込んだ。顔も首も汗ばんで、いい気分だった。風が冷たくて気持ちがいい。うつらうつら、彼は均衡を崩し、その瞬間天幕の一部が開いた。
フィリクスは知らなかったが、それは建物でいうところの使用人用勝手口だった。天幕の正式な出入り口は重たい布をめくりあげて使うが、勝手口の方はただの布の切れ間で、内側から何重にもなったそれを手でかき分けて外に出られるのだった。
あるいは中にも入ることができる。
フィリクスはごろんと天幕の中へ飛び込んでしまった。ぎゃあ、とまだ幼いほど若い侍従が悲鳴を上げ、彼が持っていた酒杯から飲み残しがフィリクスの顔に飛び散った。
「ウワア!」
さすがに眠気は吹っ飛び、彼はわたわたと四つん這いで酒の飛沫から逃げる。
「わ、わああ! わあああああ! ヴァルシャード将軍閣下あ!」
侍従がぎゃあぎゃあ騒ぐのに、フィリクスはてっきり自分が外側へ向かって逃げていると思っていたので構わない。――まさか自分が天幕をかき分け、その内側へ、火が焚かれ絨毯が敷かれ後方部隊の責任者が重要な客人をもてなすそのいっときへ這い進んでいるとは、夢にも思わない。
フィリクスは目を瞑りながら布をかいくぐり、誰かの手を振り払って立ち上がった。
「あ」
彼は黒い目を見開き、呆然とその人を見つめた。ヴァルシャード将軍がずんずんこっちへ向かってくる、その向こう。
ドレフ帝国第三十二代皇帝グリアリス。彼が親父と呼んだ男。法律上の父親が立ち上がるのを。




