フィリクス
ミハルデ一族を知っているか? そうだ。軍事の一族。このドレフ帝国でもっとも力ある一族だよ。
俺の母はそこの出だった。――え? レニノア皇后と一緒だ、って? そうだな。あんたサルカーンの神殿にいたんだものな。知ってるよな。
そうだよ。俺の母はレニノア皇后……に近しい立場だったと思ってくれ。
俺は父の子じゃないんだ。母が嫁いだとき、すでに腹には俺がいた。祖父、母の父は怒り狂ったらしいが、尊い方にお納めする娘に堕胎を強いるわけにもいかず、いっそ娘を亡き者にとまで思い詰めたらしい。
他ならぬ父が、それを止めたんだそうだ。ある日突然、あとは輿入れを待つばかりとなっていた母の住むところまでやってきて、俺の祖父と母を並べ、穏やかに言ったんだそうだ。命に罪はないって。
だから俺は今ここにいるってわけさ。
法律上の父には感謝している。俺に命をくれたんだから。
もちろん、その意図がミハルデの兵隊を自分のため使いたいということだけにあり、母への愛情ではなかったのだとしても。俺は父を尊敬しているし、母のことを愛しているんだ、ちくしょう。
母はかわいそうに、地位や名誉にふさわしい人格の持ち主ではなかった。俺の血縁上の父親をいつまでも恋い慕っていてね。その上その男が悪い奴で、母の気持ちを知って自分のため利用した。
彼女は自分が用いられる限りの権限で、ミハルデ一族と帝国、――あー。つまり、ドレフ帝国の中で動かせるだけのものを、俺の父親に与えた。奴は東方の戦争に行き、自分の女がせっせと貢いでくれるあれこれを用いて優位に戦い、手柄を立てた。そんな女が俺の母以外に何人いるんだろうと思ったことも、あるよ。実際、いたと思う。母からの援助だけじゃ、あんなに戦功は立てられないだろうし。
なんて不幸な女たち。自我がなく、自我を持つための教育も与えられず、人によっては文字さえ読めない。かわいそうだ。自分ってものがないんだから。男の愛を入れるための容器みたいなもんなんだから。
俺が愛するなら、そうじゃない女がいいな……。
いや。話が逸れた。
父上様、つまり法律上の親父は――いいな、この呼び方。親父。親父だな、あの人は。
ええと、親父はすごい陰湿で狡猾で計算高い、この世の全部を俯瞰しているみたいな人なんだ。立派な人だが残酷で冷徹だ。
母のやらかしによって親父はミハルデの助力は存分に受け取り、だが見返りは与えないという暴挙がほぼ黙認されるようになった。当たり前だろ? 結婚の誓いを先に破った娘を許してくれた婿殿だ。祖父も首を垂れるしかなかっただろうさ。
軍団と、兵隊と、軍馬。それから武具が祖父から親父に差し出された。見返りは、俺の命だけ。
親父には十一人の側室がいた。きょうだいは二十六人だ。仲がいい奴らも、反目し合ってる奴らもいた。俺は母の意向で、彼らから一線引いた立場で育てられた。ええ?――ああそうだ、母は正妻だからな。妾の子とは違うというところを人に見せたかったんだろう。
でも、実際は彼女の思い通りにはならなかった。
客人を迎えるとき、リュイスやテトラスでは奥方が歓待役をするらしいじゃないか。でもここドレフではそれは家令の仕事で、奥方のすべきことといえばせいぜい台所を監視するくらいだろう? 着飾って歌って踊って笑うこと。それがドレフ帝国の貴婦人の役目だ。
だが子供を見せびらかすことはできる。親父はその見せびらかす用の子供を傍近くに置いた。いつでもぱっと抱き上げて、笑顔で持ち上げられるように。
そう。それは俺じゃなかった。
他の子たちだった。
母の屈辱と憤怒はどれほどばかりだったろうな。
俺と母の記憶は、いがみ合いばっかりだ。え? いいや。悲しいと思ったことはないよ。乳母が立ち去ったときは少し悲しかったけれど。俺にとってそれが普通だったから。
たんたんとしてるって? そう見えるか? ハハ。
ならよかったよ。
俺は乗り越えられたってことだから。
十五になったから、もう家を出るべきだと思ったんだ。都を……都ナルザクを出て、イ・シュド宮殿を振り返ったとき、砦かと思った。あまりに無骨で堂々として、まるで親父みたいに居丈高な城だと思ったよ。そう。俺はイ・シュド宮殿を見たこともなかったんだ。ずっとナルザクにいたのにな。
それで、傭兵団に雇ってもらいたかったんだけど。どこも荷物持ちくらいにしかしてくれなくてなあ。まあそうだよな。俺ときたら剣術の基礎さえうまくできないでいるんだから。
ドレフ人なんだから、せめて弓兵くらいにはなりたいんだが。
ヴァルナザ河に落ちて雪解け水に流されたのは、隊商の最後尾を歩いていたからだった。しんがりでね。荷物を運ぶ牛の列が乱れないよう、一番後ろの一番老いた牛が遅れないよう、尻を蹴る係だった。
橋を渡っていたときだった。ドゥラカド橋。ああ、そうだ。
中央大陸三大河川のうちのひとつ、ヴァルナザ河……その中州を横切るドゥラカド橋。ジズモーン大帝の遺産のひとつ。名前は知ってた。見たことはなかったけど。
それで、その橋を渡っていたときに、牛が暴れて。ハハハ、隊商の奴ら、真っ先に牛を抑えにいきやがった。俺のことなんて見向きもしねえで。
俺は落ちた。牛のひづめが頭を掠めたんだ。蹴られなくて本当によかった。雪解け水が、ゴウゴウ音を立てて流れていたからな。あの牛の奴、きっと怖かったんだろう。
ルミオン、あとはあんたの知る通りだ。ここは大陸南西の丘陵地帯ラズガル、たぶんヴァリフィア山の山裾。田畑に給水するため堰き止められたファルナッテ湖の水が再集結するところ。この山々を抜けた南には、南国ファーテバと交易をする港ハルナリがあり、ミルザ湾があり、ジャルミアの街がある。
あーそうだ。やっと、繋がった。風景を見ても頭の中の地図と合致しなかったんだ。けど、今ようやく。現実と知識が、初めて噛み合った気がする。地に足つけて生き始めた、って気がするよ。
人が怖くてここに隠れ潜んでいたあんたが、俺を見つけて引き上げた。
俺が自力で仕事を探して働いて、賃金を誤魔化されず受け取って、買い物をするだなんて……自分にこんなことができるだなんて知らなかった。あんたのおかげだ。
いや。違うよ。あんたのおかげだ、ルミオン。
自分一人のためだったら、きっとこうはできなかったと思うから。
俺の人生はひどく薄っぺらい。頭でっかちで洞察も何もあったもんじゃない。今から生き直すことが、間に合うだろうかって考えるよ。まともな大人になれるだろうか……。
親父と母が? 俺を探す? いやー、しないんじゃないか。少なくとも母はしないと思う。俺の父親がさせないだろうから。
他の家族、は……弟がいる。いいやつなんだ。まだ小さい。こまっしゃくれて小生意気で、物覚えがよくてはしっこくて。そうさ。自慢の弟だ。可愛かったなあ。また会いたい。
……本当なら顔も知らない間柄で終わるはずだった。
たぶん、親父の計らいで俺たちは一緒に遊ぶことができた。
知ってるか、ルミオン? この国では皇太子さえ内密に認定され、内密に消される。
何代か前の皇帝の御世のことだ。側室の一人に狂った彼はその側室の産んだ息子を皇太子にするため、すでに公表された第一子を廃太子とし、監禁して暗殺してしまった。当然、その殺された皇太子の騎士たちは剣を抜き、後見役だった総督は怒り、産みの母親の一族は挙兵し、――結果、皇帝の直属部隊に敗北した。
ドレフ帝国では武がすべてなんだ。反乱は起きかけ、鎮圧された。正妃は自害し、側室は勝ち誇って笑ったという。まだ幼い皇太子は立太子の儀で、亡き大兄上様を探してきょろきょろしたそうだよ。乳母にこう聞いたそうだ――ねえなんで兄上様、いないの、ってな。今日はなんのお祝いなの。ぼくはなんでこんなに綺麗な恰好をしているの。兄上様にも見てもらいたい、褒めてほしいって。
その兄上様を殺したのはお前の父親で母親だよとは、誰も教えなかった。そんなことできやしなかっただろう。
大きくなってその子は皇帝になり、産みの母親の側室は皇太后となった。やがて皇帝は兄上様の真実を知り、失意のうちに若死にした。皇太后は孫を次の皇太子にして太皇太后となり、男たちを意のままに操り実権を握った。
やがて正義を知る総督たちが各地で示し合せ挙兵し、悪の太皇太后を倒した。幼い皇帝は総督たちの娘たちと契り、その皇子たちもまた正統性を競って相争い……。
血塗られた歴史だ。一族が身内同士で骨肉相食む負の歴史だ。
だが帝室が乱れる間も、帝国は存続した。重要なのはその一点だけだ。
今だってそうだ。東方の国土はひどい有様だと聞くが、帝国は存続している。ならば、皇帝も、皇后も、側室たちも、不幸を耐え忍ぶべきなんだ。表舞台に出ることさえまだない幼い皇子皇女たちも同様に。
いつか国が彼らを必要とするときまで。
俺たちにはその権利と義務があるはずだから。
――何の話をしていたんだっけ?
ルミオン? 眠ったのか。
あんたが聞いてくれて心が楽になったよ。ありがと、ルミオン。
……鎖の跡が手首に染みついている。洗っても取れないのか? かわいそうってあんたは言うけど、あんたの方がかわいそうだよ。なあ、ルミオン。
叶うことなら連れていってやりたいけど、あんたはどこにも行きたくないんだろうな。西大陸にも東大陸にも、南大陸にも。俺は世界を見たいけど、あんたはここがいいんだ。
俺は宮殿を出たかったけど、先生はあそこに留まり続けた。あの金で、ちゃんと脱出できたらいいんだけど。
イ・シュド宮殿。なあ、俺……。自分が生まれた場所の名前を知っていたはずなのに、あそこで暮らしているときはその名前を意識することもなかったよ。星の名前や運航表や、数学の定理の方がよほど気に入った。
たぶん母上様も同じなんだろうな。自分がいる場所の名前も知らず、心の中には恋しいあの男だけがいる。父上様もだ。親父殿。あの人も、帝国の名前をただの記号として捉えている。里には村があって、家があって、米を作るための田畑があるなんてこと、本当の意味で理解ができているとは思えない。人が生きていて、死んだ人間の墓地があって、聖堂がある。祠がある。みんな生きて死んでいく。あそこで。
あー……。身震いが出るよ。エリシアス、お前に何もかも話して聞かせてやりたい。
こんなにもろくでもない、輝かしい場所があるんだってことを。
***
春を待たずにトゥルセリム・ルミオンは逝った。穏やかな最期だった。
フィリクスは彼の小屋の中央に遺体を埋め、残った米を袋に入れてその手に持たせてやった。死出の旅にも食べるものはいるだろうから。
一冬を過ぎてますます大きくなった気がする手で小屋の柱を倒すと、それは来たるべきものがようやく来たかと吐息を吐くように崩れ落ちた。小屋の残骸と恩人の身体に火を放ち、彼は山を下りた。
吐く息は白く、天はさえざえと深く続いている。雪は重たく衣服や肌に落ちて留まる。死の気配がする冬に、傭兵たちは早くも出立の準備を整える。
フィリクスは歩き続けた。まずは、仕事を探して大きな街にいく。隊商か、できれば傭兵団に入れてもらう。そして剣術を学ぶのだ。
彼は傭兵になるのだ。自力で未来を切り開いていく。
「俺はフィリクス、フィリクス・ルミオン――」
そう口に出すとなんだかスッキリした。帝国そのものの意味を持つ大仰な苗字など、彼にはそぐわない。
「ルミオン、名前、もらうからな」
少年はほのかに微笑んだ。いいよ、と誰かが耳元で囁いたのを聞いたからである。
道は果てしなく続いていた。全身に力がみなぎって、どこまでも歩いていけそうだった。
――フィリクスは名前を得た。




