トゥルセリム・ルミオン
彼は目を覚ました。
知らない、藁葺きの天井がある。黒い梁、煙の匂い。頭の下が冷たく濡れている。
「行き倒れていたんだよ、君は」
呆れ返った知らない男の声が降ってきた。
「馬鹿な子だ、なんだって春の河に飛び込んで無事ですむと思っていたんだ? ヴァルナザ河は今の時期、【大氷河】から最後の雪解け水が流れ込むんだ。冷たかったろう」
フィリクスは瞬きすることでその言葉に答えた。目に染みるほどの白い光に、正直言って毛布をかぶって逃避したい。だが手足どころか指いっぽんたりとも動かすことができず、ただ涙が流れた。骨ばった男の指が伸びてきて、それを拭う。あくまで生理的なもので、悲しいわけじゃないことを彼はひたすら伝えたかった……。
そのくらい、その男の表情は悲痛だった。まるでフィリクスではなく、彼自身が水に落ちたかのよう。
ズタ袋に穴を開けて頭を出しているとしか思えない服は、チクチクした毛羽が見えていかにも痛そうだ。伸びっぱなしの黒いまっすぐな髪の毛を束ねもせずに背中に流している。顔はげっそりと痩せ、頬もこけて目ばかりが大きい。
おそらく、隠遁者と呼ばれる者だろう。山間や離れ小島に隠れ住み、ただ神を崇め真理を探究することに生涯を費やして、祈りの日々を過ごすのだ。俗世間の穢れも金の臭いもしない代わりに、死んでも誰にも悼まれない。
フィリクスは書物に読んだ彼らのことを、ある種の特別な動物のように見なしていた。伝説にある、フェニックスやユニコーンといったよい魔物、あるいはエルフやダークエルフ、妖精などよいと悪いを取り交ぜた独特の価値観に生きる異種族の仲間だと。
だがそうではなかった。ようやく、痛まなくなった目で彼はごそごそ動く男の背中を追う。――そのぎこちない動き、声、におい、狭い掘っ立て小屋に吹く風になびく髪、そのすべてが、彼がただの人間であることを告げていた。ただしばらく他人と話していなかったので、喋り方がぎこちなくなっただけなのだ。それだけの、ただの人間だ。
フィリクスは四苦八苦しながら身を起こす。ざらざらした毛布が身体に張り付く。少年は全裸だった。見上げると小さな小屋の中、梁に渡されたロープに着ていた服がぶら下がっている。小さな炉、かまどと呼ぶ方がふさわしいか、石を組んで作った火が部屋の中央にあって、生木でもくべたのか白い煙が煙たかった。
咳き込むと男が飛んできて、心配そうに背中をさすってくれる。手首の丸い骨が肩甲骨を叩く。
「ああ、ほら。ほら。落ち着いて、落ち着いて。ああかわいそうに……まだ小さいのに。ああかわいそうに……」
男はぶつぶつ言うと、フィリクスに薬湯を呑ませた。野生で育った薬草の苦さが彼の意識を覚醒させる。手をついた枕はビショビショに濡れていた。川の水の香りが薬臭さと相まって、泥の中にいるようだ。
「あんた、名前は?」
と聞くと、男はこけた頬を赤らめて笑った。
「ルミオン。トゥルセリム・ルミオン」
トゥルセリムは元奴隷だった。残虐な主の元から這う這うの体で逃げ、山奥に隠れ潜んでいた。元主が聖職者――それも、ドレフ帝国でもっとも崇拝される軍神サルカーンの大神殿の神官であったと知って、フィリクスは驚いたなんてものではなかった。
サルカーンは公明正大、質実剛健、嘘を許さない神である。そんな男神に仕える者が奴隷を虐待するだなんて。
だが、トゥルセリムの姿を見れば納得せざるを得ないのだった。彼の手首と足首には消えない鎖の跡があり、フィリクスが急に立ち上がったり頭の上に手をかざすとヒッと首をすくめる。あばら骨が浮き出た身体も、うまく歩けない様子も、彼が幼い頃から日常的に暴虐に晒されたことを意味していた。
「おれのことはルミオンって言って」
と男は言う。まだ半分濡れっぱなしの布を、意味もなく弄びながら。
「トゥルセリムは、あー。――おれの名前だけど名前じゃないんだよ」
「奴隷名だったってことか?」
「そう! そう、それ。おれのほんとの名前は……忘れちゃったんだけど。でも、ルミオンはほんとの名前だからね。それで呼んで」
「わかった、ルミオン。なあ、ひょっとしてそれ、布を畳もうとしているのか?」
「んー?」
「貸して。俺がやるよ」
そんなふうにしてしばらく、フィリクスはルミオンの元に留まった。
ヴァルナザ河は【大氷河】から南東へ向かって流れ、ドレフ帝国中央平原ファルナッテ湖へ終結する大河である。帝国の主な給水源であり、ファルナッテにある穀倉地帯を支えていた。
ルミオンは主に米を食べた。北方にある都の――都ナルザクのイ・シュド宮殿で出るものしか食べたことのないフィリクスにとって、それは未知の穀物でもあった。だが、多くの平民はこれを食べているのだ。小麦を練ったパンではなくて。
パラパラした長細い茹でた米が椀に盛られて出てくると、フィリクスは最初はおそるおそる、次第にガツガツと平らげた。ルミオンはそれを楽し気に見つめ、椀が空になるとどんどん次を盛ってくれた。米は小麦と違った甘味があっておいしかった。
フィリクスが食べるがままに、ルミオンが冬の蓄えを差し出そうとしていることに気づいたときの戦慄はものすごかった。
「俺にばかり食べさせちゃだめだ、ルミオン。あんた冬に何を食べるつもりだ?」
と聞いたのは、すでに秋も深まった頃。フィリクスは顔面蒼白である。ルミオンは小屋の片隅に穴を掘り、壺を入れ、貯蔵庫としていた。中身の米が明らかに減っていて、原因は自分であると気づいたからだった。
とうのルミオンはきょとんと首を傾げて言う。
「断食には慣れてるから大丈夫だ。それより、君は食べるべきだ。河に落ちたんだから、回復する必要がある」
「それじゃダメに決まってるだろ!」
フィリクスは山を下り、里へ向かった。ファルナッテ穀倉地帯の農村部は、人手を痛いほど欲していた。体格もよく背も高いフィリクスは、その日雇いの労働者として村々に入り込んだ。
地主の荷馬車に他の男たちと一緒くたに詰め込まれ、村々を転々とする。軍神サルカーンの小さな聖堂や、春の女神ルセリヤの神殿を通り過ぎる。素朴な訛りの言葉は聞き取りづらく、夜に放り込まれる煉瓦づくりの小屋は寒い。
今日は脱穀、次の日は稲刈り。そしてもっとも重要なのは水路の管理だった。
【大氷河】から流れる母なるヴァルナザ河。人々は河の支流を囲い込み、水路として田畑の給水とする。田の水位が高ければあぜを切って排水し、土を盛って水を逃がす。こちらの田に水が多くあちらの田が少なければ、板や木片を差し込んで水路を切り替える。すべて人の手で行われる。人海戦術である。働く者は多ければ多いほどよかった。
昨日水を入れた田が、もう蒸発で水位が下がる。あぜを削って水入れする。雨が降れば田は溢れる。土を盛り直す。あぜが崩れる。その場で補修する。果てがない。
ファルナッテ地方はどこまでもどこまでも、水田が続いていた。まるで神々が一面の鏡を平野に埋め込んだよう。ファルナッテ湖から吹いてくる湿った風に、喘息の吐息が胸の奥から湧いてくるのを見ないふりする。
何もかもが本で読んだことと同じで、違っていた。たとえばファルナッテ湖のことをフィリクスは噴水の池が大きくなったものだと思っていたが、実際は違っていて、それは浅い大きな水溜りだった。【大氷河】からやってきた雪解け水はいったんヴァルナザ河に入り、それから人力でせき止められ、おのおのの田んぼに入るのだ。
これが、ドレフ帝国が傭兵の産地であるゆえんだった。労働は地主にこき使われて田畑で働く以外の仕事がなく、外貨を稼がねば食っていけないのだ。ドレフ帝国では多くの男が傭兵として外国へ向かってしまう。そうでなくとも徴兵があり、長年に渡る東方戦争により少なくない戦死者が出ている。
労働の主力は女性たちとフィリクスのような季節労働者であり、それはどこまでも過酷で、やるせない日々だった。終わりがない、永遠に続く苦しみの日々。
その甲斐あって、冬が来る前に彼はまとまった小銭を手に入れた。数週間、食事と雑魚寝だけを対価に日夜問わず働いて得た金額として、多かったのか少なかったのかわからない。布の袋に入れられた銅貨の価値は、だから、彼の血と汗と涙そのものだった。
フィリクスはそれで買えるだけの米と塩を求め、背負い、山の中の小屋に戻った。飛び出してきたルミオンは、ぼろぼろになった少年の姿にほろほろ涙をこぼした。どちらもみっともないほど痩せて、フラフラしていた。
「食べるものなんて本当にいらなかったんだよ!」
と、元奴隷の男は叫ぶ。骨の浮いた手でフィリクスをかき抱きながら。
「そんなこと、どうでもよかったのに……ルミオンは食べないでもよかったのに。おお、かわいそうに!」
「だめだよ」
フィリクスは首を横に振る。雪の気配が風に混じり、ファルナッテ湖は凍り始める。田畑は雪の下に閉じ込められて、徐々に凍結していく。傭兵たちが帰ってくる。男も、女も。本当なら田畑で働くための頑健な身体を持つ若者たちが。
「いつでも死んでいいなんて考えてちゃいけない。俺はあんたにそんなふうに考えてほしくないよ」
フィリクスは痩せ細った彼の肩をぽんぽんと叩き、照れ臭く笑った。
「この米の代わりに、冬の間ここにいさせてくれないか? 春になったら出ていくから」
ルミオンは迷子の子供のようにこくこくと頷いた。
人里は冬の霧に紛れて見えなくなった。山の中にも靄がたちこめ、水汲みさえ危なっかしい。
二人は一冬をその小さな小屋で過ごした。炉の火にあたり、一つの鍋から粥を掬った。昔話と神話が共通の話題だった。フィリクスが語る数学の話を、ルミオンはしっぽを振る犬のように喜んだ。奴隷だった頃、学問に興味があり主の神官が見習いたちに講義する部屋を覗いたことがあったそうだ。
「殴られてね、へ、へへ。それ以来、しなくなったんだけど」
と彼は笑う。笑うと頬に奇妙な皺ができ、治癒した傷跡の名残りが肌に刻まれているのがわかる。
フィリクスは宮廷奴隷たちの気取った仕草や手癖の悪さを思い出した。隙あらば客人のための薪や魔法灯の燃料を盗んで売り払い、また貴人が食べなかった宴会の残飯を争う彼らの姿を。その手段さえあれば、皇帝の秘宝を掠め取らんばかりの。――かつて彼は、それを恥ずべき行為だと軽蔑していた。使用人というのは生まれつきこうなのか、とさえ考えた。盗みへの異様な倫理観のなさは、彼らの生まれと魂のいびつさに由来するものなのかと。
違った、のかもしれない。自分の中で何かが変質しつつあるのを、フィリクスは悟る。
目の前で大げさな身振り手振りを交えながら語るルミオンを見つめながら。かつてなら、視界に入れることさえ嫌だったろう、少しおかしくなった元奴隷の声を心地よく聞きながら。
奴隷は働いても賃金をもらえないことが多い。対価は食事と寝床、主の着古した衣類のお下がりで賄われ、それさえない場合もある。仮に主が己の慈悲深さを示すため解放されても、奴隷だった過去は消せず差別がついて回った。
げんに、フィリクスが田畑で働いたのはほんの二、三週間に過ぎないが、明らかに逃亡奴隷や解放奴隷とわかる者への賃金支払いは少なかった。誰も、何の文句も言わなかった。言えばその元奴隷は男たちに殴られただろうし、そのせいで得たわずかな硬貨さえ失うかもしれなかっただろう……。
「なあ、ルミオン」
フィリクスは火を突きながら言った。ぱちっと薪が爆ぜ、手の甲に赤い斑点ができた。痛みは遅れてやってくる。
「なんだい、フィリクス?」
痩せ細った人相が悪い男が、清らかな笑顔で聞き返す。決して不快ではない沈黙が小さな小屋を満たし、燻された木と煙の匂いが胸の中のゴロゴロを鎮めてくれる。
「俺の話を聞いてくれるか?」
そうして、元皇太子は話し始めた。




