エミリオ・カヴィル
エミリオ・カヴィル
エリシアスは一週間に二、三度来る。すでに日課に組み込まれた交流に、誰かの意図をフィリクスは確信した。
シンクレア先生はますます老いぼれて、近頃ではいかに安全に宮廷から退出するかばかりを気にしている。城下に残した孫娘は嫁ぎ、ひ孫も生まれた。彼らの行く先が案じられてたまらないのだという。授業の中で口にする公式も定理もみごとなまでに真理だが、それ以外ではこけつまろびつといった感じで、フィリクスが門まで支えていくときさえあった。師の身体からはもう水煙草の香りがしない。あるのは内臓からたちのぼる腐臭と、口臭、生きながらにして死んでいく肉体の饐えた臭いだけである。
「フィリクス様……太陽と惑星を結ぶ線は軌跡を描くのです」
「うん、知ってる」
「その軌跡は常に等しい面積を持っています。この世界は、明らかに誰かの意志に基づいて創造された。その証明です。おお、星の動きは薔薇の花のように」
「よく休んでください、先生」
冷たい大きな皺まみれの手を離し、よろよろと帰っていく老いた男をフィリクスは見送る。本当は、最後まで付き添いたかった。途中で倒れないだろうか。
離宮へ至る暗い小道をたどる。吐く息は白い。【大氷河】と呼ばれる山脈から駆け下りてくる雪混じりの風で、夜は冷え込む。ましてやここは街一つ分以上の面積がある宮殿の北の果てなのだから。
(そろそろ、離れなくては)
という思いについて、彼はずっと前から考えていた。先生を自由にしてあげなくては。エリシアスをまっとうな皇太子にしてあげなくては。
シンクレア先生は宮廷に戻ったことでなし崩し的に解放奴隷身分として扱われるようになっていた。そのことに、フィリクスは長い間気づかなかった。
エリシアスが正当な皇太子として立太子の儀を終えていないのは、まだ幼いからだけか? 違う……のだろう。フィリクスがまだ生きていることがあの子の、ひいては母レニノアの将来を台無しにしているのでは?
考えても仕方のないことだ。すべては父皇帝の胸三寸だ。彼が先生を解放してくれるのであれば、あの老いた男は一人の身よりもない宮廷で寂しく死なずにすむだろう。彼がエリシアスを指名すれば、母は安堵するだろう。だが誰も、それを強制することはできないのだった。ドレフ帝国皇帝はこの世にただ一人。世界でもっとも始祖王に近しい者なのだから。
(俺はもう十五だ。一人でも生きていける)
きっとそうだ。五体満足のドレフ人の男だ。市井に降りても引く手はあるに違いない。最後に剣術の基礎訓練を受けたのは離宮に来る前。つまり子供の手遊びしか経験がない。それでも――剣を手にしたことがあるなら、戦えるはずだ。俺はドレフ人なのだから。
傭兵になろう。多くの同胞たちがそうしているように。
ここを出て、一人で生きていこう。誰にも迷惑をかけないですむように。
そう思った。
離宮前の階段に誰かが腰かけていた。同心円状に広がる翼のような回廊のちょうど真ん中。月明りが差し込んでその男を照らす。ほぼ完璧に等しい彫刻のような美貌。肩幅は広く、腰つきもがっしりとしている。ひらひらと舞うようにではなく、体重と勢いと鉄の重たさで敵を圧倒する戦い方をする戦士の身体だった。彼はフィリクスに気づくと、おどけて肩をすくめにっこりした。
ドレフ人の浅黒いなめらかな肌に、小さく魅惑的なえくぼが浮かんだ。身軽に立ち上がる仕草は鹿のよう。彼は誘惑そのものだった。
「やあ、殿下。――おっと、もうその称号もお持ちでないのか。では、何とお呼びすればよろしいのかな? フィリクス様? フィリクス殿? あの家庭教師はあなたをなんと呼ぶんだ?」
すたすたとこちらに歩きざま、弾むような声がフィリクスのぐらぐらする視界に弾けた。気づけば、目の前に全く同じ顔がある。天性の美がふたつ。互いを見つめる。
彼らが父子であることは、誰の目にも明らかだった。
だから皇帝は長い間ご無沙汰していた皇后の寝室を訪れ、あくせくと次の皇子を仕込まざるを得なかったのだ。皇太子としてその隣に並ぶには、フィリクスはあまりに――この男の、エミリオ・カヴィルの息子だった。
「いつ、戻ってきたんですか」
震える声で息子が問うと、父親はにやっと男臭く笑う。
「まだ追放令は解かれちゃいないんだ。ナイショだよ、俺がここにいるってことは。ナイショ」
ふふっと人差し指を立てる、それだけで空気が甘くなる。フィリクスの気分は最悪だった。
「なんで戻ってきたんだよ……」
少年の呻き声を楽し気に聞き、男は小首を傾げた。
この世の者とは思われぬほど美しい男であるエミリオは、かつてレニノアという少女を誘惑し、婚姻前に妊娠させた。最低な男である。だがそれ以上に吐き気がするほど嫌なのは、母レニノアがいまだにこの男への恋情を捨てきれず、恋い慕っている事実だった。
そう、母は夫である皇帝よりも、その遠縁の騎士を望んでいるのだった。
だから彼女はフィリクスのことが嫌いだったのだ。自分が何よりも欲している男は側にいないのに、その血を継いだ息子はそこにいるのだから。なんという理不尽! だが、彼女にとってはそれが世界の真実なのだ。
エミリオが勝手知ったる足取りで歩き出すのを、フィリクスは追う。授業の疲れは消えてしまった。彼は血筋の上の父親に並ぼうとしたが、エミリオはむしろそれを嫌って足を速めた。
「――東の草原での戦争が終結しつつあるのは、わかるだろう」
と彼は言う。
エミリオ・カヴィルはその東方戦争の指揮官だった。それを名目に都から遠ざけられたのだ、もう十五年も前に……皇后レニノアが嫁いですぐに。
「国境で戦闘が終わった瞬間、それは即座に帝国領土内へと流れ込むだろう。内乱が始まる。いや、もうすでに始まっていると言っていい。東の遊牧民の族長が挿げ替われば、この戦争は交渉によって終わる。土地は得られない。ただ疲弊だけが残る。わかるだろう、フィリクス?」
肩越しにエミリオは振り返った。疲れ切った笑い顔だった。
フィリクスの中で思い出が爆発した。――母が切なく語る思い出、その横顔。彼女が隠し持つ肖像画。見せてもらったことがある、自分と面差しの似た男が気取ったポーズで描かれていた。大切な品物なの。母はぽろぽろ涙をこぼす、フィリクスは小さなミニチュア画を彼女の手から奪い取り、窓から放り投げる。絶叫。なんてことするのよ!
――だって、フィリクスはそのとき自分を皇帝の息子だと信じていたから。そのことが裏切られたのだと、言外に知って。許せなくなった。母を。父も。
「帝国は、もうもたないよ」
エミリオは立ち止まって天を仰ぐ。満天の星が出ていた。ひときわ高い北のてっぺんに【始祖王の目】があった。風に男がつけた麝香主体の香水の香りが混じり、フィリクスは彼がここに来る前、母の元にいたことを悟る。戦場働きの男がひそかに都に戻ってきて、身なりを整えた――そうしなければ会えない人に会った以外になんの理由がある?
(父上様)
母の不貞を知っていたのなら父はフィリクスもろとも彼女を殺すべきだったし、そうしなかったということは、父は自分たち母子にいっぺんの個人的な感情も抱いていないということを意味した。ただ皇帝として、東方の戦争を戦い抜くためもっとも必要な軍事力を持つ一族の娘を皇后に据える、そのためだけに彼女を選んだということ。
フィリクスは信じていたかったのだ。父は仕事で忙しいだけで、自分たちを愛していないわけではないのだと。母は身体が弱いだけで、決して夢想にふけるだけの女ではないのだと。
けれど。
「あんた何がしたいんだよ。あんたのせいで、俺の母は永久に本当の皇后たる資格を失った。エリシアスは父の子と認められても、皇太子に指名されるか危うい。側室たちの年長の男子の方が有利になってしまった。何もかもあんたの責任なんだぞ。あんたが母を――」
「俺はレニノアのものだし、レニノアは俺のものだ」
男はしごくまっとうなことを言う口調で言い放った。
「ずっと前からそう決まっていた。あの子が生まれたときからだ。俺が生まれたときから。なのに、あの子の父親が俺たちを引き裂いた――決して諦めないと俺たちは誓った」
まるで自分こそが悲劇の主人公なのだというように。両手を広げ、悦に入ってみせる男の完璧な美貌――あまりにフィリクスそのものの顔。
少年はカッとなる。怒りのあまり黒い目のふちに銀色の光が湧いたが、月光でさえそれを照らすことはできなかった。
「人倫に悖る行いをして、いったい何が誓いだこの馬鹿野郎! 俺が、俺さえ皇帝陛下の血統であれば、今ある問題の半分は起こらなくてよかったはずなんだぞ!?」
異民族の侵略と内乱の芽ばえにより帝国が分裂しかけていることも。そのため皇帝がありとあらゆる配下をパズルの駒のように広大な領土のあちこちに配置し、大規模な反乱を押さえようと苦心していることも。何もかも、フィリクスという不義の子のせいなのに。
エミリオは実の子を鼻で笑った。
「図に乗るなよ、小僧。ドレフ帝国がお前ごときに左右されるわけがないだろう。――やれやれ、やっぱりちょくちょく様子見に来るんだったな。あの教師は何をやってるんだか」
「先生は数学の教師だ。帝王学の人じゃないし、そんなものを知らなくても俺は考える方法を教わった」
図形と数式が世界の内訳を、たくさんの本が輪郭を教えてくれた。フィリクスはこの世に自分には思いもよらぬほど多くの知識と真理があるのを知っている。
「考える方法、ね。ああ、そうだろうともよ。お前はきっと、全部知っているし知ろうとするんだろう。それでいいさ」
チャリ、と金属がこすれる音がする。見ると、エミリオは懐から革袋を取り出しフィリクスに放り投げたところだった。反射的に両手で受け止める。金貨だ。金貨が詰まった袋。
「宮廷を出ろ。言っている意味がわかるな?」
束の間、フィリクスは無言でエミリオの顔を見た。男と少年は鏡映しのようにそっくりだった。少しの皺と、年輪のような世間知が表情に浮かんでいるか否かの違いだけ。
「……言われなくてもそのつもりだった」
「金を取れ。そしてそのまま失せろ。――お前は皇太子ではないし、俺の息子でもない。俺が愛するのも必要とするのもレニノアだけで、子供はいらないんだ」
いっそ穏やかに澄んだ声だった。フィリクスが雪原に開いたクレバスに落ちたような気持ち……に、なったかというと、違った。彼はずっと前からその気持ちを胸の奥に抱いていたので、今更だった。
自分が父親にも母親にも望まれていないことを、再確認してなんになるんだ?
フィリクスは革袋をひっつかんだ。エミリオは薄い笑みを浮かべ、いい子だと呟く。
「勘違いするな。この世の何もかもがあんたの思い通りになるわけじゃない」
「何を当たり前のことを」
「お前の願いは叶わないと言ったんだ。――母上様がお前を受け入れることは決してない。何故なら彼女は、皇后の座とその生活をこそ愛しているからだ。周囲に額づかれることが生きがいなんだ。その扱いを存続させてくれるから、彼女はエリシアスを愛している」
俺じゃなくて。
「お前がどれだけ彼女を愛しても、彼女自身を愛する彼女の愛に勝てることは永遠にない」
それだけ言って、フィリクスはエミリオに背を向けた。この世の誰よりも美しい男が意味深に笑っていることはわかっていたが、振り返らなかった。戦場を放って、わざわざ都に取って返し他人の妻に愛を囁く男……。反吐が出る。
気づけばフィリクスは駆け足になっていた。
そのまま、北の離宮の高い塀を乗り越える。気づかないうちに手足が伸び、体力もついていたのだ。彼は離宮から本宮へと続く小道を駆けた。舗装されていない道は白い小石が敷き詰められ、足音が反響する。室内履きを脱いで両手に持つ。
シンクレア先生は本宮よりの使用人棟にいる、と知っていた。それは木で造られた粗末な小屋で、使用人の等級によって棟が分けられている。ポケットの中の革袋が鳴らないよう抑えながら、フィリクスは小声で人を呼んだ。数秒遅れて、面倒くさそうな表情を隠しもしない、若い男が出窓から顔を出した。
「何?」
「せんせ、あ――教師のシンクレアを呼んでくれ。北の離宮の者が呼んでいると言ってくれ」
「あー? ああ、あー……」
若い男は頭をぼりぼりかきながら呻き、フィリクスに向かって手を突き出した。一瞬戸惑ったが、革袋から金貨を一枚出しておずおずと手に乗せると、男はそれを取って姿を消す。
あとに小屋と、フィリクスが残された。誰かの寝息が聞こえる。宵闇に風が鳴る。星空は彼を見下ろし、その小ささを突きつけるようだ。
やがて小屋の一つしかない出入り口が開いて、先生が眠たげな顔を覗かせる。フィリクスを見るなり幽霊を見たように固まった彼は、老齢で固まった関節を無理やり伸ばして少年に駆け寄った。
手を引かれ、宮廷人からこの小屋を隠すための木立の中へ連れられる。誰からも見られない位置まできてから、老人は小声で彼を叱った。
「いったいなんという悪戯小僧だ! このことでどんな問題が巻き起こるか、わからないのですか!?」
シンクレア先生の皺まみれの手の中へ、フィリクスは革袋を押し込む。老人のひび割れた唇が半開きになり、手は金貨の重みをまさぐる。
「俺がいることで、たくさんの人が傷つくんだ、先生」
言葉を選ぶ間もなくフィリクスは言った。
「俺はまだ、それに立ち向かう力がない。本当なら皇帝をお助けすべきなのかもしれない。エリシアスの側にいてやるべきなのかもしれない。でも――俺の存在は宮廷の不和の元だ。猜疑の種だ。今はまだ、そのときじゃない。俺がドレフ帝国にしてやれることは離れることくらいだ。だから、そうするつもりだ」
間近に見る先生の目が凪いでいることにフィリクスは気づく。そうだ、ずっと前からそうだった。この人は確かにフィリクスの支えであり、教え子として慈しんでくれた人だ。だが、それだけ。フィリクスを教えることに喜びを覚えていても、先生にはそれより孫娘が大事だろう。
当たり前のことだ。母が息子より愛する男を常に選び続けたように、誰にだって譲れないほど大切な人がいる。
肉が落ち握力も落ちたか細い指が、そっと少年の手を握った。二人の間に革袋が落ちてどすんと音を立てた。
「……何もして差し上げられなかったことを、悔しく思います」
「そんなことはないよ。先生はいつだって俺の先生だった」
「もっと、たくさんのことを教えて差し上げたかったが。しかし生きていく上で必要なことは叩き込んで差し上げた、はずですわな」
フィリクスはシンクレア先生の手をぎゅっと握り、離した。……床から天井までそびえる大好きな本たちのこと、パンや焼き菓子を焼く方法を学びたいと思いながらそのままにしてしまったこと、庭でハーブを育てようとしたこと、エリシアスが遊びに来たこと、それを先生に内緒にしたこと。
――教わったたくさんのこと。薔薇の花弁の配置や数に現れる神々の御手が触れた跡。惑星の周期と軌道半径の音楽的な旋律。葉の角度や枝分かれに黄金の規律があること。光の魔法が持つ波は星の運航速度を示し、この世界が星々の中のひとつであることを指し示す。
北の離宮は寂しい場所でも、フィリクスの半生は決して不幸ではなかった。彼には真理と、そこへ導いてくれた人がいた。
「おさらばです、先生。もう会えないでしょう」
シンクレア先生は深く、深く頭を下げる。革袋を見つめているのか、目を閉じているのか知りたい気もしたし、知らない方がいい気もした。
「ご多幸を、お祈り申し上げます。フィリクス様……私の最後の生徒」
そうして少年は駆け出す。静まり返った宮殿の中を一羽の鳥のようにひた走る。
向かう先には未来が待っている。




