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【書籍化決定】どうやら私は悪役のようですね。それで?【第二部完結】  作者: 重田いの
外伝

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エリシアス

 

 鏡の前に必要以上に長く立つとき、フィリクスは自分の背丈を映すにはその姿見では足りないことに気づく。あれほど瘦せっぽちだった手足はだんだん太くなり、胸板や腰回りにも肉がついた。最近は、池の周りを走ることが日課に足された。


 走り終わって戻ってくると、朝食である。どっしりして酸味のある黒パンがたっぷり。バターや油はなし、でもトマトと卵の煮込みがある。川に住む小魚の塩焼きと、酢漬けのカブの薄切り、それから葉物野菜が別のボウルに山ほど。どれほど腹に詰め込んでも、昼前にはもう空腹で腹が鳴る。


 食事の量が足りないと癇癪を起こしたのはつい先週のことだった。自分の中にそれほどの量の感情があるとフィリクスは知らなかったし、よりにもよって飯の量でそれを爆発させるとは情けない限りだった。


 だが、仕方ない。足りないもんは足りないのである。腹減ったつってんだろ、ってなもんである。


 彼は姿を見せない使用人たちに向かって怒鳴り散らした。円形の天井に声がワンワンと反響して戻ってくるほど。とうとう護衛騎士を従えた主計係らしい役人が出張ってくるほどだった。そもそもここへやってきた頃から変わらない量で足りるわけがないだろう、普段から手を煩わせていないのだから食うくらいさせろ――と怒鳴り、ダンダン足踏みし、こうまで言った。


「配下の傭兵たちに思う存分飲み食いさせることは長の第一の資質とまで言われているのに、いみじくも皇后の子たる俺にこの扱いか!?」

 その甲斐あってというべきか、赤っ恥かいた甲斐あったというべきか、ともかくそうして、食事は増量されたのだった。


 もう十五歳。より背が伸びるのに、足りるだろうか。


 シンクレア先生は老いた。授業は自力で公式を再発見することを中心に、あらゆる定理とその利用方法を学ぶ。彼がフィリクスに一人で生きるための力をつけさせようとしていることを、すでにわかる年になっていた。


 ある日の夕暮れのことだ。フィリクスは宿題をしていた。先生に出された冊子をやり終えると、図書室に行きその範囲に関係する本を死ぬほど抱えて寝台の周りに積み上げ、定理や思考方法を書き出した。それでもまだイライラしていた。新しい世界、知らない未来、数字で表現されるありとあらゆるもの。少し前までそれは彼にとってすべてだった。だが、触れも嗅げも味わいもできないものを見てもむなしいだけだった。


 ――先生がすでにただの歩行によろめくほど年老いていて、よかったと思うのはこんなときだ。こんなにも我を忘れた気持ちでいるとき、もしシンクレア先生が目の前にいたら、八つ当たりしてしまうかもしれない。


 フィリクスはそれが怖かった。すでに彼は恩師より背が高く、身体の厚みも肩幅でも勝っている。自分が何をしでかすかわからない、この状態が嫌いだった。だが先生は、これは自然なことだという。もう何年かしたら落ち着いて、思慮深く優しい青年になると。


「あなたはよく耐えている」

 とまで言うのだった。

 そんな日がくるとは信じられなかった。夕闇が迫っていた。中庭は珍しく静かで、風がさやさやと円形の池の水面を撫でていた。刻まれる波紋もゆるやかで幅広く、北の離宮にしては軽やかな雰囲気で。


 空気が甘い気がした。

 フィリクスはふと、顔を上げた。暗がりの中、少年が立ちすくんでいた。フィリクスは瞬きした。少年はおずおずと、まだ残る夕日と篝火の光の下に進み出た。


 彼はまだ小さかった。黒髪と黒い目をして、肌は浅黒い。まだぷくぷくした身体つきでお腹が出ている。上等のチュニックとゆるいズボンを履いて、すべての袖口には金糸で刺繍がされていた。フィリクスはその文様の意味も名前も知っていた。かつて皇太子と呼ばれていた頃、彼自身もまた、その刺繍のついた服を着ていたから。


「……エリシアス?」

 フィリクスが呟くと、こくこく頷いた少年が嬉しそうに駆けだしてくる。


 その短い手足が活発に動くのを、満面の笑みに殴られた形跡がないことを、きらきら光る黒いまなざしが父に似ていることを、――黒髪がフィリクスと同じ色と質感をしていることを、彼は知る。


「あにうえー!」

 と叫んで、エリシアスはフィリクスの腕の中へ飛び込んだ。その小さな身体。柔らかさ。香り。ああ。


「エリシアス……」

「あにうえっ、あにうええ。あのね、おれ、ずっとあなたに会いたかった!」

「お、俺に?」

「そう!」


 きゃあきゃあ笑いながらエリシアスは無邪気にフィリクスの髪の毛を引っ張った。

「おれ、あにうえがいて嬉しい!」


 世界が砕ける音がする。足元が揺らぐ。積んでおいた本の山が崩れ、そろそろ来るだろう夕食を運ぶ使用人の気配を耳で探る。


 フィリクスは幼い異父弟をぎゅっと抱きしめた。



 ***



 ――皇后レニノアは本当に初夜のその夜に懐妊したのか?


 ドレフ帝国宮廷においてそれは、口に出されぬまま共有された疑問だった。皇帝夫妻は最初から不仲だった。


 父は己の治世に口出しをする母とその一族を疎んじていた。

 母は言う通りにならない父とそれを笑う宮廷人を憎んでいた。


 そんな二人の婚姻がうまくいくわけはなかった。そもそも婚約時代から破綻したような関係だった二人に、最初の最初で子が? そんなことがあるわけがない。いくら神々の祝福があろうとも、それだけで子は生まれまい。夫婦が思いあっていなければ……そして、皇后の方に従順さと貞淑さがなければ。


 皇帝の敵はそう考えたし、一部の味方もまたそうだった。


 生まれた皇太子フィリクスは陰気な皇帝に似ていなかった。そのうえ言葉の出が遅く、三歳まで意味ある言葉を喋らなかった。だからだろうか、母レニノアは彼に失望し、邪険に扱うようになる。


 人々の疑惑は深まり、噂は噂を呼び、拍車をかけた。やがて父はフィリクスを我が子と認定したが、それは口さがない噂で皇帝の血統を穢すわけにはいかないという理由だけだった。


 母には次の仕事が待っていた。皇太子のスペアである男の子と、他国や貴族に嫁がせるための女の子を産まなければならない。だがその機会は七年も訪れなかった。流産に次ぐ流産、死産に次ぐ死産。


 ――皇后は呪われている、と人は言う。

 宮廷には常に華やかさが求められる。続く祝宴や酒が母の身体を痛めつけたのか――それとも、本人が稀に口にしたように、天罰だったのか。


「どうして、みんなあたくしが悪いっていうのかしら。違うわ。あたくしは悪くないのよ」

 と、たどたどしく呟く母。彼女には自責がなく、むしろ自我らしい自我がない。他責と、責任転嫁と、誰かが自分の人生の重荷を肩代わりしてくれるという根拠のない期待だけでできている。それでも側室の誰かが自分に代わって皇后の座に就くのは我慢ならないらしい。たまにフィリクスに優しいときがあっても、それは犬猫を可愛がるのと大差ない。


 フィリクスは母への期待を持つのをやめた。殴られる日々が始まると、無関心は憎しみに変わった。


 母は息子を憎んでいる。父が数多の側室を囲い、彼女らには次々と子ができたというのもまた、母の狂気を加速させたのかもしれない。だがそのことと、フィリクスになんの関係があるのだ?


 エリシアスが生まれた日。宮廷は東の草原地帯を望む山岳の城にあった。雷鳴が轟き、風がごうと鳴る凄まじい夜。はるか東方にあるという【竜の頭】の頂が黒い雲の向こうに光るのが見えたことを覚えている。


 フィリクスがどれほど産声に感謝したことか、計り知れないだろう。もう気まぐれに可愛がられ、機嫌のよしあし次第で殴られなくてすむ。殴られなくてすむのだ。鞭打たれなくてすむ……。


 北の離宮に入れられる十歳のとき、もちろん誰も彼にそんなことをわざわざ説明したり、くどくど説得したりなどしなかった。わけもわかりません、という子供のあざとい顔を取り繕いながら、フィリクスは己の腕を引く侍従に尋ねた。


「やっぱり俺は父上様の子じゃなかったのかな?」

 沈黙。

「だから離宮に追いやられるんだろうか。だから母上様は俺のことお好きじゃなかったんだろうか」

 沈黙。変わりない。


「それでも俺は、彼らのことを許して愛しているよと、もし聞かれたらお答えしてくれ」

 そうしてこの寂しい場所にやってきた。


 父母がフィリクスについて、何ら気に掛けることはないだろうとわかっていた。だって彼らにはもう次の皇太子がいるのだから。


 自分が捨てられたことに対して、異論はなかった。

 そして困ったことに、愛していると言ったのは本当だった。


 ***


 フィリクスは石畳の端にしゃがみ込み、エリシアスと目を合わせる。

「いいか、エリシアス。これは遊びだけど、ちゃんとした学問だ」


「んー、あにうえ、先生みたいな言い方ねえ」

 幼い弟はヘラヘラ笑った。


 あれから、このいと尊き皇太子殿下はたびたび後宮を抜け出してフィリクスの元へ遊びにくるようになった。なんでも今は側室同士の関係も落ち着いており、子供たち(皇帝の子供たちだ。総勢二十六人。――二十六人!)が庭でかくれんぼをしても問題なしと目こぼしされているのだった。まだ五歳のエリシアスは正式な教育が開始される前だ。乳母たちがおしゃべりに夢中になったうちに、活発な子供たちはこっそり庭木の茂みに潜り込み、こうして北の離宮へ駆けだしても誰にも気づかれない、というわけなのだった。


 ――本当だろうか? と疑ってしまうのは、フィリクスに染みついた疑いの癖である。大人たちが大切な皇太子を放っておくはずがないのだ。皇帝と皇后の間に産まれた、れっきとした帝国を受け継ぐ子供なのだから。


 咳もしないし。


「よーし、紐、持ったか?」

「持ったよう」


 フィリクスは朗らかな声を作って張り上げ、エリシアスに笑いかけた。紐のぶんだけ離れたところで、幼い弟が黒い目を輝かせる。皇帝の目だ。ドレフの目。アティフの小刀と同じ、黒い目。


 二人の間にはぴんと麻紐が張られていた。三角測量の、基線だ。

「俺とお前の間の紐の長さと、あの門までの距離がある。三角形だ。いいな?」


 エリシアスはこくこく頷いた。

「で、あの門が【始祖王の目】?」

「そう。動かない点。星。唯一の」


 フィリクス頷き、もう一方の手で離宮の大門を示す。中庭の向こう、木々と柱に隠されて、白い大理石の巨大な門が静かに佇んでいる。


「じゃあ、おれはこっちの端から見るね」

 エリシアスは腕を伸ばして小さな木の定規を目の高さに構えた。フィリクスも反対側に立ち、同じように門を見据える。胸の奥が少し苦しくなったが、もう十五歳。咳は出ない、はずだ。


 年の離れた弟は本当に咳をしない。こんなに風が冷たく、日差しが温かい日でも。手足は長いし動きも軽いし、将来大きくなるんだと誰が見てもわかる。深く息を吸い込んで吐く、という何でもないことを何でもないこととして行い、思う存分走り回れる彼のことが、フィリクスは少しだけ羨ましかった。


「角度を測る、と。さ、今どれくらいだ?」

「待ってえ……」


 門の上端と基線のなす角へ、エリシアスは分度器を当てた。腕はぷるぷる震えているし、分度器自体が定規と糸で作った簡易的なものだ。あまり精度はよろしくないだろう。だが、その真剣なまなざしとふっくらした頬の横顔を眺めていると、そんな些細なことは気にならない。


「三十二度くらい」

「こっちは二十七度だ」


 二人は顔を見合わせ、何故だか気恥ずかしくなってへへっと笑い合った。

 紐を下し、エリシアスはわくわく足踏みをした。

「じゃあ、描いて描いて。みーせーてー」


 石畳の上に膝をつき、フィリクスは懐からチョークを取り出す。エリシアスのきらきらした視線を感じながら、さっき測量した角度を元に図を描き始めた。基線と二つの観測点、大門へ伸びる二本の線。三角形が形を成す。


 フィリクスは指で距離の比をなぞりながら図に角度を書き込んだ。頭の中でシンクレア先生に教わった計算を思い出す。――と、小さな手が伸びてきて、チョークを掴んだ。


「あにうえ、おれがここ?」

「そうだな。で、兄上がここだ。式に当てはめたら門までの距離が出る」

「ねえねえこれってさ、街でも使えるんだもんね? 山とか、川とかでも使えるんだもんね」


「うん。兵隊も使うぞ。こうやって敵との距離を測るんだ」

「じゃあさあ」

 何が面白いのか、にやにや笑いながらエリシアスはフィリクスを見つめる。


「おれたち今、戦争のべんきょーしてるんだねえ」

「……そうだな」

「ドレフじんだもん! いつか、おれたち戦争にいくんだ。おれ、おれさ、指揮官やるからさ、あにうえ突撃隊の隊長やらせてあげるよ。一番槍ぃ! っていうの、やらせたげる」


 胸にギュッと痛みが走り、喘息発作の前兆がみぞおちを駆け巡る。もう何年も忘れていた、特別寒い雨の夜にしか思い出さなくなっていた感触だった。フィリクスは眉をひそめないよう気を付けながら、穏やかに言う。


「そりゃ光栄だね。エリシアスはいい将軍になるだろう」

 ――フィリクスがそうなれる日は来なくても。


 彼は静かに、弟の髪を撫でる。自分とそっくり同じ黒髪を。湧き上がるかもしれない感情に蓋をする。

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