シンクレア先生
弟が生まれたとき、彼がどれほど嬉しかったことか!
フィリクスはエリシアスの命と誕生に心から感謝した。母と彼がいる産屋の方角に跪いて、拝んで構わないくらい。
異父弟が生まれたその日、フィリクスはひそかに北の離宮に連れていかれた。ときに十歳と十一か月。まさかそれから十年以上、草原も山も湖も見ることが叶わなくなるとは。すぐにそれが幽閉だと悟ったが、その理由はない、ほとんど本能によるものだった。
それでも彼は幸せだった。北の離宮は天国だった。ここには自由があった。監視されない自由が――閉じ込められていても、自由だったのだ。
乳母は去った。涙を流して。世話役の侍女たちは、良縁を約束されてむしろ嬉しそうに去った。顔見知りの衛兵たちは、どこへ行ったのか。もう皇太子殿下と呼ばれることはないのだ。表向きのフィリクスは、死んだのだった。
北の離宮は薄暗い。風は通るが湿って重たく、どこか生温い水の匂いがする。白い大理石づくりの大きな建物だが、端っこの方は朽ちていくがままに放置され修繕されないので、隙間風がえんえんと吹くがまま。
古王国次代の丸い柱が立ち並び、円形の池と中庭がある。そのいずれにも、神々と始祖王と精霊たち、異種族たちの彫刻が施されている。奇妙に思えるほど永遠に続く幾何学模様や花と蔓の文様がそれらを縁取り、地面や枠組みとして機能する……。
放っておけば彼はそれらの絵を見続けたまま、二日でも三日でも立ち尽くしていたことだろう。身体が弱く、咳に邪魔されなければきっとそうしていたに違いない。
食事は一日に三度。気づけば池のほとりに用意されている。それを持ってくる黒づくめのローブに覆面をした、おそらく男の使用人がどこの誰なのか知ることはない。
彼は喘息を発症した。もう治ったと思っていたのに、幼い頃のように死にそうになった。そうすると医者が来たが、それ以外のときは放置されていた。
八歳以来、自分で湿布ができるようになっていた。ドレフ人は強くあらねばならぬ。熱湯に薬草の粉を含ませたガーゼを入れて、乾燥したのが十分に戻ったら胸に張りつける。それでも夜中に咳で目覚めることは続いたが、かなり楽になった。
フィリクスは同年代より身体が小さかった。か細い手足はちっとも伸びず、伸びをすれば肋骨が浮くほど。頬はふっくらして愛らしかったが、大きすぎるぎょろりとした瞳の印象がその長所を台無しにしていた。
彼はまるで目だけが大きい水辺のトカゲだ、と母は言った。
彼自身もまた、その通りだと思う。自分はひどく醜く、きっと大人になっても大きくなれない。骨も肺も弱いまま、立派なドレフ人にも、皇帝にもなれないのだ。
退屈を通り越した死んだような日々の中でも、慰めはあった。北の離宮はかつて、とある魔法使いが引き籠った場所でもあったのだ。とっくの昔に死んだそいつは、山ほどの本を残していた。教本があり、糊で綴じられた冊子があり、パズルや謎かけを扱った市井の慰み本があり、そして魔法と哲学、歴史と数学、その他あらゆる学問についての本があった。
初歩的な読み書き計算を知っていてよかった。この宝の山を無駄にするところだった。彼は薄っぺらい毛布が敷かれた寝台の上で、朝から晩まで本を読んだ。
ほどなくして何より嬉しいことが起こった。勉強を続けていいことになったのだ。朝起きて顔を洗い、一人きりで食事を摂る。そして授業が朝の八時に始まる。
庭には鉄の棒がすっくと突き刺さり、周囲には装飾数字が彫刻された池がある。離宮の四角く切り取られた空に差し込む陽の光が池を照らすと、影はそのまま日時計として彼に時刻を知らせる。
ドレフ人は、時間と約束に厳格な民である。
時間ぴったりに勉強室に行くと、すぐに先生が入ってきた。
「シンクレア先生、おはようございます」
「おはようございます、フィリクス様。宿題はすませられましたかな?」
「ハイ! ご確認お願いします」
ぴしりと両腕を身体の脇にくっつけて一礼する男の子の姿に、初老の男性はふっと目を細めて笑った。
――先生に会ったのは、まだ後宮で暮らしていた頃。六歳になった当日に初めて引き合わされた。
「皇太子殿下、御意を得ます」
と言って平伏した先生の、禿げてぴかぴかになった頭のてっぺんを興味深く見つめたことを覚えている。ドレフ人らしい浅黒い肌をしていたが、背が低く、眼鏡をかけた小さな目と巨大な鷲鼻といい、への字の口といい、ちっとも戦士らしくない老人だった。胸に当てたごつごつした大きな手以外、彼に同胞らしさというものは見当たらなかった。
だがシンクレア先生ほど賢い人をフィリクスは知らない。
先生は星の巡りを読み方角を知るすべを知っていた。星座と、そのすべてに関する神話を知っていた。幾何学に造詣が深く、数式そのものがお好きなようだった。フィリクスは老人の手が、宮廷のどんな侍女の腰巻きよりも壁の彫刻よりもうつくしい数式を生み出すことを知った。
「ごらん」
老いて皺がれた指が彼に真理を指し示す。天球儀は削り出されたラピスラズリでできていて、その石の模様がそのまま時空の波を現わす。
「これがあなたの今、いる星。これが太陽。そしておそらくはここが、始祖王が消えた時空の狭間――」
正直言って、言われていることの半分も理解できなかったことは認めよう。フィリクスはシンクレア先生と一緒にいる時間が一番好きだった。彼に言われたことを少しでも分かるようになりたくて、本を読み、同じ数式を何度も分解しては組み立て、数字と数字のあわいに味と香りがすることを発見した。
星の運行を表す図面。世界の成り立ちを説明するための学問。かけがえのないその時間が、フィリクスに帰ってきたのだった。
宿題を確認し終えて先生は、小さな目をますます細くして微笑んだ。
「完璧ですな、皇太子で――いや、フィリクス様。再確認もご自分でなさっておられる。私がこれまで教えた中で、一番出来が良くやる気のある生徒ですよ、あなたは」
フィリクスは揃えた膝をすり合わせもじもじした。率直な褒め言葉は、これまでかけられたどんな言葉をも洗い流すほど少年の心を温める。
明るい時間帯。先生の顔。ちょっと煙たい水煙草の匂い。節くれだった指の皺には洗っても取れない茶色のしみ。彼は先生のすべてが好きだった。先生がいるのは朝食後から昼食までのわずかでしかないけれど、ちょうど北の離宮にも光が差す時間帯に授業があることで、フィリクスはこの世界がひどく輝かしいものであると悟るのだった。
「さて」
と言い、シンクレア先生は黒板の上に点を一つ打った。
ドレフ人の多くは絨毯を敷いた床に座って車座になりくつろぐ。母が外国好みだったので、フィリクスはどちらかといえばリュイス王国式のソファ文化の方が親しみやすい。あぐらはすぐに足首が痛くなるし、お尻の骨に大理石の床の冷たさが染みこむ。
だが、そんなことはどうでもよかった。フィリクスは先生の指先と、チョークの白い一点だけを見つめた。
「今日は三角測量です。海をゆく船乗りは星と己のいる位置を測るためこの公式を用います。この世で最も実用的で、そして美しい法則ですな」
フィリクスは姿勢を正した。測る、という言葉には物語が含まれている。大海原。夜中。星空。建物で切り取られていない、どこまでもどこまでも続く……きっと海もまた黒黒とうねり、どこまでも続くのだろう。彼が目指すのは南大陸、それとも西大陸か?
先生は点から少し離れたところに、もう二つの点を置いた。
「ここに船が二つあると仮定しましょう。錨を下して、停止している船です。どちらも位置は分かっている。距離も、地上から測れるとします」
二点の間に線が引かれ、端には小さな印が付けられる。
「これが基線です。三角測量の要となるもの。ここまではよろしいかな」
「はい」
フィリクスは頷いた。
「さて、この二つの船から船乗りは同時に、同じ星を見上げます」
先生は最初の点へ向けて、二本の線を引いた。船と船。友達同士の船が見上げる、ただ一点。
それは星だ。たったひとつの星だ。
「先生、この星は【始祖王の目】?」
「さよう。世界で唯一、どんなときでも決している位置を変えない星ですじゃ。船位置から見た【始祖王の目】の方向、船から見た方向。それぞれ、角度を測る」
先生の震える指が線と線の間に角度の印をつけたした。煙の香りと、わずかに薬草の匂いがする。フィリクス自身を包む湿布の匂いと相まって、まるでここには死にかけしかいないみたいだ。
実際、そうなのかもしれない。
「距離は分からない場合、まず角度を測る。これが肝心です」
フィリクスは図に食い入った。さっきまでただの三つの点でしかなかったものが、線で結ばれたとたん孤独に海をゆく冒険者になる。三角形の合間に胸が高鳴り、少年は束の間、大人の自分が船乗りになったのを夢見た。
「こうしてみると、基線の長さと、二つの角が分かる」
「残りの辺が計算できます」
フィリクスは思わず口を挟んだ。本で読んだことが授業で出てくるこの瞬間、彼は一瞬だけこの世界の広さに触れ、ゾクリとするのだった。
「その通り」
先生は満足そうに頷いた。
「つまり、【始祖王の目】までの距離が求まる。重要なのは観測点が二つあること。そして、互いの位置関係が分かっていること。孤立した一点では、距離は決して分からない」
胸の奥の知らない部分が揺れた気がした。
「一人じゃ測れないんですね」
「ええ」
先生は穏やかに続けた。
「ドレフ人が小隊単位、友人同士で行動しがちなのも、何も我らが群れで暮らす異種族の子孫であるからばかりではありますまい」
自分で言ったことが面白かったようで、ククッと笑う。フィリクスもつられて笑った。先生は星を示す点を小さな旗の形に描き直した。
「これ、このように。平面図でも同じことができます。遠くにある陣営と己の距離が測れるというわけですな。戦場でも建築でも、天文学でも。基本は同じです。三角測量は世界の骨組みを与える技術です」
フィリクスは指先で黒板の上の線をなぞる。指先にうっすら白いあとがつく。ただの点と点と点。それがあるだけで、海が生まれ星が瞬き、夢見ることさえ許されないはずの大人になった自分を彼は垣間見る。
大きくなったら。父上様くらい立派な男になれたら。きっと喘息なんか治っちゃうんだろう。母上様の飼い猫を撫でただけで咳き込んで死にかけることもなくなって、邪険に裾で払われることも、侍女たちに笑われることもなくなって……。
鐘の音が授業の終わりを告げた。まだ日は高いのに、先生は帰るのだ。彼が誰かと心から触れ合えたと思ったとき、その時間はすぐ終わってしまう。
「先生、ありがとうございました」
と膝を揃えて両手を絨毯につき、頭を下げる。シンクレア先生は黒板とチョークをまとめながら、どっさりと冊子にまとめられた宿題を出した。
「ゆめゆめ、復習も予習も滞りなく行われますよう。未来の自分に笑われるようなことはなさいますな」
「ハイ」
誰に導かれるわけでもなく先生は帰っていった。去り際に、振り返って片目をつぶってくれるのを忘れなかった。フィリクスは小さく手を振って、大好きな老人との別れを惜しむ。
ほどなくして入れ替わりに無表情な男が入ってくる。瘦せこけた頬に髭はない。腰に佩いたサーベルと交差するような足取りは、彼が宦官であることを示していた。
去勢男はフィリクスの前に膝をつくと、子供に合わせる目はないとでも言いたげに彼の存在を無視して、先生がくれた冊子をめくった。ぱらぱら、ぱら。紙の擦れる音が大きく響く。この広く、寂しい離宮に。やがて目当てのものが、つまりシンクレア先生がこっそりとフィリクスに個人的な感情を示したり、何か情報を書き残そうとしただとかそのための暗号を忍ばせただとか、そういった不適切な行動を取らなかったかの証拠が、見つからなかったことにつまらなさそうな息を吐いて、そこでようやく宦官はフィリクスの目を見た。
「ようございます。これにてご免」
それだけ。フィリクスが頷くのも見ることなく、立ち去る。
誰もいなくなると、フィリクスは足を投げ出して座り込む。ほうっと大きなため息が漏れる。誰もいない、ひとりぼっちだと感じているのは彼だけで、本当は円形の天井の上や遠くの柱の影に誰かいるのかもしれない。いないのかもしれない。彼には気配を探るすべがない。
だが彼はもうそんなに幼くもない。誰かいないの? と大声上げて走り回り、せめて誰かの痕跡がないか探し回るようなことをするには、年を取りすぎていた。
――母がどうして彼にこんな仕打ちをするのか、わかりきってしまうくらいには大きかった。
それから、食事の時間が来るまで本を読んで、宿題をした。明日また先生に会えるのを楽しみに。ただそれだけで息ができると信じている。
夜が近づくにつれ、胸がヒュウヒュウ嫌な音を立てはじめる。大丈夫、息ができる、息ができている、平気平気。必死にそう思い込もうとする。誰かに縋っても助けてもらえないし、そもそも縋る大人もいないのだから。
「平気だ、俺は平気」
呟く声は池の水面に落ちて霧散する。
北の離宮の夜の足は速く、フィリクスはあえて、窓の外を見ないようにしている。




