ミナ・ラグスの場合
「お嬢様ァ、今月の保護料支払いに来たよー」
「だからその言い方。人聞きの悪い」
ミナを出迎えたアレクシアは部屋着姿で、おっとりとくつろいでいた。小さくも手の込んだ家具が整然と並ぶ、豪華な部屋である。
南国ファーテバの都シ・ロン。貿易港ハクスから北西に半日進むとその壮麗な城壁がある。フュルスト卿がこの街の名士となって久しく、彼が買い上げた大通り沿いの邸宅は、夫人の趣味によってみごとなリュイス式の装飾が施されていた。
ミナはずかずかと雇い主の部屋に上がり込み、勝手知ったる壁際の小机の上、ワインのデキャンタとガラスグラスを取り上げた。相変わらずいいものを取り揃えている。ミナ程度の、つまり孤児から女優に、女優から旅芸人と役者ギルドの元締めラグス座のプリ・マドンナにして経営者になり上がった女の舌でも、ワインの上等な味わいは感じ取れた。
「今月、何か問題は?」
「とくに。ああ、リュイスのパレットネス劇場が改修工事をするってんで、一時解雇された下っ端の役者たちが保護を求めてきたよ。場末の劇団に融通してもらったさ」
「そういえば、少し前に訪れたけど老朽化していたものねえ。適宜手を入れないとたいへんよねえ」
「だろうねー」
ミナはぐいっとワインを飲み干し、ふうと満足のため息。アレクシアへ歩み寄り、懐から取り出した革袋を差し出す。
フュルスト商会の女秘書は中身を改め、頷いた。
「ええ、確かに。どうもありがとう。またよろしくね」
「こちらこそー。ラグス座をはじめ我ら役者一同、フュルスト商会の保護と資金提供には心より感謝しております。ですよ!」
くすくすとアレクシアは笑い、ミナはおどけて貴族のような一礼をする。貴族の役を演じたときに覚えた、だいぶ昔のやり方だ。だがミナたちにとってそんなことは関係ない。王侯貴族や大商人、聖職者に何をやっているかわからないとにかく大物。彼らにパトロンになってもらい、金を出してもらわなければ役者はやっていけない。
ミナは女優としての自分が好きだった。孤児から劇場の住み込み清掃員になり、女優になり、無我夢中で成り上がってきた。身体を使ったこともあったし、罵倒されたことも殴られたことも数えきれないほどある。
結果として手に入れたそこそこの社会的地位。安定とはいえないまでも、飢えることのない暮らし。ミナはこれを手放す気はない。
それに。
「で、こちらは『特別な報告書』」
「ありがと」
ミナが手渡した書類にアレクシアは虎のような笑みで応えると、机の引き出しから革袋を取り出した。手にしてみるとずっしりと重く、確認するまでもなく先ほど支払った保護料を差し引いて余りあることがわかる。
――旅芸人も役者も、本来の身分なら入り込めない場所へいくことができる。王の目の前まで。その食事の席まで。
「それで? もっと聞かせてちょうだい。何か面白いことがあったのか、なかったか」
ミナはアレクシアの目の前の椅子にどっかり座り込み、いそいそとデキャンタを抱え込む。手酌でグラスの中に注がれる、こっくりとした赤。
そして上機嫌に喋り始めた。ありとあらゆるゴシップ、真実、やんごとなき場所から下品な場末の酒場まで、この半年で知り得たことのすべてを。
アレクシアはうんうん頷きながらその報告を聞く。時折、ミナのような女にはもったいなほど優雅な手つきでグラスをワインで満たしてくれる。ミナはそれを見るたびに、ぐうっと胸を締め付けられるような憧れをひそかに感じる。
ミナがアレクシアのため間諜活動に励んでいることを、おそらく誰もが知っている。知っていて、止めようがない。
なぜならラグス座が統括する役者どもの数は多すぎ、人脈は複雑すぎ、その保護のための費用は莫大になる。モグリや流れの役者はラグス座の敵なので、それらを始末する実働部隊の男たち、下働きや大道具小道具、化粧係たちの安全にまで気を配らなければならないとなると、現状、大陸でそこまでの資金を確保できるのはフュルスト商会だけなのだ。
「それで、ドレフ帝国の大将軍は結局退却を決めたみたいだよ。ありゃあ半島に引きこもって籠城しかなくなるだろうねえ」
「へえ……ではこれから、フィリクス皇子とその弟君の軍が帝都を守護することになるのね」
「だろうねー。でも、フィリクスってのは何者なんだろうね。急に現れて、皇太子殿下の兄でございって反逆者の討伐に加わるだなんて。しかも冗談みたいに強いんだってさ」
「西の方で有名だった流れ者の剣士よ。傭兵としてあちこち放浪していた、あれと同一人物」
ミナのグラスを煽る手が止まる。
「冗談だろ?」
「そう思うー?」
と口調を真似しておどけられ、ミナは両手を上げてデキャンタを離した。クリスタルガラスでできたその中身は、ほぼ空になっていた。
「降参降参。これ以上聞かないでおくよ。あたしは知っていることを話しただけで、知りたいわけじゃないからね」
「ふふ、そうね。その方がいいと思うわ」
小首をかしげるアレクシアは、立ち上がったミナを見送りに部屋の扉までを共に歩んだ。ほのかな香水の香りに若い娘らしい清潔な身なり、青ざめたほどに白い肌はけれど日光を知らないわけではないとミナは知っている。
フィリクスの正体についてミナがこれから他のパトロンたちに触れ回ることも、アレクシアの計算のうちなのだろう。この女は情報網と、おそらくは軍事力をも手に入れるつもりだ――とミナは悟る。これは敵への牽制だ。ミナを通して、アレクシアはドレフ帝国のフィリクス皇子と関係があると広がるのを期待して。
(怖い怖い。何をどうしたらこんな二十歳の娘が、そんなぎらぎらした目つきをして)
と思うものの、表に出さないだけの分別はある。
巨大な邸宅を形ばかり丁重に辞する中、ミナは背中や横顔に突き刺さる視線を感じる。あくまでにこやかな使用人の中にも、あの壺の影にもあの壁の向こうにも、ミナが少しでもしくじれば敵になる人間がいる。
(まったく、ここは魔窟だよ)
しかしながら困ったことに、彼女はこれが楽しいのだった。だってそうだろう? うつくしい女の形をした悪魔が、手ぐすね引いて国を蹂躙しようと画策している。それを最前列で見物できるのだ。
今しばらく、ミナはこの特権を手放すつもりなんてない。ドレフ帝国に始まった動乱が東の小国へ波及しつつある。この血生臭い時代が動くその瞬間を、この目で見たいから。人生は演劇だ。演者は本人の意志に関係なく、舞台に上がったからには役目を果たさなくてはならない。
アレクシアの演じる劇がどんなものであろうとも、生涯最高の楽しい観劇になるだろう。