転覆劇⑩
傭兵たちのざわめきが近くなるとシュカルムはすぐに気を取り直した。少なくとも表面上はそう見えた。
何人かの傭兵となんらかの相談を始めた彼を、アレクシアは放っておくことにした。仕事中に邪魔をするのも、彼を慰めるのも、彼女の役目ではないからだ。
準備をしなければならなかった。何の? 逃亡の、である。
いい加減、逃げないとまずい。バルドリック王は彼女を守らない。また、当たり前の話だがランデリオ公が見ず知らずの外国人の女などを本気で信頼したはずはない。
集まった傭兵団について、ランデリオ公は自分の配下でバルドリック王を弑逆するためにいるのだと思っており、シュカルムたちはそれを止めるための自分の軍事力だと思っており、その背後にはグリムヴァル第一王子殿下の陰謀がある。恐ろしいことである。
報酬はとりっぱぐれたが、とりあえず息のかかった傭兵をルム・ランデ内に送り込めた。あとは鳩と手紙とメモ、買収した使用人たちがうまく先導してくれれば、アレクシアの意図の半分くらいは通るだろう。
フュルスト商会の五人を殺した犯人は、おそらくリュイスのフィルセナ前王妃だ。彼女がリュイス人としてアレクシアを憎むというのなら、十分に理由がある。アレクシアは祖父レイヴンクール公爵とドレフ人傭兵フィリクスを先導し、【三日間の反乱】によってタリオン前王を退位させた。彼の唯一生き残った息子、マリウスもその地位を剥奪され、北の辺境に虜囚の身である。
夫と息子を社会的に殺されたのだ、母親にとって復讐の理由には十分だろう。たとえ彼女の心が他の男にあるのだとしても、王妃の称号を奪われただけでも理由に足りる。
気づいてみればむしろ、どうして考えてみなかったのかと思うほどだった。テトラス人を疑う前に、リュイス人を振り返ってみることを。
……舐めやがって。
アレクシアは唇を噛む。ひくひく、頬が勝手に動いて営業用の笑みが浮かんでしまう。顎を引き、ぱきぱき首の骨を鳴らし、そうするとひどく怖い顔になるらしいとは知っている。
早朝。すっかり冬の寒さだった。
隣で眠っているエマを揺すり起こすと、眠りが浅かったのだろう、ぱっと飛び起きた。
「アレクシア様?」
「しぃー」
隣の部屋の扉をノックすると、まさに飛び起きたところのデルマンスが不安そうに顔を覗かせる。アレクシアは二人に頷き、手早く身支度をさせた。
三人、足音をしのばせこっそり裏庭へ回る。男女別に分かれた使用人棟には灯りが灯っていた。この国は朝でも夜のように暗いから。
廊下のない王宮の中を忍び足で歩く。分厚い絨毯は足音を殺してくれ、タペストリーとカーテンは凍り付いて衣擦れを起こすこともない。きょろきょろするデルマンスを引っ張りつつ、案外簡単に目的の場所へたどりついた。
「アレクシア様、教えてください。今日、出ていくのですか?」
とエマが小声で尋ねるのに頷き、アレクシアは凍った垣根の影にエマごと自分の身体を押し込んだ。自分がその上に覆いかぶさり、デルマンスに言う。
「誰もいないわね? 見張っていて」
「わ、わかっ……た」
青年の目元はわずかに赤かった。アレクシアにどういう態度を取ればいいのかも決めかねるらしい。母親の一件で、まだ混乱しているのだ。当たり前だ。
「もう少しで……騒ぎが起きるから。そうしたら城下街へ出られるわ」
シュカルムが共有してくれたのはそこまで。これ以降は、アレクシアたちの運次第である。
「騒ぎ?」
「え? 聞いてないけど」
と、二人が聞き返した瞬間、盛大な爆発音とともに王宮ルム・ランデの東の一画が吹き飛んだ。黄色に塗られた漆喰が、中の煉瓦ごと四方八方に吹っ飛んでいく。悲鳴。絶叫。気の早い誰かが寝間着のまま走り出したのが、煙に紛れて見える。
「え? え?」
エマは呆けたようにそれを見、アレクシアを見、呟いた。
「は?」
と言ったきり、デルマンスは角ばった肩を怒らせたまま、立ちすくむ。
「え? ここまでするとは、はい?」
「何もかもがいい機会だと、誰かが判断したようね。私もそう思ったから、出ていかせてもらうことにしたのよ」
アレクシアはにっこり笑った。本当は、膝を抱えていても耐えきれないほど寒くて歯がかちかち鳴りそうだったけれども。根性でこらえる。怖がっていると思われてはたまらない。アレクシアはエマの前では恰好いいお嬢様でいたいのだった。
頭を抱えてしまったエマと、黙ってしゃがみこんでしまったデルマンスへ、アレクシアは説明する。
つまり――ランデリオ公に取り入ってアレクシアがかき集めた傭兵たちは、王宮ルム・ランデへも、バルドリック王へも、一過言二過言ある者たちばかりだった。給金の未払いに憤った元兵士、以前の戦争で王家への個人的な恨みを募らせた者、そして元ローデン騎士団の騎士だった者。
おそらくランデリオ公は彼らを集めたことを理由にアレクシアを捕らえ、バルドリック王への忠誠の証にするつもりだったのだろう。あるいは手柄をミストヴェル侯爵に譲ってやり、恩義を着せるつもりがあったのかもしれない。
ちょこまかと小うるさいリュイスの小娘はいなくなり、王へ忠義立てを見せることができる。一石二鳥だ。
「アレクシア様、あのね。いいえ、もういいです」
「……俺、ひょっとしたら戻ってくるべきじゃなかったのかも」
と嘆き合う二人をくすくす笑い、アレクシアは二の腕をさする。――もっと時間があったらより綿密な計画が立てられた、という気持ちもあるにはある。だが、ギリギリの時間勝負に勝てた、という気持ちも強いのだった。
もくもくと立ち込める煙、怒声とものが壊れる音。あれほどきらびやかだった全面窓のガラスが次々と内側から割れていくのはいっそ壮観である。烏合の衆にすぎない傭兵たちでも、最初の一撃はうまく食らわせることができ、そして。
裏庭と山岳地帯へ続く道を仕切る、塀が破壊されたのはそのときである。まだ堀がある、が。そう、ちょうど、まさに今、天から初雪が降ったところだった。アレクシアは手のひらを上向けてそれを受け止めた。すっかり重たく、指先が切れそうなほど冷たい。
堀の水は凍っていることだろう。乱入者たちの一群は、その上を渡って王宮ルム・ランデへ侵入してくる。内部と裏と、城はすっかり挟み撃ちだ。
裏庭の石畳は途切れがちで、踏み固められた土と泥にまみれている部分が多い。早朝ともあって、城壁の影と雪の雲の区別もつかない。王宮の黄色い背中をアレクシアは見、ぼろぼろに剥がれかけた煉瓦の雨垂れの跡と黒ずみが吹雪く雪に覆われていくのを見た。そのはるか向こうにそびえる【大氷河】の威容は、雲に隠れて見ることもできなかった。そこから降りてくる風はこれほどに冷たいというのに。
男たちは雪などまったく気にしていないようだった。鉄の胴当てが鈍く光り、槍の穂先もまた青白く光る。よく見ればその鎧があちこち凹み、それを直されないままであることがわかるだろう。だが行進の音はたったひとつだった。傭兵たちと互角かそれ以上に実戦で裏打ちされた兵隊の列。
その先頭に、彼がいた。
「ああ……」
アレクシアは立ち上がった。足がぴりぴりして、指の感覚はなかった。彼は少し、痩せたようだ。黒髪は少し伸びた。鎧が古びているのも剣がまっすぐなのも何も変わらない。フィリクスは元気そうだった。馬には乗らず、徒歩だった。
彼女に気づいて彼は駆け出す。隊列は彼に構わず進み、号令がかかると一斉に王宮ルム・ランデへ進撃していった。鬨の声に頭がくらくらする。耳を塞ぎながらアレクシアはよろめき、歩く。足を止めることはしない。
「アレクシア」
やがて温かい腕が肘を押さえ、ふらつきを止めてくれた。アレクシアはフィリクスの顔を見上げた。
「本当に呼んだら来てくれたわね」
「言っただろう? 嘘はつかないよ」
雪の雲に細い切れ目ができて、陽の光が差し込んだ。彼の浅黒い肌には細かな傷がたくさんあった。今まで何をしていたの? と聞きたかった。ドレフ帝国で、故郷に起きた内乱のため戦っていたはずだ。
だが今はそんな細かいことを話している場合ではないようだった。アレクシアは手を伸ばし、フィリクスの頬を一撫でした。ざらざらして、少し湿っていた。
「配下の数は?」
「騎士約三十。歩兵はその倍だが借り物だ」
「リュイスについてきてくれる? いくらかかる?」
フィリクスはにいっと笑う。獲物を見つけた鷲がかすかに眇める目と同じだけ瞼を細めた。
「君が将来得る中で一番高いものを俺にくれ。それでいいよ」
「いいわ。買った」
「売った」
それだけ言って、並んで歩き出した。もっと何か言いたいような気もしたし、それで十分という気もした。後ろへ続いてくれるエマとデルマンスの、もう何も言うまいという空気で首筋がこそばゆい。
「おっと――殿下」
とフィリクスが足を止め、胸に手を当て一礼する。アレクシアは馬上のその人を見た。
きらきらしい鎧。兜を脱ぐと現れる、薄い金髪に縁どられた神々しいまでの美貌。その面差しはバルドリック王に生き写しである。少し耳の先が尖っているところなど、そっくりだ。
アレクシアはスカートを広げて膝を折った。
「グリムヴァル第一王子殿下、御意を得ます」
バルドリック王とキュリアナ王妃の第四子、死んだ子供たちのぶんを繰り上がった王太子。グリムヴァルはまだ若々しさを残した美貌の青年だった。バルドリック王の命の元、王家直属の聖騎士団を率いて国境に詰めていたはずである。対リュイス防衛線の第一人者として。
それが、国境を放り出して都モルセリアまでやってきた。
数々の噂、陰謀、陰謀を企てるふり、それからランデリオ公の名を冠した手紙。百人の間諜たちの気ままなさえずり。城下へ流れだし、国境まで濁流のように流れ着いたあれや、これ――アレクシアの撒いた種は正しく発芽したのだった。
「やあ、君がアレクシア殿か。妹が世話になったな」
王子はほうっと白い息を吐いて王宮を見やる。続けざまの爆発も、アレクシアはもう驚くことはない。隣にフィリクスがいるのだから。
聖騎士団の騎士たちが、堀と城壁を越え到着した。あらかじめ指示があったのだろう、騎馬兵は騎乗したまま破壊された建物へ駆けこんでいく。再び、鬨の声。
「王陛下をお守りせよ!」
と野太い声で誰かが叫び、おうっと呼号する騎士たちの声に大地が震えた。
「あとは聖騎士団でなんとかしよう。いやあ、本当にあなたには感謝しているよ、アレクシア殿。これを機にお年寄りたちには一斉に隠居してもらえるだろうから」
彼は笑っても皺ひとつ寄らない。作り物めいた美貌もここまでいくと人形じみた恐怖である。
「見逃してあげるから逃げなさい。フィリクスはこの人と行くんだろう?」
「そのつもりですよ、殿下」
「じゃ、そうしなよ。俺はこれから親父とお袋をぼっこぼこにしにいくから――あ、アレクシア殿」
呼び止められてアレクシアは振り返った。王子は馬の首を優しくぽんぽんと叩きながら朗らかに言う。
「テトラスの新しい王がリュイス人の花嫁を娶ったら、それは両王国の和合の象徴になると俺は考えるんだけど、どう思う?」
「まあ殿下。私もまさしく同じことを考えていました。私という女王の元、リュイスがテトラスを導く未来を」
グリムヴァルはきょとんと眼を見張った。今度は小規模な爆発がいくつか起きた。第一王子は呵呵大笑と笑い出す。彼は笑いながら手綱を操って、馬を燃える王宮へと突撃させた。悲鳴とともに駆け出してくる大量の使用人たちの流れをかき分けるようにして。片手を上げて、それは恰好よく、馬蹄にかけられる人命など振り向きもせず駆けていく。
「……やーな奴だろ?」
歩き出しながらフィリクスはぼやいた。
「とてもご自分に自信があるみたいね」
「きみみたいだろ?」
「私はあれほどじゃないわよ」
「いや、実は前から似てるなあと思っていた」
ぶつぶつ小声で交わす会話は、まったく百年前からこうしていたかのようだ。
後ろの二人がちゃんとついてきているか確かめたあと、アレクシアは片手をフィリクスに差し出した。
「それじゃ、故郷に帰らないと。諸悪の根源を絶たなきゃ事態は収まらないもの。――連れていって、傭兵さん?」
フィリクスはその手を取った。柔らかい口づけが、硬く乾燥した唇から降ってくる。
「仰せのままに、お姫様」
そうしてそのようになった。
アレクシアが一か月ぶりにリュイスに帰還した、その翌日のこと。
タリオン前王の妃、フィルセナは前王の遺児である少女を女王に推薦。議会はそれを承認。異例の速さで手続きは進み、戴冠式の日程までもが組まれてしまった。
一度でも王冠と王笏が他人の手に渡れば、取り戻すのに十年単位で時間がかかるだろう。アレクシアはそれを阻まなければならない。
命と誇りをかけて。




