転覆劇⑨
バルドリック王は椅子にどかりと座り直した。その額に浮かんだ脂汗を、オルベッドは甲斐甲斐しくハンカチで拭ってやる。まるで彼の妻のように。立ちすくんでその茶番劇を見守るうち、アレクシアの胸から悲しみと怒りがすうっと引いていった。後ろを振り返ると、シュカルムがいて悲痛な顔をして首を振る。
「もう戻りましょう、あなたは、王陛下にこんなことをする権限はありません」
「わかってるわ」
アレクシアは従騎士の手を振り払った。
「でも、やめない」
やがて無理やり絞り出した笑いが終わり、バルドリック王は吐き捨てた。
「テトラスの第一王子が流れの女傭兵などに跨り腰を振ったなどと認めるわけにはいかぬ。ゆえにその男は、デルマンスとやらは別人の種であろうよ」
「オストン・ミストヴェル侯爵の? どちらともいえないと、彼自身は言いましたよ。王陛下――レイドニー王子殿下は、本当にオストン・ミストヴェルに殺されたのですか?」
シュカルムの手がぽとりと落ちて、アレクシアの肩はそのぶんすうすうと冷える。そうだ、ここは玉座の下の小さな部屋。おそらくは王宮ルム・ランデが落ちたとき、王が隠れるための場所。
すうすう冷えて当たり前なのだ。
「くだらん揉め事で命を散らしただなどと。ますます認めるわけにはいかぬ……」
王はぐったりと呟いた。女官長が一言も言わないままその膝にしなだれかかり、愛しい男の頭を抱きしめて頬ずりをする。
「おかわいそうに、バルドリック様……」
「あの子は予の最初の子供であった」
女官長が白髪交じりの頭を撫でると、王は鬱陶しそうにその身体を押しやった。オルベッドは、むしろ嬉々として身を引いたように見えた。彼の要求に応えるのが嬉しいのだとでも言いたげに。
アレクシアの顔色を見て、王は鼻を鳴らした。
「王家にとって必要な犠牲ではなかった」
「だから、タルヴェル・ミストヴェルを唆してオストンを殺させたのですね……」
それは確信だった。王という地位が持つ力とはそういうものだから。
小説の設定とはいえ、最初から疑念がないわけではなかったのだ。そう、最初から、ちょっとばかり設定がずれていたように思う。
固い結束で結ばれ、テトラス最強とも謳われるローデン騎士団。ミストヴェル侯爵家の中核はその騎士たちにある。団長であったオストンを見捨てて死なせることは、弟のタルヴェルにとっても有意義な選択ではなかったはずだ。彼に兄ほどの指揮官の才覚がないこと、そして騎士たちが唯々諾々と兄から弟への地位移譲に頷くはずはないことは、誰の目にも明らかだった。
その上タルヴェルには赤子殺しの疑惑もあった。当然である、シルヴァンと母親が死んでしまって一番得をしたのは彼なのだから。騎士は不道徳な団長など認めはしない。結果としてローデン騎士団は事実上の機能不全に陥り、ミストヴェル侯爵家はおちぶれた。
不敬も忘れて声を張り上げたのはシュカルムだった。
「オストン様は、事故で、事故で王子様がお亡くなりになったと――流れ矢が、そうだ、流れ矢! 王陛下、オストン様は誰のものとも知れぬ流れ矢が王子様に当たったとおっしゃったのです。私はハッキリ覚えております。どこの紋章も刻まれていなかった、だから正体不明の暗殺者に狙われたのかもしれないと、王家の影が調査の結果そう認めたはずです。あのときの報告書を出してくればきっと状況がわかるはずです、そうでしょう王陛下!?」
バルドリック王は呆れた視線をシュカルムに向け、重たい溜息をつくばかり。あまりの哀れさに、アレクシアは言わざるを得なかった。
「シュカルム。――きっと、その流れ矢は存在しないわ。王家が事件の隠滅に手を貸したのよ。王家の影の報告書も、きっと嘘を書いたものよ」
シュカルムのテトラス人より浅黒い肌はすうっと青ざめ、死人のようである。彼がコルセットで腰を締め付ける女であったら卒倒していたかもしれない。
「王家の影が嘘をついて、なんの得もない」
「バルドリック王陛下には得があったと、先ほどご本人が証言なさったわ。認めなさい、シュカルム。レイドニー王子様はオストン・ミストヴェルが――彼の、関係する事件で、お亡くなりになったのよ。そしてその隙をタルヴェル・ミストヴェルに突かれた」
シュカルムは黙りこくった。何の言葉も浮かばないらしかった。
アレクシアはバルドリック王に向き直る。彼はただの老いてやつれ、子供たちに先立たれた普通の父親に見えた。普通くらいに残酷で、普通くらいに愛情深い父親だ。
……だがこの人は、愛情をかける相手を選り好みした。
アレクシアが血筋上の父親を殺したのとは、わけが違う。アレクシアは命と誇りを守るためそうしたが、バルドリック王は尊厳を脅かされていたわけではないのだから。
レイドニー王子はバルドリック王の王位を継ぐ身だったから、父親を害する理由はない。
オストン・ミストヴェルも忠実な臣下だった。
まだ生まれてすらいないデルマンスもそうだし、その母親だってどれほどの力を持っていたというのか?
「あなたはレイドニー王子様の恋よりも、個人としての自我よりも、王家の体面と名誉を重んじた。その結果、デルマンスはカーミエールの街で不遇をかこち、ランデリオ公はあなたに貸しがひとつできた……きっとそれが、理由の一つとなって、彼はあなたに反逆を目論むまでとなりました。何もかも、あなたの無情がもたらしたことです」
オルベッドのまなざしが、まるで慈母のようにバルドリック王に注がれているのが気持ち悪い。王のまなざしが揺るぎなく、何一つ恥じることはないとでも言いたげであるのが気持ち悪い。
自分を愛する者だけを愛し返して、それで世界を完結させて、そんな『番』ばかりが溢れたところでなんになる? そんな連中ばかりになれば、人倫は終わってしまうだろう。精霊たちがまた帰ってきて、誰もが魔法を使える世界が甦り、また血を血で洗う大戦争が起きる。
「王という地位は数々の人の善意を、愛を踏みにじることが可能です。でも私は――あなたのようにはならない。今はっきりとわかりました。私は、あなたの治世は好みません。テトラスという国にはもっといい未来があるわ。それをもたらすのはあなたではないわ」
アレクシアは愛を信じている。人は人を愛することで人間になることを信じている。
だって父フュルスト卿と母ルクレツィアは、あんな男の子供であるアレクシアを慈しんでくれたのだから。
敵を打ち倒すことは正しい。だが一度懐に入れた者、守るべき立場にある者を突き放すのは、違う。王たる者のすることではない。
「あなたはデルマンスと母親に暖かい家と保護を提供するべきでした。彼らを愛するべきだったのです。あなたの愛は亡くなったお子様たちと、決してあなたを嫌わないエドレッド王子様に向いている。今生きておいでのグリムヴァル第一王子様があなたと対立してしまっても、キュリアナ王妃様との間にどうしようもない断裂が生まれても……彼らを愛するべきでした。ヴィヴィエンヌ様のことだって政治の駒にすべきではなかった」
人が他者を愛することが間違っているはずはないのだから。
「この国の現状は、すべてあなたが生み出したんじゃないか……」
アレクシアは小さく、毒づく。
バルドリック王は何も話さない。沈黙が小さくいびつな部屋に満ちる。
「ランデリオ公の反逆の噂は知っているのですわね? このシュカルムたちがそれを未然に防ごうと奔走していることも。すべて知って、利用して。対価は? ねぎらいは? あなたに命を捧げる者たちについて、あなたは……何も……」
「――今にわかるだろうよ、小娘」
王は深く澄んだ声で言った。息には香炉の香りが混じり、彼の全身からその甘ったるさが滲むようだった。オルベッドが小声で鼻歌の一節を歌い、王に尻をぶたれた。
「尊き地位を確立し、存続させるには犠牲が必要だ」
「その犠牲を最小限にすることはできるはずだったわ」
アレクシアはどこまで行っても商人の娘である。王のように対価を支払いもせず臣下の忠誠を奪い取ることはできそうにない。どんな者にだって誇りがあり、譲れない者がある。ただ従わせ、相手の人生を制限すること――それは監禁で、虐待で、人の魂への冒瀆だ。あるいはこの脊髄に染みついた理屈こそが、いずれアレクシアに返ってくるだろう悪意のきっかけになるのかもしれなかった。
ふらふらと進み出たシュカルムが、震えた小さな、声で言う。
「対価がないことなんて。私はどうでもいいんです。でも忠誠の根底で嘘をつかれていたことには……お、思うところが、あります。王陛下。あなたは私に言いました。オストン様がタルヴェルに殺されたとき、あなたは私を引き取ってくれて……タルヴェル・ミストヴェルは卑怯者だと。自分はオストン様の無念も無実もよくわかると。あの男はあれっぽちの戦乱で死ぬ武者ではなかった、いつか必ずお前に敵討ちをさせてやるから、と。――侯爵閣下はもういないけれど、今日からお前の主になろう、と。私は嬉しかった」
ガラス玉のように澄んだ黒い目に、涙が潤んだ。見ていられない。アレクシアは顔を背ける。
「いつか。いつかを私は待っていました。でも、タルヴェル・ミストヴェルがあなたの命令に従った結果切り捨てられたのだとすれば。あれほどの栄華を誇ったミストヴェル家が、あなたの策略の結果没落したのだとすれば。私は、何を信じて今まで……あなたは……僕に嘘をついたんですか、王様?」
ぽつねんと彼は佇む。誰も、何も答えない。答えはこの世のどこにもないのだ。王は臣下の忠誠を顧みず、捨て置いて先に進む。これまでそうだったように。
アレクシアはシュカルムの手を引いてその部屋をあとにした。すでにことは動き出してしまっている。止まらない。
今更道を違えることは誰にとってもできない相談だった。




