転覆劇⑥
「……なんてこと」
アレクシアは顔を歪めた。
「どうして、そんなことに」
「どうしてってアレクシア、あんたの【魔法返し】のせいだよ」
「【魔法返し】ですって?」
聞いたことがない。アレクシアが戸惑うと、ムズは肩をすくめた。傷口がぐじゅりと歪んだ。
「要するに、魔法を打ち破られてしまったぶんが跳ね返ってきたということ。やれやれ、シルヴァンの友達だから手加減したのが裏目に出たよ」
「……あの真っ暗の世界で、私が叫んだから?」
「別にいいよ。私は魔法を仕掛け、あんたはそれを破った。あんたの勝ちだ。……で、勝ったお祝いにひとつ、教えてあげよう」
「何を?」
「あんたが今せっせと労力を貢いでやっているランデリオ公爵には長年の恋人がいて、名前をフィルセナという。つい先月に家名を失い、ただのフィルセナと呼ばれているよ」
「――は」
アレクシアは目を見開く。どうして今、そこでその名前が出てくるのかわからない。わからない、なりに。ぱちりと、最後のパズルのピースが嵌った音がした。
「リュイスの前王妃――フィルセナ・ストームヴェイル」
「ランデリオ公爵は六年前まで駐留リュイス大使だったからね。王宮で、恐れ多くも他国の王妃と通じる不始末を兄のバルドリックに知られて呼び戻されたんだ」
以来、リュイスに駐留する貴族は極めて凡愚な、失敬、野心などというものを持ちようもない貴族へと変わっていった。ヴィヴィエンヌの逃避行を手助けしたミフトル男爵などいい例で、あれ以来顔を見ていないほどに小物である。
アレクシアは思い出す、タリオン前王のあの無気力な状態を。国が何をしても思い通りにならないことへの憤り、深い虚脱感。それに加えて、妻の心が別の男にあったのだとしたら。あれほど抵抗がなく玉座を簒奪された理由が、わかる気がした。
フィルセナ前王妃は故郷の男爵領に戻り、謹慎状態のはずである。
「フィルセナとランデリオは何かよろしくないことを企んでいるようだ。私にはそれ以外のことはわからない」
興味もないのだろう、ムズはたんたんと告げた。それから、と顎をあげ彼女は言う。
「告白しよう。私はキュリアナ王妃に協力していたんだよ。ずっとね。あの子を――タルヴェル・ミストヴェルを政権に戻してくれると約束してくれたから」
ムズは目を伏せた。シルヴァンの叔父、汚い手段で兄を殺した罪人は、ムズにとってはまだ小さな男の子なのかもしれない。
「会ったんだろう? タルヴェルに。ふふ、嘆願の機会を奪われたと言って怒っていたよ。ヴィヴィエンヌの行方も気にして気にして仕方ないようだった。かわいい子だ」
ムズはけたけたと笑った。寂しそうな笑いだった。
「タルヴェルが必死になっているのは、過去の家門の権勢を取り戻したいだけじゃない。金が欲しいからだ。十歳になる一人娘の身体が弱いのさ。バルドリック王に言って、いい魔法薬を買いたいんだ」
「あなたがしてあげればいい」
アレクシアはたまらず、言う。ムズの目は不可思議な青色に揺れている。
「他ならぬあなたが味方してあげて、側にいてあげて、そうして一族を見守ればいい。大陸は広いんだもの、同じことをしている魔法使いはきっと他にもいるはずだわ。ムズ、あなたはミストヴェル侯爵家にいていい人なのに」
ムズが笑うと、黒くなった肌のかけらがはらはらこぼれ落ちた。
「いいや。実は先にタルヴェルにそう持ち掛けたこともあったよ。そうしたら――出ていけ消えろ不吉な化け物、おばあ様のウラリール様のこと、伝説しか知らぬとて騙せると思うたかー、ときたもんだ」
「ああー」
疑心暗鬼になった人間はだれしもそうだ。
アレクシアは天井を仰いだ。埃まみれのシャンデリアは鎖も台座もひび割れている。
「私は消えるよ。そしてまた、以前の静かな暮らしに戻る。ローデン騎士団ともローデン騎士団領とも、ミストヴェル侯爵家そのものからも遠く離れて。ただたびたび、メイドや旅芸人になって彼らの様子を見に行こうと思う」
ムズはアレクシアに向かって静かに頭を下げた。
「タルヴェルのためと思ってあなたを排除しようとした。申し訳なかった」
「少し寝込んだくらいだったから気にしてないわ。むしろ侯爵の敵と認定されたのは誉と思うことにするわ。私が彼の邪魔になると思ったから、魔法をかけられたんだもの」
アレクシアはひらひらと手を振る。頭を上げたムズは苦笑を通り越して渋面である。
「やれやれ、余裕でいっぱいだこと。これじゃ私が一方的に悪者だね」
「いいえ。たぶん――悪役は私よ」
アレクシアは虎のように笑った。ムズ以外の誰か、もしこの会話を盗み聞きしている者がいるならすくさま主に伝えにいくべきだ。
もうほとんど手遅れなのだということを。
「王宮ルム・ランデには今、フュルスト商会が送り込んだ間諜が百人近くいるの。買収したテトラス人のうち、いざというときこちら側についてくれる者をいれたら百五十人くらいになるかしらね」
ムズの笑いが消えた。ぽろり、最後の皮膚のかけらが胸元に落ちる。
「といっても、いざというときはいざというときだから。そのときになってみないとわからないわね、味方してくれるかどうかなんて」
「いったい、どんな手を使って……?」
「借金よ」
「金?」
「困っている人にお金を貸したり、逆に借金を帳消しにしてあげると口約束したり、ね。借金苦で子供を手放さなきゃならなかった親を見つけたら、子供を通じてその人と話したり」
主にエマがやってくれたのだ。ありがたいことだった。子供からそんな事情を聴きだすのは、苦しいことだから。
アレクシアは続けた。
「金貸しは卑しい職業だもの。フュルスト商会といえど、名前を全面に出して商売してばかりでは同業や貴族に嫌われてしまうわ。そうならないように、まったく別の業者にこっそり代打に立ってもらう場合もあるのよ。――口入屋や旅芸人の一座や、質屋や運送を担当する地主にだって。窓口になってくれたら何割か報酬をあげるの。意外と、需要があってよ」
ムズのため息は風のようだ。深く、遠くから響いて、果てがない。
「なんていう、ことを。百年前ならそんな取引は発生さえしなかった。誰しもが、金に膝を折るくらいなら名誉を取っただろう」
「でもそれで勝てるならいいことじゃないの。ドレフ人の傭兵たちは、借金帳消しと聞けば喜んで今の主をほっぽって助けにきてくれるわよ?」
ムズはもう何も言わなかった。ただアレクシアを、遠い日々の過ぎ去った残響を聞くように見て、小声でぽつりと、こぼす。
「ウラリール様。この世界はあまりに面白くなくなっていくけれど、また生まれてきてくれるだろうか?」
アレクシアは目を細めて老いた魔法使いを眺めた。そんなことを考えている限り、ムズの前に待ち人が現れることはないだろうことは――けれど、本人が最もよく理解しているのかもしれなかった。
人は忘れられた頃に生まれ変わる。始祖王がそう決めた、世界の摂理だ。
「私はいくよ」
とムズは顔を上げ、悲しげに言った。
「タルヴェル・ミストヴェルが王宮ルム・ランデで栄達をこいねがうというのなら、私はミストヴェル侯爵領ローデンで、彼の一人娘の面倒をみなけりゃ。きっとひとりぼっちでつまらなくしているだろうから」
(ひとりぼっちでつまらないのは、あなたでしょうに)
とアレクシアは思う。口に出すことはない。きっと響かないだろうから。
「それがいいわ。あなたは、ここにいない方がいいと思う」
「そうだね」
炭化した半顔を晒してムズは笑い、最後に、謎かけのようなことを言った。
「私の、闇。あの魔法は深層心理の中に人を閉じ込め、激しい自己矛盾とそれからくる自己否定で自我を崩壊させることを目的としているんだ。自力で脱出してきたのはあんたとウラリール様くらいだよ。――あの魔法に出てきた人間の幻影は、少なからずあんたの心の中に居場所がある者たちだ」
「ヤだこと。でも、まあ理解はできるわ。私が抱えていかなきゃいけない人たちってことよね」
「その通り。それで、もしその中に会話が通じる奴がいたなら、そいつは手放しちゃだめだよ」
アレクシアははっとした。フィリクスの顔が、まなざしが、心配そうな声が思い出されて、あっという間に心を占めた。
ムズは年老いた女が孫娘を見るような目つきで微笑んでいた。その顔の半分を壊したのはアレクシアだという。ならば、されたことに謝罪を求める必要はない。アレクシアはきちんとやり返しているのだから。
そうして瞬きの間に魔法使いは消え去り、あとには風のようなものが渦巻いた。
何か大切なことを教えられたような気持ちになった。




