フィリクス・ルミオンの場合
「リュイスのタリオン・ストームヴェイル王もテトラスのバルドリック・エヴレン王も貴族の権勢を削って専制を敷くことにばかり気が向いていて、起きつつある貿易摩擦に疎いわ。このまま放っておけばそのうち武力衝突に至る」
「必ず?」
「必ず」
「へえ」
「信じていないみたいね」
「そりゃあね」
うふ、と鼻にかかった声で軽い嘲笑を見せ、フィリクスは足を組みかえた。
まだ午前中である。南国ファーテバのうだるような風はまだ、その猛威を振るっていない。けれどすぐに風は熱風と化し、やがて止まり、潮の香りは停滞して腐った悪臭となるだろう。港の改修と拡張工事が終わってから一か月、海流がすべてを洗い流すまで時間がかかる。
太陽は穏やかに照りつけ、雲ひとつない。一日の中で一番安らげる涼しい時間。
ファーテバいちの繫華街と呼ばれる貿易港ハクスの豪華な旅籠の二階、上等客室のバルコニー。
フィリクスは指を一本、海へ向かって突き立てた。
「見ろよ。お日様だ。そしてここは? 商談にあくせくする商人がせめても身なりを整えるための宿屋だ。俺はこれから一日忙しい。フュルスト商会の者だと名乗るから通してみれば、いきなりくだらない政治談議をふっかけてくるとはね――喧嘩を売られたと解釈していいのか?」
「ご自由に、フィリクス・ルミオン。ちなみに買いますわよ、商会の全財力をかけて」
アレクシアはこれ見よがしに鼻で笑い、扇子で顔を仰いだ。
この世界の元になったらしい小説のストーリーと、今はかけ離れている。それはアレクシアや母が生きていることの弊害なのか、はたまたフュルスト商会が大陸を股に掛ける一大商家として成長した結果なのか、おそらく卵と鶏の関係なのだろう。
フィリクスはあの小説で主人公ザイオスのライバルであった男である。放浪皇子という仇名を持ち、文字通り諸国をさすらう旅人だ。元はドレフという国の皇太子だったのが、より優れた弟皇子に皇位を譲るためわざと出奔して――というサイドストーリーがある。
その真相はこうだ。フィリクスは母である皇后が婚前につくった子供だった。皇帝の血が入っていなかった。つまり不義の子。皇位継承資格なし。
アレクシアはぱちんと扇子を閉じてフィリクスを見据える。
「真面目な話をしにきたのよ。あなたのお生まれにも関わることだわ」
空気が変わった、明らかに。
「へえ? 聞こうか」
と、あくまで笑う語調であるが。意外なことに、フィリクスは自分の生まれ育ちをあえて隠さない。そうすることで流言飛語が生まれ、尾鰭に尾鰭がつき、真相はますますわからなくなるのだ。
「ここ数年の冷害によってドレフ帝国の農業が打撃を受けたのは知っているわよね。もっとも安価で安定した供給だったドレフ小麦の輸出が減少したことで、どの国も自国の食糧増産に迫られたわ。結果としてファーテバに拓かれた新興農地がその問題を解決しつつある。小麦と塩がコトルの運河を通ってリュクスに流れ込み、それに色を付けた値段でテトラスに流す商人がいる。一方、テトラスから輸出できるものはあまりないわ。山間の国土だから」
アレクシアの脳裏にヴィヴィエンヌの儚くも覚悟を秘めたまなざしがよぎる。シルヴァンの一歩引いた、だが決してその側を離れまいとする決意も。
「貿易摩擦が起きかけている。私たちが小麦の価格調整をしても、他の商人がその利ざやを食い荒らそうとする。次の戦争は近いわ」
事実、フュルスト商会をはじめ有力な商会は互いに相談して小麦の値段を適正に保っていた。小麦は主食だ。塩と同じく、誰かが極端な変動を抑え、買い占めを抑制しなければならない。
本来ならそれは貴族の役目であり、ひいては国の、王の義務だった。
だが――今の王権に、それをする力はないだろう。ただやみくもに貴族の権利を停止させたせいで、宙に浮いた権利や収益が有象無象の小領主や悪徳業者に吸い取られているのが現状だ。
王がやらねば貴族がやり、その貴族が実権を握り、国を牛耳ることになる。リュクスもテトラスも長年にわたってその弊害をこうむってきた。王たちが貴族の権威を高めることを避けることの、理屈はわかる。
このままでは国は自身に空いた無数の虫食い穴によって自壊するだろう。
……そういったことを、アレクシアは話した。
「で?」
フィリクスは首を傾げる。
「戦争が起こると、ドレフ帝国は完全に分断し群雄割拠の時代が訪れます。大陸は荒れるでしょう。そしてあなたの最愛のご家族は皆、亡くなってしまう」
「――あんた乱心してるみたいだね、お嬢さん。もう帰れ」
「その隙に国を蹂躙せんと欲して挙兵するのが、あなたの実のお父君であるエミリオ・カヴィル様。ドレフ帝国帝室の傍系であり、帝位継承権はお持ちだったからね。いちかばちか、母君レニノア様を攫い、今度こそ本当のご夫婦になろうとするのよ。でもレニノア様はご夫君を裏切ることを拒み、そのまま……」
「その喉掻ききってやろうか、あ?」
フィリクスは静かにテーブルナイフを手に取った。脅しではない証拠に立ち上がる動きは熟練の戦う男のものである。護衛たちがざわめくのを、アレクシアは片手をあげて制する。
「私、たまにですが未来が見えるの」
「ほざけ」
「あなたと私の境遇は少しばかり似ています。我が母も、夫以前に心に決めた人がいて。双子の弟たちの父親は養父よ。結局、我が父ではなくそちらを選んでくれたことは、私の生涯で一番の幸運だったと思う――だって、自由を得られたんだもの」
フィリクスはぴたりと止まった。
「自由か」
「ええ、自由。部下を連れてあちこち飛び回って、そりゃ父の名代ではあるけれど、自分の裁量で仕事ができる。これが自由でなくて何?」
「ハッ。いいように使われているの間違いじゃないか?」
「それでもいいわ。家族のためなのだから。貴族の義務も、血筋の重荷も、今の私には何もないの」
「結婚もできずにか? 婚外子の血を混ぜたい家柄なんてない。しょせんそういう扱いだよ」
「ああ、そうそう。男の束縛も子供を孕み育てる苦しみもなしにね!――最高よ。でもそろそろこれも終わる」
フィリクスはテーブルナイフを床に放り投げ、レンガに当たった刃が欠ける高い音が響いた。彼は椅子に腰を下ろす。わざとざんばらに伸ばした赤茶けた髪、黒い目、浅黒い肌。均整の取れたというよりは、ずんぐりしたと表現した方がいいがっしりした身体つきは、確かに王族というよりは王位を狙う簒奪者の側に近く見える。
「話せよ。何故終わる?」
「私、女王になろうと思って。リュクスとテトラス両国の」
さらりと言う。なんてことはないような調子で、虎のような笑顔で。
ハ.フィリクスは鼻を鳴らす。
「あんたとは初対面だが、来るべきはここじゃなくて医者のところだな」
「ところで見ていただきたいものがあるの」
彼女が手を挙げると、いつの間に入り込んだものやら、カーテンの影から地味な娘が進み出た。そこはフィリクスの取った部屋だったはずだがどうやったのやら。睥睨する彼の前を通り過ぎ、娘はしずしずとアレクシアへ銀の盆を指し出す。その上に乗った一抱えもある箱。
アレクシアはそれを取り上げ、フィリクスへ向けて蓋を開けた。
「な……っ」
さすがの彼も絶句した。薄い金髪の娘が下がるのを待たず、アレクシアへ食ってかかる。
「どうやって手に入れた!? いったいどうやって――」
「驚いたことに、正攻法なのよ」
ドレフ帝国の宝剣、アティフの小刀。膨大な魔力を秘めた魔力石を埋め込んだ柄を持ち、その一刺しは岩をも貫くという。ドレフ帝国の開祖が邪悪なドラゴンの心臓を突き刺したという逸話を持つ、国の宝だった。
「正攻法だと?」
「借金に困った侍従が出入りの宝石業者に売り払ったの。業者は石を外そうとしたのだけれど、台座ごと魔法的に固定されていたのね、不可能だったみたい。丸ごとだと買い手も限られるし、法外な値段になってしまうので彼らは持て余していた。そこで私が買い取ったわ」
アレクシアは目を伏せ、痛ましげにするのだった。
「国宝にさえ盗っ人が集る段階に入っているのよ、ドレフ帝国は」
フィリクスからいっさいの表情が消えた。黒い目は、そうしていると新月の闇のよう。
この女は本心から彼の祖国の衰退を憂えていた。彼の家族の秘密をどういうわけか得て、訳知り顔でずかずかと他人の心に上がり込み、そしてにやにやと、虎のように笑ってみせるのだ。
「どうぞ、差し上げます。これをお持ちになって、真の皇帝は我なりと声をあげるもよろしい。お父君に――レニノア様のご夫君に献上なさり、ご家族揃って帝国を立て直されるもよろしい。ご自由に。私たちは何物でもないわ。自由なのだから」
彼女の声は鈴を振るように響き、その内面の黒さを隠す。フィリクスが宝剣を抜いたのと、金髪の少女がアレクシアの前に立ちはだかったのは同時だった。
「自由があるというなら、俺がここでお前を殺すも自由だ。違うか?」
「エマ、いいわ。お下がり」
「でも!」
「いいの。彼はあなたを躊躇なく殺してしまう。下がって」
少女はじりじりと、足を震えさせながら二人の間から退いた。フィリクスの右腕は寸分の違いなく刃を構え、アレクシアの頸動脈を狙っている。複数の気配が彼の心臓を背中から狙った。バルコニーに仕掛けをする暇はなかったのか、飛び道具や毒の心配はいらないようだ。
アレクシアは案外まともに、身を守る手段といったら姿を見せない護衛だけの状態でフィリクスの元を訪れたのだ――まさしく正攻法に!
「――ふ、」
「うふふっ」
笑い出すのもほぼ同時。嫌な親近感と既視感が胸に満ちる。フィリクスはこういう女を知っている。ああ、よく知っている。
「ふはは、は。お前は、勘違いしているのかもしれないが」
「なあに? 何を?」
「我が母レニノアはお前が言うように慈悲に溢れた女ではない。あれは最初、俺を殺そうとしていた。思い直したのは宮中での立場が思ったより不安定であり、味方になる男なら我が子であろうが一人でも多い方がいいと悟ったからだ」
「まあ。私の知る話と違うわ」
「ならどこかで情報が取り違えられたんだろうさ。皇族の醜聞沙汰など誰もが面白おかしく語るのだから」
アレクシアはカン高い声で笑った。虎が獲物をしとめて喜びの咆哮を上げているかのようだった。エマと呼ばれた少女が目を丸くしているところを見るに、どうやら相当珍しい様子であるらしい。
「ええ、ええ! そうでしょうね。私たちは人に面白がられる立場だから」
笑いを収め、涙を拭き、アレクシアはころころと喉を鳴らす。
「そんなものにいちいち構ってはいられないわ。どうでもいいこと。そう、どうでもいいことなのだから」
「俺にこれを差し出して、求める条件は? 言えよ。商人らしく」
彼女は立ち上がる。背丈はフィリクスのみぞおちのところまでしかなかったが、気迫といったらまったく大したものだった。子を抱えた母虎だ。げんに、彼女には背負わねばならない人間が数多くいるのだろう。貴族と同じに、人の雇用と人生に責任を負う立場なのだ。
「一生とは言わない、一度でいい。私が求めたとき、確実に私の味方になって。それが条件」
「――大した女だよ、お前」
アレクシアは笑いを噛み殺した顔でスカートの裾を広げ、優雅な一礼をした。
「大陸一の大帝国を統べる一族の一員にそのように言われるとは、恐悦至極でございます」
「いいだろう、その申し出に乗った」
そうして彼らは別れ、それが大陸を巻き込む戦乱の時代の幕開けとなった。