転覆劇②
「シュカルム殿」
扉が薄く開けられ、見知らぬ若い侍従が小声で告げた。
「人が来ます」
そしてまた、扉はキイと閉ざされる。
ああ本当に、伏魔殿だ、ここは。アレクシアは内心、天を仰ぎたい気持ちだ。
シュカルムはたちまちのうちに大人しくなった。ほどなくして扉がコンコンとノックされ、エドレッド王子がぴゃあ! と叫ぶ。エマが彼を宥める横を通り抜け、シュカルムは扉の向こうとやり取りし、振り返った。
困惑の表情で、落ち着いた普通通りの声で言う。
「病み上がりのアレクシア嬢にまこと失礼ではございますが……お召しでございます。何卒お越しくださいますよう」
誰のお召しであるか、は言わなかった。つまり断れない相手ということである。――仕方がない、なるようになれ、だ。
眉をひそめたエマが何かを言い出す前に、アレクシアは軽く膝を曲げた挨拶をする。
「心得ました。さあ、どうぞ――お召しの場所へ連れていってください」
「わ、私もご一緒します!」
そのようにして一行は歩き出した。どことも知れない、伏魔殿の奥へ、奥へ。先導するシュカルムは全身で不本意だと主張しているし、エマは狼狽を表に出さないよう努めるのに手いっぱい、体力の落ちた身体のアレクシアはしゃんと前を見ているのに苦労する。
エドレッド王子だけが、気持ちよさそうに歌っていた。
誰も通り過ぎなかったし、行違わなかった。衝立やカーテンの奥からじいっとこちらを見る目。目。目。
連れていかれた先は、王宮ルム・ランデの奥深く、ちょうど最奥と言える場所だった。裏庭が見える巨大な窓は開け放たれ、冷気が遮断され、レースのカーテンが風にはためく。裏庭を囲んでコの字型になった二つの別棟の姿が見えた。あまり、王族の居室とはいえない部屋だ。他と同じ、真四角の形と大きさをしている。
そこにひとりの女性と、多くの騎士たちがいた。待ち構えていた、と言うべきか。
年老いて白銀に変わりつつある金髪と、緑の目。キュリアナ王妃である。王妃の姿をアレクシアは知らなかったが、すぐに彼女がその人だとわかった。彼女の顔はヴィヴィエンヌに生き写しだった――違う、ヴィヴィエンヌが彼女に似ているのだ。
顔色がよく、立ち姿は姿勢よく、少なくともいなくなった末娘のことで胸を痛めているようには見えない。
「お母様、お母様! きゃは!」
と、カン高い声を上げ、エドレッド王子がシュカルムの腕の中から抜け出した。人形のように整った顔立ちをくちゃくちゃにゆがめ、母親に抱き着こうとしている。それを見ても、王妃は微笑むばかりで腕を差し出さない。
「王子殿下、いけません」
とシュカルムは王子を捕まえると、礼儀正しく壁際に下がった。エドレッドはキイキイ声でのべつまくなし喋り続けている。シュカルムが後ろから抱え込み、その口をふさぐまで声は続いた。彼らの横に並んだエマは、伏し目にして腕を前に揃え沈黙している。すっかりむくれているのがアレクシアにはわかった。
「夫の従騎士だったのですけれどね」
と、王妃は口を開いた。年齢にそぐわないはしゃぎっぷりの息子を眺める目に温度はなかった。愛情も、悲しみも。
「あの人は息子思いですから。自分からエドレッドへ、所有権を譲ってあげたのですよ。慈悲深いこと……」
ホホホ、と彼女はたおやかに笑う。そうしてアレクシアをひたと見つめ、言った。芯から凍るような声で。
「ご病気だったと聞きましたよ。おかわいそうに」
「ご心配をおかけし申し訳ございません。身に余る栄誉でございます」
「失踪した私の娘について、知っていることは?」
「いいえ、何も。平にお許しください、王妃殿下」
問い詰める口調に、いけしゃあしゃあと嘘をつく。ヴィヴィエンヌから母であるキュリアナ王妃の話を聞いたことがないし、小説でも描写はなかった。だからアレクシアはキュリアナに対しなんら思うところはない。むしろ――彼女がジョードメル協会を焚き付け、フュルスト商会の五人を殺させたのかもしれないと思えば、その美貌に悪意を探してしまう。
「では、仕方がありませんね……ああ、どこへ行ってしまったの、ヴィヴィエンヌ」
と、王妃は嘆く。理知的で、理路整然とした嘆きに見えた。むしろあまりに母親の嘆きそのものすぎて、演技じみて見えるほど。こんなにも計算高く、馬鹿馬鹿しいほど駆け引きの基本を押さえた人を、アレクシアは初めて見たかもしれない。
「あの子には幸せになってもらいたかったのです。わざわざ王陛下に進言して、嫁ぎ先を決めた矢先だったのですよ。それがいったい、なんの不満があってこんなことを。――あなた、もし私の娘から連絡があったら、すぐに伝えにきてちょうだい。きっとですよ」
「力の及ぶ限り、王妃殿下の憂いを晴らして差し上げることをお約束いたします」
アレクシアが明言を避けたことに、おそらく王妃は気づいただろう。だが彼女は今、失われた娘のことを嘆き悲しむ母親である。言葉尻を捕らえて追求することはできない。
エドレッド王子が歓声をあげ、騎士たちの周りを走り回り始めた。
扉が開き、侍従に先導された二人の男が入ってきたのはそのときである。うち一人の身なりは明らかに王侯だった。バルドリック王より豪華な衣装と、よく手入れされた髭。もう一人はいかにも金に困っていそうな貧相な出で立ちで、肩も丸まり卑屈そうな中年男である。
豪華な男の方が王妃に向かって両腕を広げた。
「おお、王妃殿下。なんとお労しい。花のかんばせがくぐもっておられます」
「ああ、ランデリオ公……よくきてくださりました」
ジルナール・ランデリオ公爵だった。乾いたブドウ酒のような暗紅色のコートを身にまとい、それにはあえて金糸の刺繍はほとんど刺さない。下に来ている礼服が逆に華美で、王妃の目の色と同じ新緑の色にありったけの文様が刺繍されていた。
王妃と公爵は騎士たちやアレクシアが見ている前で、はばからず歩み寄り寄り添い合った。誰も驚かず、何も言わない。王妃は片手を公爵の胸に沿わせている。まなざしは一心に男へ注がれ、息子のことも、アレクシアのことも見ていない。
誰もが二人の関係に気づく距離とまなざしである。
エドレッド王子が無理やりシュカルムの手を外し、上機嫌で歌の続きを歌った。その音に負けない朗々とした声で、公爵は言う。
「ミストヴェル侯爵を連れてきたのですが。肝心のヴィヴィエンヌ様がいらっしゃらないのでは頑是ない」
「ええ。もう一週間ですよ。王女が消え去って一週間! だのに、なんの手がかりもないなんて。捜索の兵士どもは怠けています」
芝居がかった甘ったるい声で王妃は公爵に訴えた。
「王陛下も、すっかり諦めておしまいなのですよ。一度失踪した娘などもう疵物、連れ戻したところで婚姻は無理だろうなどと。なんてひどい。あれでも父親ですか!」
「あ、あああ……王妃殿下。殿下、でしたら……私が」
と、貧相な男が弱弱しい声を上げる。
「ぜ、ぜひ私めにお姫様を下されませんか。我が領地ローデンは諸手を上げて歓迎いたしまする」
これがミストヴェル侯爵か、とアレクシアはその男を眺めた。




