精神世界②
ばぎんっ、と派手な音を立てて闇の世界のどこかに皹が入り、だがそれだけはまだ足りない。アレクシアはいら立ちのままに手足をやたらに振り回し、やがて固い感触を見つける。陶器のようなつるんとしたもの。花瓶か、食器か、とにかくそういうものだ。
力任せに彼女はそれを掴み、思いっきり空間に打ち付けた。怨霊が霧散する悲鳴を上げ、饐えた腐臭があたりに満ちる。平衡感覚が戻ってきて、自分が本当に宙づりにされているかに錯覚する。
目の前に彼女の顔が浮かんできた。前世の、たぶん母親だ弱い人で精神科に行ってたんだけど真面目に通院しないしお薬もよくなくすし、お仕事ぜんぜん行かないしお風呂の水は出ないしこの人なにも、なにもしないできないひとだったから私がいなきゃいけなくて。図書館の小説の登場人物だけがそばにいてくれて。
「まぼろしだ!」
アレクシアは叫び、その顔面をまろい固いもので殴りつけた。
「私をこんなもので追い詰められると思うな魔法使い! 本当に私を殺したいならもっと別のものを持ってこい!」
闇は霧散したかと思うと収縮し、やがて金髪がぴかぴかと発光しながらそこに現れる。けぶるように深い碧色の瞳。母ルクレツィアのまぼろしが、両手を広げて笑いかける。
「アレクシア――」
「次ッ!」
アレクシアは母の偽物を叩き割った。手元の丸いものが砕けて、見るとそれは地球儀だった。とても小さい、ちゃちなプラスチック製品だ。ああそうだ、ほんとのパパが離婚する前くれたんだった、パパのパパは昔はそこそこ鳴らした相場師でそのころ日本は景気よくて儲かっててでもバブルが弾けて。
「どうでもいいわ」
アレクシアは呟く。地球儀の残骸を放り投げる。まるで前世そのものとのお別れのように、それは地面に落ちて砕けて終わる。両足が確かに床を感じた。彼女の身体はまだテトラスの都モルセリア、王宮ルム・ランデの一室にいるのだ。
「出てこい、魔法使い。ムズ。ミーゼリアン! こんなもので私を殺せると思うな。私を殺したいのなら直接息の根を止めればいい、それができない、したくないならわざわざ攻撃などしてくるな、人間の世にも魔法学院にも所属できない半端者めが!」
毒づくと、闇は確かに揺らいだ。
「私は私よ。魂をつつき回したいならそうすればいい。そんなもので破壊されるとでも? その程度の覚悟で女王なんて目指していないのよ」
そうして一番奥の奥、深淵に近しい部分から何かが、光のようにぱっと近づいてくる。アレクシアは身構えてそれを待ち受ける。
さあ来い――迎え撃ってくれる。そう思っていた。
ただそれは、光は、アレクシアの直前できゅっとつんのめって止まった。それからおずおずと、ほどけるように戸惑うように、ちかちか点滅しながら形を変える。
そこに彼がいた。フィリクス・ルミオン。
ずいぶん前に分かれたきりに思われる彼がいた。
ぱちり、彼の目が開いてアレクシアを捕らえる。ぎょっとしたように表情が変わる。彼は彼女の前にすとんと降り立つと、両手を伸ばし、抱擁した。
びっくりするほど本物じみた体温と匂いだった。それから実在するとしか思えない存在感。アレクシアは何も考えることができないまま、その分厚い身体に手を回した。
「無事なのか? 生きているのか? 怪我をしたのか? な、なんでこんなところにいるんだ?」
フィリクスは矢継ぎ早に訪ねた。唾が飛びそうだし実際、飛んでいるのかもしれない。黒髪は少し伸びて目の上まできている。真っ暗の中なのに、浅黒い肌が燐光を帯びて表情がよく見えた。心からの同情、心配、会えて嬉しいという思いがまっすぐにぶつけられ、アレクシアはくらくらする。
彼がここにいる。
「ここがどこだか知っているの?」
「いいや、知らないけれど。少なくともマトモなところじゃないだろう」
「それは、そうね」
くすくす笑いがこぼれて止まらない。アレクシアはぎゅっと男の身体を抱き寄せる。鼓動がする。耳元の、すぐそこで響く。
「少しドジを踏んでしまったの。魔法使い相手に出方を間違ったのよ」
「ああ……彼らは人間の枠外にいった者たちだからな」
大きな手がアレクシアの髪を撫で、くるくるがもつれて束になったところを繊細にくしけずる。
あ。
アレクシアは目を見開いた。闇が蠢き、するすると退いていくのを見たのだった。
「あら。でも、なんだか……終わりが近い、気がするわ」
フィリクスは頷いた。彼が立っているところを中心に、パキパキと闇に亀裂が入り始めていた。そこから光が漏れている。強烈な日光でも、雪と氷が反射した青い光でもない。暖炉の赤い光だ。
「アレクシア。辛いことはないのか。俺が代わってやれることはないか? あ、メシは? 食べているのか?」
矢継ぎ早に彼は言う。
「きみが呼んでくれたら俺は大陸のどこにいても駆けつけるから。俺の配下たちもきっとそうだ」
アレクシアは笑った。困ったことに、それまで抱いていた怒りや憎しみは消え失せていた。フィリクスの顔を見るとそうなってしまう仕様らしかった。いったいいつから。彼が彼女の設計図を書き換えたのか?
「呼ぶなら正当な報酬を持ってそうするわ」
アレクシアは彼の胸に手を当て、身体を離した。触れ合わなくなった箇所が奇妙に寒い。内側から寒さが湧いてくる。
「呼んでくれたら鳥より速く飛んでいくよ」
と、フィリクスが生真面目に言うものだから笑ってしまう。社交辞令でない笑い方をするのはひどく久しぶりに感じられた。
指先がぴりぴり痺れ、風はぴたりと止まったのに髪が舞う。もぎ離されるように互いが互いから遠ざかっていくのを、土色の髪が名残り惜しく追いかける。砕けた空間のかけらに吸い寄せられ、引き抜かれるのがわかった。
アレクシアは口に手を当て叫んだ。
「フィリクス!――会えてよかった。次はもっとまともなところで会いましょう!」
聞こえていたかはわからない。ただ彼も、なにごとかを叫んでいるのは感じとれた。二人の間の闇は一層色濃く渦巻き、それと反対側から呼ばれている。たぶん、そっちが帰るべき時間、いるべき場所だ。
アレクシアははっと覚醒した。目の前には涙をいっぱいに貯めたエマがいた。
「どれくらい、寝てた?」
と聞く声はしゃがれている。忠実な侍女が涙をぬぐいつつ、首を支えて起こしてくれ、水をくれる。
「い、一週間、も――も、もう目を覚まさないかと。ううっ、アレクシア様!」
ひぐひぐ言うエマの頭を撫で、それだけでひどく疲れた。アレクシアは薄い金髪のつむじに微笑みかける。
「やられてしまったわ。でも、ただではすまさない」
「ひっ。ううーっ、そんなにお疲れだったなら、言ってくだされば。フュルスト卿にも奥方様にも申し開きが立ちません」
えーん、とエマはそのままベッドのふちに突っ伏してしまう。アレクシアは腹筋に力を込めてなんとか身を起こした。心配をかけてしまったものだった。
ふとサイドテーブルを見ると、見覚えのある袋が空になって置いてある。
「エマ、これは? あと、状況を教えて」
泣き止んだ彼女は鼻を啜りつつ答えた。
「ええと、アレクシア様は誰もいない空き部屋で見つかりました。高熱で、倒れていらっしゃったんです。バルドリック王陛下がお医者を寄越してくださって、でもどんな薬も効かなくて――もう無理だからと言われました。ひどい、なんてひどいことを。親に手紙を書きなさいとも。いやでしたけどもっともでもありましたから、その通りにして。それから、気づいたんです。私が熱を出したとき、この薬はとてもよく効いてくれたって」
「私にそれを、飲ませたのね? ムズの薬を?」
「はい。つい昨日のことです。効いてよかったあ。やっぱり魔法使いの薬は他と違いますね。本当によかったです」
こらえきれず、アレクシアは笑い出した。エマの頭を抱えるようにして、けらけらと。きょとんとしたままのエマが、アレクシアが咳き込んだのを見て慌てる。
「けほっ。じゃ、じゃあ。私はずっと、寝ていたというのね? 一週間。無駄にしてしまったわね」
「そんな。病気は仕方ないことですよ」
「ううん。違うの。なら――きっとお父様は復讐をお考えになったことでしょう」
はた、とエマは動きを止めた。
アレクシアは彼女に向けてうっそりと微笑み、頷く。
「頃合いね」




