精神世界①
「あー、油断した」
とアレクシアは言った。
考えてみれば、そもそもムズは味方でもなんでもなかったのだった。ただ利害が一致して協力し合っていただけ。ほいほいついていった私が悪い。まさかあそこまで壊れているとは想像もできなかった。だが百年を生きる人間がどこかしらおかしくなっていないはずはないわけで、こちらも想像できなかった私が迂闊だった。
「以上、反省終わり」
よし。ぱちんと手を叩き、立ち上がる――立ち上がる? 上下がある世界なのか、ここは。
真っ暗だった。かざした自分の手のひらさえ見えない。ムズの魔法は闇属性。精神に作用する。
おそらく、ここはアレクシアの精神を破壊することを目的としたムズが作り出した闇である。現実ではない。おそらく魂だけを引き剥がされ、閉じ込められた。
つまり出る方法はあるということだ。
アレクシアは歩く。歩く。道なき道を、地面を踏んでいるという感覚すらなくなるほど色濃い闇の中を。どれほど歩いても疲れず、時間の経過もないようだった。入ってこられたのだから出られるはずだ、とそれだけをよすがに足を動かす。
……ゆっくりゆっくり、退屈と焦燥がアレクシアを蝕んでいく。
もう一日じゅう歩いている気がする。それでも彼女は歩く。歩くのは慣れているのだ。あちこち走り回って、目標を達成するまで止まらない。そういう生き方をしてきた。
特に何の前触れもなく、ぬうっと目の前に死体が立ちふさがった。ガイガリオン伯爵だった。溺死体そのものにぶよぶよ膨らみ、ところどころ腐敗している。腐った水や水草がざばざばとアレクシアの足元を濡らしたかと思うと、ぬうっと手が伸びてきて腕を掴まれた。振り払う。そちらを見ると、ザイオスがいた。
父親と異母弟の死体を前に、彼女は片方の眉を上げてせせら笑う。
「それで?」
上を向いて叫んだ。
「こんなものを見せて、何がしたいと言うの?」
すすり泣きが聞こえる。髪を振り乱した女たちがすがりついてくる。やれやれ。父の妾エイナと、異母妹ペルアであった。どちらもまだ死んではいないはずだが。
二人とも顔が腫れ上がるほど殴打され、青アザだらけだった。血と膿のにおいがする。炊事でぼろぼろになった、皮が剥けた手がべたべたと無遠慮にアレクシアの頬を触る。
「そう。やっとふさわしい扱いをされる場所に堕ちてくれたのね。せいせいしたわ」
アレクシアは彼らに罵声を浴びせ、死体と生霊をぶら下げたまま再び歩み始めた。迷いはなかった。戻らなければならないのだ。エマをリュイスに連れ帰らなければならないのだ。
そうしてずかずか歩いていると、次に現れたのは見知らぬ夫婦だった。誰だったか……ああ、そうだ。マルシオ・ルーデルとその妻イレーナだった。父にした借金が返しきれず家屋敷を失い、担保にしていた領地をとられた夫婦。
「いやだ。お父様への恨みを私を通じて晴らすつもり? 強い方にはいけないのね。みっともないこと」
アレクシアは鼻で笑う。彼らは実態を持たない腕を前に掲げ、アレクシアにぶつかろうとしてはすり抜ける。やがてスカートの裾と土色の髪の先っぽに、その重たさが加わった、気がした。どんどん重くなる。足取りは変わらない。
軍遠征のために融資を受けた傭兵団は、結果としてフュルスト商会の傘下に入り名誉を失った。領地維持のため借金した小貴族、まさしくルーデル卿のような小者たちの大部分は返済できずとうに領地を没収され、農民落ちだの追放だの、少なくとももう二度とパーティーには呼ばれない。商売の失敗で没落した銀行を接収。有力貴族への融資から借金の連鎖が巻き起こり、一都市の経済圏を支配したこともある。
一族破産、一家離散。婚約破棄、離婚。投獄、逃亡、嘆願、哀願、自死。
フュルスト商会が拡大する先には常に誰かの犠牲が付き纏う。
「弱い者は死ぬしかないわ」
間近に現れた髑髏をアレクシアはそっと撫でた。白い骨は冷たく、暗い眼窩からは死の匂いがした。耳があった場所に浮かぶ紋章入りのイヤリングからして、おそらく農民の逃亡による労働力不足で高借り入れをしたどこかの領主だったのだろう。
「私たちは負けないし、二度と落ちぶれない。そう決めているの」
囁くと、凄まじいまでの絶叫が耳をつんざいた。
いずれもフュルスト商会が成り上がるため、犠牲になった者たちだった。アレクシアと双子が育つため踏み台になった者たち。
「おかわいそうに」
アレクシアは揺るがない。
「せめて私たちが、あなたたちが失った以上のものを民草に還元してあげるわ。もちろん、分不相応な暮らしを望まず慎ましくしていればの話だけど」
アレクシアはそう言って、鬱陶しく袖を払った。エイナの霊が転倒し、きえーっと奇声を発した。それを皮切りに、彼らは口々に恨み言を吐き始める。アレクシアへの恨みつらみ。フュルスト卿への妬み、ルクレツィアへの罵声。彼女にとっては意外なことに双子を憎む者たちもいて、学院で成績やスポーツの結果で負けた学生のようだった。
「それで? だから、何? 私たちが負ければあなたたちの気は晴れて?」
アレクシアはにっこりした。足は、止まらない。もはや無限に続くかに見える世界を、彼女は進む。
「我が父フュルストはよく私たちに謝っていたものだわ」
ひとり言はついつい大きくなった。疲れる感覚がないとはいえ、いい加減気が立っている。耳元で恨み言がする、アレクシア、お前はお前はお前はお前はお前は。本当は、ここにいてはいけないのに――
ぱしん! と声がするところに掌底を食らわせると、ギャア、と悲鳴が上がって何かが霧散する感触があった。確かに湿っぽい音がしたのに、まったく濡れていないのも不気味である。
「今日の宿はこんなところですまないね、自分たちの家でなくてすまない、いつかきっと落ち着いた生活ができるから、と」
アレクシアは進む。今までずっとそうしてきたように。
気ままな旅暮らしの中で育ったことは、彼女の中で宝石のような思い出だ。両親から教わったすべての知識が誇りだ。でも。
「お母様は学院に通わせてあげられなくてごめんなさいといったわ。お父様はそのせいで舐められたらごめんと言ったわ。弟たちもよ。みんな、私を気遣って、大事にしてくれている」
亡霊たちが彼女を詰り、殴り、引っかき、噛み付き、土色の髪の根本からブチっと音がする。実体はないものどもなのに、髪を引きちぎられた?――いいえ、錯覚だ。
「だから私は生き残らなければならないし、勝ち続けなければならないの。きっとそうするわ。どんなことがあってもね」
――そんな生き方は長続きしない、と声が言った。
複数の人間の声が合わさったカン高い声はひどく耳障りで、ガラスを爪で引っかく音に似ている。
――お前はいずれ負ける。
「それで?」
――負けた時に何もかも奪われ後悔するだろう。
「負けなければいい。私は負けない。決して。決して。私は、女王になるのだから」
リュイスの頂に昇るのだ。議会を調整し、貴族同士の仲を取り持ち、内乱と極端な貧富の格差をなくし、尊敬と崇拝を勝ち取る。もう誰も私を殴れなくするためだけに私は生きる。
ぱりぃんと足元が割れた。そこは黒いガラスだったらしい、アレクシアは下に向かって落ちていく。
「まだやるの?」
と苦笑する。浮遊感に胃が気持ち悪いし、落ちる速さはどんどん増し、土色の髪は翻る。だが青い目はぎらぎら、憎悪に燃えるばかり。手足の先は風に切られて冷たくなり、もはや感覚はない。身を切る冷たさ――まるでテトラスという国全体に満ちる寒気のようだ。ムズの魔法だからだろうか?
頭を下にして落ちていくうち、かすかに【大氷河】の威容が、はるか足元にそびえる気がした。山々に見下ろされ、自分を恨む数多の声に追いすがられて、なおもアレクシアは笑う。ほとんど狂気に囚われているのかもしれなかったし、それでよかった。
進んでいるうちは、笑っているうちは、生きているのだ。
やがて魔法の黒く冴え冴えと冷たい見えない網が、彼女を絡めとる。ぶらん、と闇の最中に宙づりにされ、アレクシアは見た。
とてもとても、覚えていられないほど昔の話だ。
コンビニのパン。冷えた手足、薄暗いワンルーム。あんたベランダ出てなさいよ星とか見てたらいいんじゃない? おかあさん忙しいんだから、それから響いてくる母の嬌声を当時はそれと認識できなくて、でもその男の人に殴られるのは怖かったので黙ってベランダにいた。声を立てることはしなかった。とても、恐ろしかったので。
とても、恐ろしく寂しく恥ずかしかった日々だった。小学生という生き物は違いに敏感で、彼女の洗ってないTシャツとか七分丈に見えるまで履き古されたジーンズとか、臭い臭い、こっちくんなよ。幼い罵声が胸に染みる。担任の先生は給食費の引き落としができなかったことでしか話しかけてくれなくて、ただ、ぼんやり、日々を生きる。ママの彼氏がパチンコで勝ったときもってきてくれたお菓子。それがごちそうだった。
条件付きの愛情しか知らなかった。
だからルクレツィアを愛したし、フュルスト卿のことも大好きだった。双子に嫉妬を抱かなかったのは心から愛した二人の愛の結晶だから。だからアレクシアは。
――わかったかい?
声は言う。
――どんなに取り繕っても。お前は、負け組!
アレクシアは目を閉じた。冷たさのあまり睫毛に霜が降りていた。
「何度も言うけれど、それで? いい加減、しつッこいのよ!!」
喉が張り裂けるほど、腹に満ちた怒りをそのまま放出する勢いでアレクシアは怒鳴る。
「だから何? 私の前世がどうだったかなんてあんたたちには関係ないし、ましてや今、この私に関係はない! 私は私、アレクシア! それ以上でも以下でもない――ッ!!」




