謎は解ける②
部屋に戻るとエマが難しい顔で考え込んでいた。手荷物の整理をしていたところだったようだ。ぱたんと旅行鞄の蓋を閉めて立ち上がる。
「アレクシア様。おかえりなさいませ」
「ただいま、エマ。今日はどうだった?」
「子供たちの相手は大変です。でも、うふふ、すっかり懐かれちゃって。リュイスに帰ったら寂しくなるかもしれません」
エマのへこたれなさには頭が下がる思いだ。少年少女の使用人見習いたちの相手も、聞き込みも、アレクシアに味方してくれる可能性のある人間を探すのも、すべてエマが根気よく続けてくれている。表舞台に出ることはないが、決して欠かすことができない仕事である。情報収集と、人脈づくり。アレクシアにはその苦労はよくわかる。かつてリュイスでフュルスト商会の商会長秘書としてそれをしていたのだから。
「ではねぎらいに、お茶を淹れて差し上げましょうね」
「きゃあ。お嬢様手ずからのお茶だなんて。――きっと、トリエッテさんが聞いたら羨ましがったでしょう」
五人のうちの一人の名を、エマはしんみりと告げた。旅行鞄に入りきらなかった、小さな包みを撫でながら。アレクシアも切なくなる。喪失感は、アルバ河に遺体を見つけたあの日から日増しに大きくなるようだ。
それからは二人で、しみじみと熱いお茶を啜った。ちなみにエマの小包の中には、カーミエールの街で取り急ぎかき集めたありとあらゆる小物が押し込まれていた。爪切り、針と糸、胃薬、ハンカチ三枚、髪を纏めるピン十本、果ては熱を出したときに処方された粉薬の余りまで。
捨てなさい、とアレクシアが言うと、いやですもったいないですこういうのを取っておくことであとあと役に立つんですとピイピイ言う。やれやれ、と思いながらアレクシアは肩をすくめ、そのあと二人は早々に就寝した。
夜中、ふと目を覚ますと枕元にムズが立っていた。アレクシアは心臓が止まるかと思ったが、かろうじて叫ぶことなく上半身だけ起き上がった。
「……王宮ルム・ランデは伏魔殿ね?」
「言えて妙だね」
「話? それとも見せたいものでもあるの?」
「その間かな。散歩でもしないかい?」
と、灰色の髪の魔法使いが言うので、アレクシアは寝台から未練たっぷりに這いずり出た。寝間着の上に毛皮の外套を着てしまえば、少なくとも風はしのげる。
「それで?」
「こっちだよ」
魔法使いの手招く方へ、アレクシアは進んだ。奇妙な王宮のさらに最奥へと。
廊下というものがないから、人々が寝入っている、あるいはゴソゴソと気にしたくないことをしている寝台の横を通り過ぎることになる。アレクシアとしては勘弁願いたい。ムズは気にする素振りも見せず堂々と進むばかり。ならばついていくしかない。
衝立やカーテンや家具の向こう、見知らぬ人々が無防備に暮らしている中を通り抜ける。謎の罪悪感が、湧く。また、ひそやかに足音を忍ばせて、歩く二人とすれ違う者もいる。貴族もいれば使用人もいた。こんな夜中に別の部屋に用事だろうか? あまり考えない方がよさそうだ。老若男女問わず、目も合わせずものを言うこともないのが礼儀らしい。
夜の王宮ルム・ランデは、眠る巨大な生き物の腹の中のようだ。灯りは最小限、ぬくもりのための暖炉の熾火しかなく、それも夜中になれば尽きるだろう。
やがて部屋が明らかに老朽化すると、一気に人がいなくなった。寝息も小声も笑い声も衣擦れも、あらゆる気配が消える。闇の中に沈み込みそうなムズの灰色の髪のしっぽばかりがよすがである。
怯えてもいいのかもしれなかったが、アレクシアはむしろほっとしていた。やはり慣れてもそうでなくても、テトラスの生活様式は自分にそぐわないと感じる。
ムズは燭台に魔法で火をともした。ぱっとその周辺だけが明るくなる。灰色の三つ編みがますます浮かび上がって見え、まるで蛇の幽霊のようだ。
感情が先に立って口からこぼれ出たのだ、というもの言いで、ムズは話し始めた。
「あの子たちがとうとういなくなってしまったよ。アレクシアの差し金かい?」
「ええ、そうよ」
「よかったよ。シルヴァン坊やがどこか遠くで生き延び、血統が続いていくならば。それはきっと、ミストヴェル侯爵家への祝福になるだろう」
アレクシアは宵闇にぼんやりと浮かぶ銀色の蛇を眺めていた。燭台の火はジジッと燻って、消えかけては復活するを繰り返す。
……ゆるゆると、納得が背筋を這い上ってきた。
「あなたは、ミストヴェルの血脈が続いていくことだけが大事なのね。亡きウラリール様だけがあなたの唯一だった。だから今を生きるミストヴェルには興味がないのだわ。シルヴァンにも、タルヴェルにも」
「ああ。いつかウラリールが血脈の中に生まれ変わってきてくれて、また会えることだけを夢見ている。いけないかい?」
「いいえ。誰しもみんなそうだと思うから。民衆も、歴史もそうだわ。ウラリール様がローデン騎士団に見捨てられ、王宮で貴婦人たちに看取られて死んだことにした方が華々しいから。そういうことにして、語り継いだのだと思う」
「それこそミストヴェルへの侮辱だね!」
ムズの声が鋭くなった。火はますます揺れ、だが消えない。魔法使いの声にこんなにも感情が乗るとは、アレクシアには意外だった。
レディ・ミーゼリアンはずっと、ずっと、死んだように生きて動いていたから。
「まったく。ローデン騎士団が当主であるミストヴェル女侯爵を見捨てて、自分たちだけで戦場に散ったと? そりゃ、騎士たちにとってはその方が恰好いいかもしれないがね。――フン。敬愛すべきレディ・ウラリールに安らかな死を差し上げ、一方自分たちはその眠りを守って討ち死に。ハ。楽しいだろうよ、騎士はね。だがウラリールはそんな死に方はしなかった。そうとも。いいってことさ。真実は私が知っていればいい」
「ムズ。あなたは過去だけに生きているのね。今にも、未来にも、生きられない。なんて悲しい……」
ムズは沈黙し、無感動な顔でアレクシアを見つめる。凹凸の少ない身体で、今は丸眼鏡をかけていないからいっそうまなざしが冷たかった。アレクシアは干からびた喉をこじ開けて問う。
「オストン・ミストヴェルはレイドニー王子を殺したの?」
「ああ、そうらしいね」
ぽんと放るように、ムズは言う。人間の感情など知ったことではなくて、本当に気にも留めていなくて、ただただ自分の目的が、ミストヴェル侯爵家の存続だけが、大切だと決め抜いた人外の声。
「女の取り合いだったかな? ただの喧嘩だったのかな? それとも不意の事故? もう忘れてしまったよ。でも、バルドリック王がミストヴェル侯爵家を激しく憎んでいることは確かだよ。だからシルヴァンが王に対して身をひそめていたのは、こんなにたくさんあるルム・ランデの真四角の部屋のどこかにずっと隠れていたのは、正しかったと私は思う」
アレクシアはただ、ムズを見守る。彼女の壊れたような言葉の濁流を受ける。
「シルヴァン、シルヴァンはね、かわいい子だけれど、もうダメだよ。ああして一人の女に執着しきってしまっては、ミストヴェルとしてはダメだ。もっと乾燥して、ぱりぱりとあっけらかんとして、白色。そう、白色にならなければならない。それでこそミストヴェルだ。その点、タルヴェルはいい子だよ。領地に引きこもって、内政に精を出している。シルヴァンはオストンの子だけれど、もうテトラスから逃げてしまうんならそれでもいい。オストンの血脈が続かなくても私は大丈夫。――タルヴェルがいるからね」
それはアレクシアにとって、少なくない時間を過ごした護衛騎士であるシルヴァンの宿敵の名である。シルヴァンはそれでも、ヴィヴィエンヌのために復讐を捨てた。二人が二人であるまま幸せになるために。それを。この魔法使いは。
「あなたにとって、人間って何? 大差ない、ボードゲームの駒のようなもの?」
「さあ? どうだろう。自分でももうわからないんだ。ずいぶんと長い時間を過ごすうちに、摩耗してしまって。本当はもう終わりにした方がいいんだろうね。でも、諦めきれない。血が続けば、いつかウラリールに会えるんじゃないだろうかと思ってしまって。どうしても、やめられないんだ」
ムズはにっこりした。子供のようにあどけなく、空恐ろしいほどにからっぽの笑い方だった。彼女からはなんの匂いもしない。香水も、石鹸も、反対に腐臭や汗や体臭だって。生きていくうえで必要なものをことごとく削ぎ落して、この魔女はただ、ミストヴェルの傍に存続することを望んでいる。そのためにはミストヴェル侯爵家が富み栄え、たくさんの子供たちが今も育っていなければならないのに、そのことには目がいかない。
停滞している。すでに終了している。彼女の物語は、ウラリールの死とともに途切れた。なのにまだ、生きている。
アレクシアは心からムズを哀れに思った。できることなら引導を渡してやりたかった。だがそれはできない。アレクシアの武器はあくまでフュルスト商会を後ろ盾とする金と伝手と、あとはせいぜい舌と言葉くらいのものであって、彼女自身にはなんの力もない。
「いつかシルヴァンの方の血脈からウラリールが戻って来てくれたらいいなあ。それも、気長に待つとするよ」
「そう……」
アレクシアは目を伏せた。なんて言葉をかけてやればいいのか、わからなかった。薬草の香りがする、ムズのあの小さな治療院が彼女は好きだった。自分のせいでそこが閉鎖されて、近隣の住民はさぞかし困ったことだろう。エマの熱だって一日で下げてしまえるくらい、よい薬を作れる女治療師だったのに。
「とても悲しい、生き方だと思う。でも私はそれを否定しない。私だってそうなっていた可能性はあるもの。あなたが……もっと楽になれる生き方が、どこかにあればよかったのに」
しん、と沈黙があった。アレクシアもムズも沈黙した。燭台の上、灯が縮み上がったかと思うと、フッと消えた。
完全な暗闇。息の音も聞こえないほど、張り詰めた空気。アレクシアはムズの目があるだろう箇所を見つめた。
すでに心が死んでしまってからでも、生きなければいけない日々のことを思う。それがどれほど辛いかを。愛しい人は、もういないのに。アレクシアは言う。とつとつと、なんとかわかってくれと願いながら言葉を紡ぐ。届かないことは織り込み済みで。
「ムズ、私――あのときあなたが協力してくれたことには感謝しているわ。でも、もうあなたはここにいない方がいいと思うの。『ここ』と『今』はあなたを蝕むばかりだもの。あなたはたぶん、リュイスに行くべきだと思うわ。王立魔法学院に。あそこなら、魔法使いの園だもの。あなたは特別扱いにならず、生きていけるもの」
「ああ――」
ゆっくりと喘鳴にも似た気配でムズは細い息を吐く。
「断絶は、深い。私はウラリールを諦めない。ミストヴェルを諦めない。諦めることは、魂が欠けるようなものだ。今更、無理なんだよ」
「ミーゼリアン……」
「あんたが羨ましい。そして妬ましいよ。話を聞いてくれてありがとう」
ふふ、とムズは笑い、ひた、と冷たい、闇に染まった指先がアレクシアの額に宛がわれた。かすかに感じる爪の感触に、心臓がひやっとする。
「アレクシア。あんたを敵に回したくなんて、なかった。でも私はミストヴェルが大事なんだ。――ごめん」
そうしてアレクシアの周囲の世界は崩壊した。
あたりいちめんの、闇が満ちる。




