モルセリア⑨
決して逃れることも、ましてや拒絶することなど許されない、王の厚意。それは命令と同じだ。アレクシアはそれを受け取らないという。王の情愛を拒否するのだという。
それは反逆と取られても仕方がない行動だった。
「予の持つ臣民への賞罰の権利に介入するとな? ほう。娘の友人であるというだけで、そなた何か勘違いをしてはおらぬか、アレクシア嬢」
「いいえ、陛下。ひたすらに、陛下の御手を煩わせまいとする一心でございます。――特に国境がきな臭く、第一王子グリムヴァル殿下率いる聖騎士団がまとまらぬとあれば、このような些末な出来事で陛下のお時間を奪うわけにはいきません」
ぴしりと、確実に場が凍ったようになった。騎士の何人かはもう少しで剣に手をかけるところだった。
王はぴたりと動きを止め、やがて満面の笑みがその顔に広がった。
「なるほど、なるほど。もうそこまで調べておったか。オルベッドに耳打ちされたときは単なる思い上がった小娘の浅知恵と思ったが、そう見えてなかなか」
バルドリック王と第一王子グリムヴァルの間には、確執がある。いつ、どこから生じたものなのかは本人たちにもわからないのだという。三人もの我が子を亡くしたあとに生き残った跡取り息子の何が王の気に障るというのか、アレクシアにはわからないが。
ただ彼女は賭けたのだった。そもそもフュルスト商会の商会員が死んだのは、カーミエールの街を把握しきれなかった領主の、ひいてはバルドリック王の責任である。王の失言――亡き王子レイドニーを殺したのがミストヴェル侯爵だったというのも、王はアレクシアに知られている。さらに、五人の商会員に続いてアレクシアがテトラスで死ねば、間違いなく父フュルスト卿は復讐に乗り出す。
以上の理由すべてを盤上に出して、ただ反応を伺った。命懸けの賭けだった。
やがてバルドリック王は頷いた。どこか寂し気な笑い声が漏れる。硬直していたクラックが、やがて気を取り直したように両手を上げた。
「ま、まあまあ。アレクシア嬢、さすがに不遜が過ぎますよ。こちらは一国の王ですぞ」
「いいだろう」
「へ、陛下!」
「予の権限を持ってこの者をフュルスト商会へ引き渡す。煮るなり焼くなり好きにするがいい」
王は煩わし気に手を振った。アレクシアはゆっくりと、優雅な一礼をした。大輪の薔薇の花が萎れるようだった、と後に思い出した者は言った。
「心より感謝いたします。バルドリック王陛下」
それで、フュルスト商会テトラス支部の一件は表向きそのように決着がついた、ことになった。なってしまった、と言うべきかもしれなかった。
背中で縛りあげられた両腕の縄を解くのに、それなりの時間を要した。
誰もがいなくなった空き部屋の中央で、アレクシアは眉を寄せながら結び目と格闘する。デルマンスが殴られて腫れあがった口を苦労して開いたのは、彼女が四苦八苦し始めてしばらくたってからのことだった。
「……なんで俺を助けた?」
「カーミエールの街の領主は、ジルナール・ランデリオ公爵。バルドリック王の弟。あの地方そのものが、彼の直轄地だわ。違って?」
「そうだとも」
「つまり、あなたの父親は公爵?」
彼は唾にするように吐き捨てた。浅黒い肌に染みのように残るドス黒い痣が痛々しい。
「分からない。母は何も語ってくれなかった。俺が連れていかれるときだって、一言も喋らなかったさ。そういう女だ」
「ひどく脅されたのかもしれないわ。その、――領主が彼女を手放したときに。決して余計なことを言うなと。きっとそのせいよ」
「母を馬鹿にしているのか?」
ぐるんと首を巡らせて、デルマンスは低い声で問う。その、目。世界の全部を憎んでいる者の目だった。アレクシアは胸が痛む。もし彼女が子供の頃に小説の記憶を思い出さず、母を亡くし、フュルスト卿にも拒絶されたらこんな目をするようになったのかもしれない。双子の弟たちを守るため、周囲のすべてを憎むことを覚えて。
「俺がお前を縊り殺して逃げるとは思わないのか?」
「思うわけないわ。ドレフ人の戦士は恩を忘れないし、犯罪者として扱われ汚名を着せられたままでは終われない。――だってあなた、犯人じゃないでしょう?」
さらりと言い切ると、デルマンスは言葉に詰まった。何故、とその黒い目が言う。
「な、なんで……」
「守備隊の詰め所であんなに怒鳴って暴れて、隊長でさえあなたに気を遣っていたわ。あなたはあそこで異物だった。つまり、嵌められた可能性の方が高いもの」
黙り込むデルマンスは口をはくはく開閉させ、言葉が見つからないようである。
浅黒い肌を持つ人間は大陸に多いが、その中でも剣を手に取り戦うことを選んだ以上、戦士の掟に縛られるものである。傭兵であっても、なくても。
「命を助けられた自覚があるなら、話してちょうだい。どうしてこうなったのかを」
からっぽの部屋の中は急速に冷えていく。両腕が解放されたデルマンスは、麻痺が残るだろう肩を擦った。黒い目がアレクシアをねめつけ、やがて伏せられる。彼は語った。
――お世辞にもいいとは言えない生まれ。母親はやはりドレフ人で、女傭兵として戦場で戦ったあと、傷ついてカーミエールの街に根付いた。市議会堂の下働きになり、巡回の際にやってきた領主に見初められたのだ、という。嘘か本当かはわからない。
街から出られない代わりに、手切れ金代わりの古い家に住むことができた。戦い方は母から教わった。守備隊に入るのに異論はなかった。
アレクシアのことも、ただ事情を聴くために呼ばれたのだと思っていた。いつの間にやら入り込んでいたリュイス人が五人も死んだのだ。それを追いかけてきた同じくリュイス人の女が、何も知らないわけはないだろうと思った。
「それにしてはあなたは乱暴だったけれど」
「あ、あれは――守備隊の連中は不真面目だ。俺がきちんと引き締めなければ、まっとうに仕事をしない」
自分が正しいと信じこんでいる声だった。なるほど、とアレクシアは息を吐く。
つまり、こういうことだ。街の子供たちはきっと、デルマンスを遊びから阻害したのだろう。ただでさえよそ者のドレフ人が流れ着き、困惑していたところに不義の子が生まれ、大人たちは腫れ物に触るように母子に接したに違いない。結果としてカーミエールで育ちながら街に馴染めず、仲間らしい仲間もなく、戦い方は知っていても戦場を知らない異端児が出来上がった。
「あなた、いくつ?」
「十八だが、それがどうした」
「若いわねえ。アハハ。若い若い」
ころころと喉を鳴らしてアレクシアは笑い、よし、と腰に手を当てた。
「あなた、デルマンス、私に忠誠を誓いなさい」
「は?」
「テトラスにおいて殺人は重罪。その上、五人の命を奪ったともなれば極刑は免れないわ。つまり私はあなたの命を助けてあげたのよ。違って? この上テトラスのどこに逃げても、口封じに殺されるのは目に見えているわ。ならば私のために尽くして、生き残れる方に賭けた方がいいのじゃなくて?」
デルマンスは沈黙する。こんなふうに彼を助けてくれた人間はあの街にいたのだろうかと思う。敬して遠ざける人々の中、唯一の居場所は守備隊でしかなく、だがその職場も心の拠り所ではなかった。
「……わかった」
やがて青年は言葉を吐き出した。背の高い彼を見上げるうち、アレクシアは首が痛くなった。
「この状況を打破するため、俺を嵌めた守備隊の連中に目にもの見せてやるため。王陛下に俺の無実を信じていただくために、一時的にあんたの配下に降る」
「そうこなくっちゃね」
アレクシアは両手を広げて笑う。目尻が吊り上がり、口角がきゅうっと上がってどこかけだものじみた笑い方になる。
「あんたのこと、なんて呼べばいい?」
「アレクシア様、お嬢様、なんでもいいわ。ただし、ひとつだけ」
「な、なんだよ?」
アレクシアは背の高い彼の顔を振り仰いだ。くるりとスカートが揺れ、生地とレースが互いに擦れる音が響く。
「裏切りは、許さない。生き残るため私を裏切った場合、地の果てまでも追いかけて殺すから」
「わかった」
両腕を後ろで組んだ傭兵の立ち姿で、デルマンスはぐっと奥歯を噛み締めた。
「血統の誇りに賭けて、それだけはしないことを誓うよ」




