モルセリア⑧
バルドリック王がアレクシアを呼び出したのは、前回の児戯じみた謁見からちょうど一週間が経ったときだった。
場所は王の間ではなく、ごく奥まったところにある一室である。王宮ルム・ランデの部屋はすべて同じ寸法の真四角だから、内装や家具を動かすだけであらゆる用途に対応できるのだと、最近はアレクシアもわかりかけていた。
真四角の部屋の中に、家具はなかった。窓にはあの分厚いカーテンすらなく、ぴっしりと閉め切られている。暖炉に火の気はない。どころか、燃えさしや灰すら綺麗に掃除されている。――武器になりそうなものを極力排除されているのだ。
何かがおかしいことなどは、考える間もなくわかった。案内役はまるで毒蛇から逃げるように素早く姿を消し、彼女は広い部屋の中でぽつねんと、立ちすくむ。
ヴィヴィエンヌたちの逃亡の手筈は、あらかた整っていた。決行は明後日の予定である。最初から賄賂が横行する王宮だったこともあり、大方は買収で片が付いた。いわゆる告げ口屋が出ないよう、別々の人間に別々の目的を吹き込んで金を渡すのも忘れない。
アレクシアは下着の内側に縫い付けたネックレスの、嫌な重みを感じている。例の通信機だった。もう片方、受信機にあたる揃いのネックレスはヴィヴィエンヌが持っている。本来であればアレクシアが持っていることなど許されない貴重な魔法具であるが、どんな手段を使ってかヴィヴィエンヌはいったん国庫に返されたそれを手元に取返し、アレクシアに渡したのだった。
「きっと、持っていて損にはならないと思うんですの」
とヴィヴィエンヌは言った。
「これは私が生まれたときに王家から下賜された私の個人資産です。おそらくアレクシア様に差し上げられるものの中で、唯一役立つものですわ」
「そんな。何か思い出がある品ではないのですか?」
「いいえ。何も。私には、何もありませんから」
ほがらかに微笑んだヴィヴィエンヌには、ほんの数日前にはなかった凄みさえ生まれていた。あれは南大陸に渡ったあとシルヴァンと逞しく生きていけるに違いない。
それにしても寒い。外気を遮断する魔法だけでは、防寒が追いつかないのだ。【大氷河】の息吹はそれほどまでにテトラスを苛む。――冬が来て、戦争が始まることがあれば、おそらくこの寒さに命を取られる兵の方が多いだろう。
扉が開く音がして、騎士たちが入ってきた。と、彼らの中に他ならぬバルドリック王を見つけアレクシアはぎょっとする。まさか王本人に再び相まみえることができるとは思わなかった。
足を引いて深々と頭を下げるアレクシアに、バルドリック王は鷹揚に手を上げた。
十人ほどの騎士たちが王を守るように展開し、静かに佇む。腰の剣の柄に手を置き、面当てを下していないが兜まできちんと身に着けている。
王の前での礼儀正しさ、以上のものを感じるものものしさ。
とうの王は何も言わない。侍従が駆け寄って折り畳みの椅子を勧めることもない。ただ、部屋の奥へと進みじっと扉を見つめている。そうしてみると、彼はひどく疲れ切った年老いた男だった。アレクシアは王にも騎士たちにも近づきすぎない距離で留まった。
嫌な予感がした。これからひどいことが起こるぞ、という。
再び、扉が開く。四人の騎士が一人の男を引き立ててくる。そしてその集団の後ろについてくる男があと一人。
(ヤーヴェ・クラック……と、あれは)
アレクシアは背中に冷や汗が浮かぶのを感じた。胃が冷たく、重くなる。
引きずられていたのはデルマンスだった。カーミエールの街の守備隊の一員。詰め所に連れられたアレクシアがついた机を蹴り飛ばした男である。ドレフ人の血を引くことを示す浅黒い肌からは血の気が引き、青っぽい黒髪と相まってひどく打ちひしがれた印象的だった。
騎士たちが王の御前にデルマンスを放り投げる。後ろ手に縛られた両手首、殴られた頬、切れた額。床には彼の爪先の跡が黒く続いていた。
「ご苦労であった。して」
バルドリック王が重々しく言うと、クラックは芝居がかった仕草で大仰に腰を折ってみせる。
「ジョードメル協会のヤーヴェ・クラック。お召しに従い参上いたしました。ご所望の犯罪者もここに、ご覧の通りでございます」
声に得意げが滲み出ていた。アレクシアは無惨な有様のデルマンスと、クラックを交互に見つめた。そうするしかない。
(違うわ)
と、商人が何かを言い出すより早く思った。
「騎士の皆様方、並びにフュルスト商会のアレクシア嬢もご笑覧あれ。これこそがカーミエールの街に潜んでいた殺人鬼。五人のリュイス人を残酷に殺害した犯人、リシャール・デルマンスでございます」
(違う。彼は犯人ではない)
それは直感だった。アレクシアはデルマンスのことなどほとんど何も知らない。だが、彼から受けたのは実に純粋で無邪気な悪意だった。もしデルマンスが犯人だったとして、フュルスト商会の面々を殺してやれたと悦に入っており、その総仕上げとしてアレクシアを引き立てたのだとすれば――悪意が足りない。圧倒的に。
アレクシアは人が人を積極的に貶めようとする悪意を知っている。その人がその人であるということ自体を許せず、命を含むすべての尊厳を破壊してやらねば気が済まないと考える人間の、底なしの悪意と敵意を知っている。デルマンスにはそれがなかった。
もしも彼が腕ききの暗殺者や裏社会の人間であり、アレクシアへの態度含めて完全に擬態していたというなら、違うかもしれない。だが彼は少なくともそんなたぐいの人間ではないはずだ。フィリクスやカリスなど、後ろ暗い仕事をも易々とこなせる者たちとは、目が違うのだ。
クラックは朗々と語った。
「これなるデルマンスは、カーミエールの街の守備隊の一員でござました。父なし子でありました。母は街の人間でございました。しかし、その父親が他ならぬご領主様であることを街の皆々は存じておりました。街の善男善女は彼によくしてやりましたが、おそらく胸のうちに鬱々と恨みを募らせるところであったのでしょう。よもや外国人を、それも畏れ多くも王陛下ともお目通りできうるフュルスト商会の方々にその恨みが向くとは……」
デルマンスの腫れあがった瞼ごしに、ぎらぎらした黒い目がアレクシアを見つけた、気がした。ち、が、う。と唇が動く。アレクシアは浅く頷く。
わかっている。だが今は。王本人に堂々と盾突くのはあまりにまずい。
「具体的に何を恨んでこやつは犯行に至ったのだ?」
王の疑念に、クラックは再び深々とお辞儀をした。
「は。おそらくはフュルスト商会の皆様方がお忙しそうにしているのが、妬ましかったのではないかと愚考いたします。皆様は異国の地にあって互いに協力し合い、その前途は洋々としておりました。これはカーミエールの街以外、どこへも行けません。母親とご領主様がそういう契約を交わしたのです。生まれが生まれなので嫁の来る当てもありません。未来のない自分と未来ある商会の――」
「もうよい、もうよい。さて、アレクシア嬢」
アレクシアは目を伏せ姿勢を低くする。部屋全体に、ひたひたと恐怖の匂いが渦巻いていた。諦観と憤怒にまみれたデルマンスと、それ以外の全員から。アレクシアが妙な受け答えをすれば、王はこれ以上にひどいことをするだろうという予感が、全員にある。
つまり、バルドリック王はこれで手打ちにしてくれと言っているのだ。真犯人はカーミエールの街の領主、あるいは代官に関係する者だと自白したようなものだ。そして王はその貴族に何か譲歩してやらねばならない理由があって、アレクシアにこれで諦めろと言っている。
「このように、我が臣下の調査によってあなたの仲間を殺した者は捕らえられた。我が国の法律に則って罰することになる。フュルスト商会には同様に、正しい価値基準に基づいた賠償金が支払われよう。それを持って国に帰るがいい」
実際に調査とやらをしたのは守備隊、それを命じたのは領主だろう。クラックはただの伝令係だ。王に近しい商人はときに、貴族のしがらみに縛られない間諜の役目を果たす。
どうする。ひとつだけ、断言できることがあるとすれば――それだけは取らない、という選択肢がある。ここでデルマンスを見捨て、賠償金をもらってリュイスに帰るという選択肢だけは、取らない。
商人は嘘をつくが、それはついてはいけない嘘だ。魂を売り渡す嘘をつけば、その先一生を後ろ暗い思いを抱えて過ごす羽目になる。
クラックが冷たい目で、にこにこと見守る。デルマンスの絶望と殺意がぎらぎらと光る。騎士たちの物見遊山気分の好奇の視線。そしてバルドリック王が静かな威厳でもって威圧する中、アレクシアは背筋を伸ばした。
「賠償金は辞退させていただきますわ、王陛下。恐れ多くも下されるそのご厚意に、フュルスト商会は値しません」
空気がざわめいた。騎士たちは目線を交わし、王は微動だにしない。
「何故なら私たちは外国人であり、厳密には陛下の保護の外にあるからです。私が被害者の遺体を即刻リュイスに送ったことが示す通り、この土地に埋葬される権利も持ちません。――しかし、陛下のおっしゃる通り、罪には罰が必要です」
唇を舐め、言葉を続ける。震えてもいなければ語尾が消えることもない声で。
「もしもお許しくださるのならば、陛下、私はこの者をリュイスへ連れ帰りたいと思います」
まっすぐにデルマンスを指差す。王は無表情である。クラックは死にそうに見え、デルマンスもまた、驚きのあまり心臓が止まったように見えた。




