カリス・ヴォルネールの場合
大陸西方の大国テトラス。南国ファーテバの港からやってくる珍しい文物の多くは、ここカーミエールから全国に散っていく。バルドリック・エヴレン王は街道に関税をかけた。年々引き上げられるそれは、テトラス国の、ひいてはエヴレン王家の重要な財源のひとつとなっていた。
その白いなめらかな道は現代の魔法技術では再現できない、古代の道なのだという。カリス・ヴォルネールがその女と落ち会ったのは、ある日の夕暮れ時、街道沿いの小さな娼館だった。娼館では金さえ支払えば店の奥で密談ができるため、貴族も平民も多くが利用する。
娼婦たちの嬌声が響き渡る店の表側を素通りして、裏口へ。訳知り顔の使用人に(おそらく逢引きだと思われた)案内された先の小さな部屋で、女は窓の外を眺めていた。
「へえ」
と思わず声が漏れる。清楚な装いを圧倒するほど、溢れ出る生命力で肌が光を放つような溌剌とした女だった。
「へえって?」
くすりと笑う顔さえも、猫の仲間のようにどこかなまめかしい。襟の詰まったドレスと幅広の帽子、夕暮れでその美貌はよく見えずとも、たっぷりとした渦巻く土色の髪が彼女が誰かを告げた。
「思ったより美人だなと思っただけさ、フュルスト商会の女秘書さん」
「アハハ。思ったよりお口が上手だわ」
女は笑いながら帽子を取った。髪の毛はさらさらと左右に広がり、夕日を浴びて赤く光る。虎のような笑い方をする女だな、席に着きながらカリスは思った。
「やり手商会長の義理の娘さんだね? お名前は失念してしまったが、それなりの権限を持ってテトラスを動き回ってると聞いたよ」
「お耳が早いのね。――何か頼みます?」
「んじゃ、酒をもらおうか」
古びているがよく手入れされた四角のテーブルと椅子。中央に飾られた質素な花瓶と一輪の薔薇。差し込む夕闇、女たちの張り上げる声、化粧と香水と饐えたドブのにおいが混ざった悪臭。その中にぼうっと発光するような白い肌のご令嬢。
(なるほどなあ、こりゃあ上玉だねえ)
とは思うものの、見えない背後から斜め後ろから、果ては上の階からも誰かの殺気立った視線を感じる。鈴を鳴らした女が注文を済ませ、メイドが酒を持ってきて並べる間、カリスは指一本動かそうという気になれなかった。そのくらいの監視だった。
「やれやれ、やっと人心地ついた」
グラスに注がれた上物の白ワインを彼は一気に飲み干した。くうっと喉が鳴りアルコールが香る。
「アレクシアと申しますわ」
女はグラスを掲げ、乾杯の仕草をした。カリスは剣ダコまみれの手を挙げて応えた。いくつかの殺気がぶわりと膨らむ。やれやれ。
「そんで、お嬢さんが俺みたいな流れの傭兵になんのご用で?」
「傭兵? 暗殺者と聞いたのだけれど? 間諜、謀略、なんでもするって」
「殺したい男でもいンの?」
肩まで伸びた黒髪を払い、無精髭に頬杖ついてカリスはぶっきらぼうに聞く。窓から吹き込んでくる夕暮れの風は、じきに夜風に変わるだろう。美女と美酒、そしてここは気兼ねする必要などない娼館の特別室。気が緩んだ、ように見せかけつつ大げさにあくびをしてみせる。
しかし目の前の女は、いかにも箱入り令嬢ですと言わんばかりの身なりの女は、面白そうにくすくす笑うだけ。怖気づきもしなければ感心した様子もない。
「お噂通り、豪胆な方ですのね」
「そりゃどうも」
「本当に殺してほしいのは私の父親なのだけど、まだ死んでもらっては困るの。そこで、異母妹の方を誑かしてほしいのよ」
さらり。とんでもないことを言う女だ。
「へえ? いもうと。美人?」
「さあ? 顔は知らないの。調査の一環で絵は見たことあるけれど、それだけじゃどうにも内面まで掴めないから」
「まあ、絵は絵だしな。――わかった、いいよ。いくら払う?」
「これだけ」
と示された指の本数は、思っていたより多くも少なくもない。
「誑かすだけ? 殺すのか?」
「追って指示するわ」
「んじゃ、前払いだ」
女は頷いた。それで契約は交わされた。
カリスだっていつもはこんなほいほい依頼を受けたりしないが、フュルスト商会といえば裏社会の塵芥にもきちんと金を支払うことで有名だ。投資にかけては豪胆実直、汚い手段も問わずに利益を追求し、だが決して義理に背くことはしない。それを積み重ねて大きくなった連中。
信用できる。だが、信頼することはできない。決して。背中を預ける仲になることもない。
だがカリスにとって、そのような間柄の相手の方が好ましい。彼は片手で握手をして、アレクシアと別れた。
さて、そのようにしてテトラスの隣国リュイスへ渡ったカリスだった。
ガイガリオン伯爵家は危うい経営をする家だった。元来、貴族というものは先祖から受け継がれた資産と人脈を用いて堅実に利益を上げるもの。去年と同じ領地収入を同じだけ、それが鉄則であった。そうでなければ使用人をはじめ領民、家人を養えない。
だがガイガリオン伯爵家当主エクシアのやり方は、奇妙だった。まず、夜会に夫人を伴わない。調べてみると、平民出身の奥方は正式な妻ではなく愛人だった。戸籍に書かれた女の名前は、レイヴンクール公爵家出身のルクレツィア。なるほど、これがあのフュルスト卿を骨抜きにした希代の悪女。
レイヴンクール公爵は頑として離縁を認めず、娘の存在自体をなかったことに見做しているらしい。ひどい父親であるが、貴族としては正しい。あの家は最近、どうやら塩の専売権かそれに近しい商売を取り戻したらしく、羽振りも戻っている。格下の伯爵家のいうことなど聞かないだろう。
フュルスト卿はルクレツィアを正妻として扱い、彼女の連れてきた子供たちにも最高の教育を用意し――それでも、諸国の遍歴に突き合わされて育ったのでは落ち着かなかっただろう。
「はー、あのお嬢ちゃんもわりと修羅場っぽいとこで育ってんだねえ」
とカリスは感心した。なよなよして、風が吹いたら飛びそうな風情のわりに青い目がびかびか光っていたのはこの育ちのせいか。
「ンじゃま、やりますかあ」
というわけでカリスは仕事をすることにした。髭を剃り、髪を切り、そして人相を意識して変える。まったくの別人に成り代わるため必要なのはドーランや派手な衣装ではなく、気の持ちようだ。彼は背が高い。使用人の仕事は一通り経験したし、書類の偽造もお手の物だ。落ち目の貴族の家に潜り込むなんてわけはなかった。
ガイガリオン伯爵家にフットマンとして雇われ、あっという間に家の奥に入り込めるところまで昇進した。人手不足なのだった。何でもそつなくこなせるカリスの手でも借りたいくらいに。妻なんだか愛人なんだか微妙な立ち位置の、とりあえず奥様と呼ばれている女の側に侍るまで二月もかからず、さすがの彼も心配した。
(女主人が家の監督の仕事のやり方を知らないんじゃ、無理もねえか……)
と思われているなど知ってか知らずか、平民出身で玉の輿に乗った元美少女、エイナはきゃらきゃらと無邪気に笑う。仕立て屋が持ってきたドレスカタログを指さして、フットマンにすぎないカリスに見せつける。
「ねーえねえねえカリスう。あたし、次のシーズンはこういうの着たいなあ」
「ステキですねえ、奥様。きっとお似合いになりますよ」
平民身分の愛人は社交界に立ち入ることは許されない。万が一そんなことをしようものなら笑い者にされ、爪弾きにされるだろうし――この女では、たとえ昼間の公園の散歩に連れていくのであっても恥ずかしいだろう。ガイガリオン伯爵はこれのどこがよかったのだろう?
「そんでね、娘とおんなじデザインで仕立てるのォ」
「ですが奥様、旦那様がお金を出してくださいますかね?」
カリスはしゃらりとカーテンを閉めながら訊ねた。
「あっ、そっかあ。旦那様、最近けちなんだあ……。なんでかしらね? あたしが年取ったから、もう飽きたのかな? ねえねえカリスう。どうしよ? あたし、あの人に捨てられたら生きていけない!」
室内には西日が差し込んでいた。そしてレースのカーテンごしに見える車寄せには、この時間にあるはずのない馬車があった。
カリスは内心、舌を出してなりゆきを楽しむことにする。
どたばた、わざと足音を立てて廊下を走る足音が、薄くなった絨毯に吸収されずに響いた。
「ちょっとママァ!?」
悲鳴のような金切り声をあげて、夫人と同じ金髪碧眼の美少女が走り込んできた。扉をバタンと力づくで押し開け、油を差されていない蝶番が上げた軋みよりうるさい。
「ああん……」
母親は寂しそうにカタログを脇に置く。
「どうしたの、ペルアちゃん? 学校はぁ? 帰ってきちゃったの?」
「あいつらあたしのこと妾の子妾の子言ってきて許せない許せない許せない許せないイイイイイィィ!! 殺して! 殺しちゃってよ、ママァ! 殺し屋とか、うちなら雇えるでしょ!? あいつら全員殺してよおおおおンキャアアアアアアアアア!!」
「そんなあ。無理よう。みんな貴族のお嬢さんなんだもの……あっ」
ガシャン。娘は壁際に走り寄ると花瓶を掴み、頭の上に振り上げ、棚に叩きつけて割った。破片が飛び散り、自身にも降りかかるが気にした様子もない。
そのまま、乱れた金髪を掻き毟って赤ん坊のように部屋の真ん中に寝転び、大声で泣き叫び始めた。……あーあ。
カリスは黙ったまま破片や水や花々を片付け始める。他の使用人たちが駆けつけてくることはない。普通の貴族家ならそうするだろうが、ここにいる無能どもはとばっちりを恐れ、主一家の持ち物を少しずつくすねるのに忙しい。
「ウギャーッ! あたしの、あたし、あたし、あたしの方が美人なああああああのにぃぃぃいいいいいい!! なんでえ? なんでよおおおおおおおお!」
「ああん、落ち着いてペルアちゃんったら。ねっ? ねっ? んーまっ、んーまっ」
と、エイナは口を尖らせたり開閉させたりし、暴れる娘のお腹を撫でた。当然、手足が当たって殴られた状態になるのですぐ諦め、少し離れたところから呆然とその状態を眺める。母親の方も娘を赤ん坊と勘違いしているのだった。
やがて狂乱が落ち着くと、カリスは少し高くした猫撫で声で言った。
「さあ、メイドたちを呼んでお綺麗にいたしましょうね、お嬢様。おかわいいお顔が台無しですよ」
「ううう~っ、カリスぅ、うん。ひぐっ。……あいつらがねっ、悪いの!」
「ええ、そうですとも。ペルアお嬢様は悪くございませんとも」
「あいつら子爵とかの娘のくせに、あたしのこと見下して。ブスだから僻んでくるのお」
「なんとおいたわしい」
鼻水を垂らしながら抱き着いてくるペルアに、カリスはげんなりした。顔には出さないまでも勘弁してくれと思う。下手をすれば自分が仕える貴族の令嬢に手を出したとしてお縄である。
エイナはにこにこその様子を眺め、
「わあ、カリスはペルアのご機嫌取るの上手ぅ」
と手を叩いている。この母娘は何もわかっておらず、そしてこの先もわかることはないのだった。
夜になると父親と兄が帰ってきた。カリスは何食わぬ顔で給仕をする。今日が給仕当番の予定だったフットマンは、別の屋敷に面接に出かけて不在である。ガイガリオン伯爵家には、まっとうな使用人はほとんど残っていない。
ガイガリオン伯爵エクシアは、最初から怒り狂っていた。世を呪い、貴族を呪い、うまくいかない商売の責任転嫁できる先を探す。そしてそれはいる。この夕食室に、いる。
「金の燭台が見当たらない。どこへやったのだ、エイナ!」
「はあ……」
「使用人どもが盗んだに違いない、犯人を見つけ出せ!」
「そんなのあたしの仕事じゃないもん」
「それが貴族の妻の務めだろうが! できるできないの話ですむと思うのか!?」
「いやああん、あなた、怒らないでェ。なんで怒るのよォ」
エイナは両手に顔を埋めて泣き出した。しくしくと、まるで十五の小娘のようである。
仮にも血を分けた息子のはずなのに、長男のザイオスはどこか夢見心地で助け舟を出す様子もない。父親に次のターゲットにされ、成績が振るわないのを詰られてあたふたと言い訳する。
「エッ、でも、俺。俺もちょっとは頑張ってるんですよお? 最近、エマってかわいい子爵家の子と仲良くなって、彼女頭いいんで、勉強教えてもらってて……」
「勉学で女に負けるとは、恥を知れ! お前はこのガイガリオン伯爵家の跡取りなのだぞ!――ああ、お前たちをこの屋敷に入れるのではなかった。お前たちごときに我が家の舵取りなど務まるはずもなかったのだ……!」
すべては自分の身から出た錆なのだが、そんなことを言って伯爵は悦に入るのだった。
食事も終わった夜中、いったい何がどうしてそうなるのだという話であるが、とにかくそうなった。夜の見回りを買って出たカリスがご家族の寝室の廊下をランプ片手に歩いていると、とたんにペルアお嬢様の部屋の扉が開き、引きずり込まれたのだった。
(正気か、この小娘)
確かに懐柔しようとしたが、されすぎじゃないか。
「カリスううう。話聞いてよおぉ」
「はいはい、お嬢様。しょうがねえですね」
と、にやっと男臭く笑って頭をガシガシ撫でてやる。ペルアはニヤッと笑ってしなをつくり、二の腕で胸の肉を寄せて強調して見せた。
気持ち悪いなあ、とカリスは思う。仕事と思えば耐えられるが、色気づいたガキなど好んで視界に入れたいものでもない。
カリスが暖かいココアを淹れるのを、ペルアはベッドにちょこんと座り込んで眺めていた。透ける素材のネグリジェを、わざとらしく乱してふくらはぎを露出している。
「それで、ご学友はそんなに意地悪なんですか」
とカリスが聞くと、ペルアは堰切ったようにその悪口を喋り始める。あいつは鼻が大きい、あいつは目が小さい、あいつは肌が汚い、あいつはあいつは……。あたしの方が可愛いのに。
そして最後に、吐き捨てた。
「あんなこと言われるのもママのせいよ! ママが貴族じゃないから。全部ママが悪い!」
「お母上様の悪口など、お嬢様」
「でもねえ……一番悪いのは、ルクレツィアよ!」
「それは、旦那様の、」
とカリスは口を濁したように俯く。きちんと七三に整えた髪が一筋、はらりと落ちてくるに任せる。ペルアはごくりと唾を飲み込み、勢い込んで言った。
「そうよ! 悪女ルクレツィア。あいつが全部悪いの。あいつと、あいつの娘があたしたちを呪ってるのよ。あたし、わかってるもん!」
「そんなに悪い人たちだったんですか」
「そうよ。ママも悪いけどあいつらが嫉妬してくるのが悪い。――ルクレツィアなんて。ふんだ。ママは殺し屋を雇ってルクレツィアをぶっ殺すべきだったわ。クソアマの、おにいちゃんに失礼なこと言ったっていうアレクシアの方も! まとめてぶっ殺してやればよかったのよ!」
――ばぎり。
と。カリスの耳の中で異音がした。
(いてっ)
極小の魔力石を触媒とする傍聴魔法。繊細な魔力操作を必要とする希少魔法だが、フュルスト商会の財力をもってすれば用意できないものはない。
ガイガリオン伯爵家へフットマンとして仕えて二か月半。カリスは常にその魔法を発動し、耳の奥に仕込んだ魔力石から中継し続けてきた。はるか南国ファーテバのアレクシアの元へ。
(たぶん受信の方の結晶をアレクシアお嬢さんが叩くかなんかしたな)
送信の方の魔力石がわずかにずれたのを、カリスは首をかしげて修正した。
翌朝、牛乳の配達人が小さな紙片を届けてきた。アレクシアの文字で、ごく簡潔にこう書かれていた。
――もう何もしないで。
――契約の早期終了。
カリスは目を細めて紙片を飲み込み、その日のうちに退職した。引き留められたが、家族の不幸で……としらばっくれた。
「カリス、ばいばい」
とエイナは手を振って彼を送り出す。世の中の理不尽も悲しみも知らない無邪気な美貌。覇気はなく、自我もない綺麗なお人形。言い値で退職金まで出してくれるなんて、いい職場だった。
歩きながらカリスはコートの襟を立て、髪の毛をかき乱す。生真面目なフットマンの面影は消え、彼は瞬く間に陰気な、くたびれた、誰の印象にも残らない、ただの男になる。次の依頼は誰からくるどんなものだろう? アレクシアと同じほど金払いがよければいいが。
「はてさて、ガイガリオン伯爵家……ね。来年まで家名だけでも残っているかねえ」
臍を嚙むように笑みをこらえて彼はひとりごちる。
「お嬢さんはあんた方を自分の手で消すことに決めたようだからね」
ああいう女の恨みこそ怖いのだ。カリスはそれを知っている。はたしてあの伯爵家が耐えられるだろうか?――答えはまだ、誰にもわからない。