モルセリア⑦
その日の午後のうち、アレクシアは王の間付近の部屋のひとつでその人を待った。彼女の知る限りの情報、それから小説でも、その人はよくここを通るはずだった。ツカツカと規則正しい足音が聞こえてくるのを待って、アレクシアは彼女の斜め後ろに追いつく。足が速い。まるで競歩のようだ。
「オルベッド女官長。はじめまして。アレクシアと申します。ひとつご相談がありますの。あの、お話を……」
「結構です。職務がありますので」
手強い。
アレクシアは内心、苦笑した。
タミュラ・オルベッドは女官長である。七歳のときに見習い侍女として王宮ルム・ランデに入り、以来ここで育ったと言って過言ではない古株だ。ヴィヴィエンヌはじめ王族の教育係を斡旋する権利を持ち、裏方の使用人に絶大な権力を奮っていた。王子や王女の側に行きたい人間など腐るほどいるからだ。おべっかは数知れず、賄賂も山と降り注ぐ。だがオルベッドは決してそれらを受けることなく、清廉潔白に職務を遂行した。その結果、女官長の地位に三十年近く居座り続ける剛の者である。
首の後ろでひとつの髷に結われた白髪交じりの黒髪に向かって、アレクシアは囁き声を上げた。
「ヴィヴィエンヌ様をお助けしたいんです」
ぴたり、オルベッドの足が止まった。女性にしては背が高い。感情の乗らないまなざしが、アレクシアを冷たく見下ろしてくる。
「聞かなかったことにしてあげましょうね、小さな外国のお客様。早くお国にお帰りなさい。今回の戦争は長引くかもしれません。戻れなくなってはことですよ」
「お気遣いありがとうございます。目的を果たすことができれば、すぐに戻るつもりです」
女官長は黙ってアレクシアの腕を掴み、部屋の隅へ引きずっていった。三枚の衝立によって狭い廊下のように区切られた空間を抜けると、途端に開放感が生まれる。窓際、カーテンの後ろへ彼女はアレクシアを押し込む。
「あの護衛騎士を、シルヴァン・ミストヴェルをヴィヴィエンヌ様へ近づけたのは、もしやあなたですか?」
「ええ。よくご存じですね」
「まさか……まさかとは思いますが、あなた」
「はい。私です。魔法使いレディ・ミーゼリアンを見つけ、王宮ルム・ランデへ送り込んだのも、私です」
オルベッドは絶句した。老いた顔を引きつらせ、忌々し気に額に手をやる。腰につけられた数々の貴重な扉の鍵がチャラリと鳴る。
幼少期を王宮で過ごすことがなかったシルヴァンの顔を知る者はごく少ない。またオストン・ミストヴェルが弟に見殺しにされたのを契機に、ミストヴェル侯爵家のローデン騎士団からは多くの離反者が出た。それが彼がヴィヴィエンヌの護衛騎士として王宮ルム・ランデに入り込めた理由だ。
だが、オルベッドはシルヴァンの顔を知っている。シルヴァンの母、ミストヴェル侯爵夫人アリエナはかつて彼女の同僚だった。王宮侍女の同期だったのだ。タルヴェルの残酷な裏切りの後、彼女らが母子ともに行方不明になったとき、オルベッドが何もできない自分を憎み、心痛めたことをアレクシアは知っている。
窓の外はいつの間にか曇天になり、ガラスについた結露が垂れて煉瓦の上で凍結していた。
「あの方がゆっくり市井でお休みになれるようにと、代々の王様は心を配ったのですよ。それをあなたは、いったい何故そんなことを――」
レディ・ウラリール・ミストヴェル、テトラスの銀狼の功績を称え、テトラスの王たちはミストヴェル侯爵家に格別の配慮を下した。その結果がタルヴェルによる兄オストン殺しであり、シルヴァンの不幸につながった。ミストヴェル侯爵という一つの地位が、その配下にあるローデン騎士団が、あまりにも高名になりすぎた結末だった。
「王宮を引っ搔き回し、何がしたいというのですか?」
「真相の解明を。それから友達をここから逃がしたい。それだけです」
「王女殿下のことを友と呼ぶのですか? あなたが? 外国の、……ただの商人の娘である、あなたが?」
本当は、もっと色々言いたいに違いなかった。ろくでもない結ばれ方をした、駆け落ち者同士に育てられた娘。フュルスト商会などという歴史も格式もない新興商会など、と。
けれどオルベッドは賢くも口をつぐみ、代わりにアレクシアをじっと見つめた。目の奥の真相を確かめるように。
「あなたは……ヴィヴィエンヌ様の、味方なのね?」
「はい」
アレクシアは頷く、力強く。絶対にそうであると信じてもらえるだけの気迫を込めて。
こればかりは、信じてもらうしかないのだ。この騙し合いばかりの世界で生きてきた女官長には、むしろ通じると信じている。そうなってほしいと願っている。
「あなたの御助力なしに、あの方がここを抜け出せるとは思えません。きっとご存じでしょう、私の耳にさえ入ってきたのだもの。王陛下がヴィヴィエンヌ様を、よりにもよってミストヴェル侯爵家へ嫁がせておしまいになると言っているのを? そんなことがあっていいはずありません」
「不敬な。王の決定に異議を挟むなど許されませんよ。それに、あなたが真実、義侠心のみで王女殿下にお味方するのだと何故信じられますか」
タミュラ・オルベッドは女官長らしくきっぱりと言い放った。
「信頼などできませんよ」
アレクシアはほっとした。切れ長の目が垂れるほどにんまりとして、彼女は両手を肩の上でひらひらさせる。
「ありがとうございます。それこそ、私が聞きたかった言葉ですわ」
「なんですって?」
「あなたは私のことを信頼できないとおっしゃった。でも、ヴィヴィエンヌ様を逃がすことについてはなんの言及もしなかった。……シルヴァン・ミストヴェルについても」
女官長は沈黙する。すっと伸びた背筋、腹の前で揃えられた手、王からの信頼を現す腰の鍵束。すべてが一体となって彼女を形づくる。規律の権化のようなその姿に隠れて、愛が欲しかった、得られなかった、だからこそ友人が産んだ小さな男の子がこの上もなく愛おしかった、かつての小さな少女がいる。
きっと、実用できる小説の知識はこれが最後だ。アレクシアは息を吸い込む。
「シルヴァンとヴィヴィエンヌ様がお互いに思いあっていることは、見れば誰だってわかりますわ。私は二人が幸せになるのを見届けたい。そんな自分の欲望のために動いているのです。だから信頼していただけなくて、いいの。あなたはきっと、二人の邪魔をなさらないわ。それがわかっただけで、僥倖です」
アレクシアは女官長を見上げ、にやっと笑う。どことなく引きつって見えたのかもしれない、それがひどく不気味だったのかもしれない。オルベッドは少しばかり、身を引いた。
「あなた様のお考えが知れてようございました、女官長様。それでは――」
「お待ちなさい」
踵を返しかけたアレクシアの背中に、鞭のような声が降る。土色の髪の先まで震えるような威厳ある、命令し慣れた声だ。
「あなたに力添えすることはありません。あなたは外国人ですから。でも……」
その声にかすかな迷いと、震えが走るのをアレクシアは聞く。そして確信した、やはりこの人は、とても優しい人なのだ。
「私が臣下として、ヴィヴィエンヌ様のお幸せをお邪魔することはない。それを覚えておいてください」
アレクシアは静かに首を垂れて、丁寧に一礼した。この上もない忠義者の、得難いエヴレン王家の臣下に向けて。
「しかと胸に刻みます。お話を聞いてくださって本当にありがとうございました、オルベッド女官長様」




