モルセリア⑥
「ヴィヴィエンヌ様、シルヴァン。話があるの」
二人は顔を見合わせる。一週間ぶりの再会だった。
アレクシアは今、ヴィヴィエンヌ王女の客人という扱いである。だがこの一週間、ヴィヴィエンヌは王宮を立ち去る貴族たちとの挨拶に忙しかったし、アレクシアはアレクシアで悪巧みの下地づくりと挨拶回りに忙殺されていた。
ヴィヴィエンヌの育った大きな四角い部屋。彼女がマリウス王子との婚約のためテトラスを旅立って一年近く。あまりにも早い破談、リュイスに起こった政変、テトラス国内の動揺や貴族たちの出入り……この部屋はそのすべてにまるでそ知らぬふりを決め込んだように平穏である。
柔らかなクリーム色の壁には花の模様。シャンデリアはやや小ぶりだが採光には十分以上で、火も魔法灯も灯されていない。開いた窓から差し込む太陽光をクリスタルが反射し、床の大理石の上にきらきらと光彩を落としていた。
侍女も侍従もいない、珍しい真昼の時間帯である。すでに風の音と冷たさは真冬のそれになっていた。外套とマフラーと手袋なくして庭を出歩くことはできず、室内も、魔法防壁と暖炉なしに座っていることができない。
ルム・ランデ王宮の中庭に面する一階の部屋。日当たりのよい東向きの窓と吹き抜ける芳香を含んだ風は、ヴィヴィエンヌが父王に可愛がられて育ったことを示すようだ。庭園の噴水の水は止められ、淀んだ水の香りがする。レースのカーテンごしに見える木々はいずれ冬眠したように成長を止めるだろう。花の鉢植えはとっくに温室や室内に移された。
アレクシアは腰かけたソファを撫でた。純白の布張りの上に淡いピンクのシルクの埃避けがかけられ、どこか母性的で柔らかな雰囲気である。小さなティーテーブル、見せるための棚とそこに飾られた絵皿、絵付け陶器のティーセット。
(平穏、そのもの)
母ルクレツィアの部屋に似ている。アレクシアはちょっぴり笑った。今頃、家族はどうしているだろう。アレクシアの放浪癖は今に始まったことではないから、呆れているかもしれない。
部屋の中には四人だけが残った。リュイスから来た、テトラス人二人とリュイス人二人。
アレクシアは口を開いた。白い手はテトラス式の通行証の表面を撫でる。薄い金属でできたそこはひんやり冷たい。
「まず――逃走経路が整ったことを報告しますわ。あなたとシルヴァン、お二人がまずは南国ファーテバに逃げ延び、その後、我が父の助けを借りて南大陸へ逃れるまでのルートが」
かすかな驚きの声が二人の口から洩れた。
「とても早いわ、アレクシア様」
ヴィヴィエンヌは飾りの絵皿が入った棚にもたれ、呟いた。
「ではこの時間が、私と家族たちの最後の時間になるのですね」
「俺も驚いています、お嬢さん。てっきりあなたがご帰国なさってから、徐々に外部からの手引きを構築し、逃げ出す段取りかと。――何故、そんなにも急いだんです?」
シルヴァンに向かってアレクシアは硬い表情を向ける。彼は何かを悟った様子ではっと身を強張らせた。
「まさか、ヴィヴィの身に危険が?」
「確証はないし、信じたくもないけれど。もう帰国した、リュイスの御用商人がここで雇った使用人を残していたわ。私は彼を買収し、情報を聞き出したの。ヴィヴィエンヌ様の次の嫁ぎ先はもうすぐ決まるそうよ。そしてその相手は、おそらくタルヴェル・ミストヴェル侯爵。――あなたのお父上を殺した、叔父上よ」
シルヴァンの表情が一切抜け落ちた。ヴィヴィエンヌが無意識に棚の飾りを掴み、絵皿がカタカタ揺れた。エマはといえば、ただ静かに三人を見つめている。誰が何を言い、言わなかったのかを彼女は永劫覚えておくだろう。アレクシアが教えた通りに。
アレクシアはソファの上から続ける。ピンク色の柔らかな布も、純白の皮も、彼女の心を和らげてはくれなかった。
「殺された五人がいた家に戻って、私は金の指輪を見つけたの。エヴレン王家の紋章がついた指輪を。謁見のとき、私はそれをバルドリック王に手渡した。レイドニー王子のものだと陛下は言ったわ」
「お兄様……」
ヴィヴィエンヌが呻いた。壁際にいたシルヴァンがそっと歩み寄り、そのか細い肩を抱き寄せる。
「宮中の噂を統合するに、どうやら王はそれで、ミストヴェル侯爵家の罪を許すことにしたみたい。ローデン騎士団を味方につけ、その武力を背景に王妃様との権力闘争にけじめをつけるおつもりよ。そして最終的には、弟君ジルナール・ランデリオ公爵を打ち負かそうと画策している」
「無理だ」
シルヴァンが吐き捨てるように言う。ローデン騎士団については、この場では誰よりも彼が詳しい。
「ローデン騎士団の主力は我が父オストン・ミストヴェルに忠誠を誓った騎士だった。父が――死に、俺が行方不明になった時点で、ほぼ解散したようなものだ。今のローデン騎士団はただ名ばかりの無頼者の集団で、ミストヴェル侯爵家の名を穢すばかりだ」
血を吐くような勢いに、エマが胸元でぎゅっと拳を握った。もし腕の中にヴィヴィエンヌがいなければ、シルヴァンは飾り棚を殴って破壊していただろう。
「それでも、名誉はあるわ。百年前のミストヴェル女侯爵ウラリールが築いた名声が、まだローデン騎士団の名を支えている。彼らに刃を向けることを拒む騎士や傭兵は今だに多いから、味方につける価値はある」
シルヴァンの形相が憤怒に染まった。大きな体格が二倍に膨れたと思われるほどの怒気が発せられ――そして搔き消えた。
「ああ、ごめんヴィヴィ。びっくりさせちゃったかな……」
と言いながら、彼は彼女の濃い金髪に顔を寄せる。項垂れ、打ちひしがれ、それでもただ一人のその人だけは守り抜くのだと、そうしなければ生まれてきた甲斐がないのだと、一心に思い詰めたその横顔。
アレクシアはぞっとしない。それはとても危うく、ギリギリのところで保たれた均衡の関係だ。そしてとても美しい。美しすぎて、いやになる。
「ヴィヴィエンヌ様、今となっては白状いたしますが。私はあの婚約破棄騒動であなたが王族籍を抹消されることを狙っていたの。リュイスに囚われたまま、あなたの価値が上がり下がりするうち……バルドリック王が我慢の限界を迎えてあなたを切り捨てるだろうことを、半ば誘っていたわ」
ヴィヴィエンヌはシルヴァンの腕ごしにはっとした顔をしたが、やがて透明な微笑みを浮かべながら頷いた。シルヴァンが無表情のまま、アレクシアとヴィヴィエンヌを交互に見やる。少しでも均衡が崩れたら何かが起こる、そんな雰囲気が部屋の中に充満する。
ヴィヴィエンヌは優しくシルヴァンを突き放すと、部屋の中央へ、アレクシアの前へと進み出た。
「わかっていたわ。あなたが私を手駒のひとつにしているってことは。そもそもシルヴァンと私を再会させてくれたことだって、彼を私に譲ってくれたことだって、すべて計算のうちだったとしてもおかしくないわ。――でも、」
ヴィヴィエンヌは静かに、遠い目をする。しんと静謐な無表情で、涙も頬の赤らみも何もない凛とした美貌が彫刻のようだ。
「助けに来てくれたわね。リュイス貴族の反感を買うことも承知の上で、王宮に忍び込んでまで」
「はい」
「だから、そんなことはもういいの。あなたの意図がなんだったのかなんて。むしろ私たちは、あなたにすでに返せないほどの恩義がある」
シルヴァンとエマが息を呑む中、ヴィヴィエンヌはその場に跪いた。
一瞬ののちにアレクシアは立ち上がる。
「――ヴィヴィエンヌ様!」
誰かが通りがかったら、とんでもないことになる。衝立の向こうの出来事であっても覗き見は可能である。だがヴィヴィエンヌは、アレクシアが肩に手を駆けても断固として動かなかった。
「恥を承知で、重ねてお願いします、アレクシア様。私とシルヴァンを、この王宮の外へ出してください。秘密裏に、できるだけ迅速に。私には頼れる後ろ盾も、配下もいないのです。――彼の叔父上にだけは、この身に触れさせるわけにはいかないのだから」
「わかっています。わかっているわ、ヴィヴィエンヌ。だから、立って。お願い」
彼女はそうした。そして両腕を広げ、アレクシアを抱きしめた。
抱き着いた、縋りついた、と言った方が正しいのかもしれなかった。
「頼ってばかりでごめんなさい。何もお返しできないこの身が恥ずかしい。……けれど私はシルヴァンと一緒にいたいのです。それが叶わないなら遠くに逃げたい。逃げ出して、幸せになりたい。それが、私の唯一の、願いなの」
「わかってます」
アレクシアはヴィヴィエンヌを抱きしめ返す。王女の身体は折れそうに華奢で、だがその内側に強靭な意志と矜持があることをすでに彼女は知っている。
「もし逃がしてくれたなら、力を蓄えておきます。あなたが私を必要としてくれたとき、それに応えることができるように。それによってお返しができるように」
アレクシアは何度も頷く。それはもしかしたら、もし自分が生まれる前に時が遡って、父と母が引き離されるところに出くわしたらこうして助けてあげたかったという、ありもしない妄想の実現を夢見ているのかもしれなかった。
それでよかった。
アレクシアにとってシルヴァンは数年を共にした頼もしい護衛騎士であり、ヴィヴィエンヌは不幸な婚約に翻弄されながらも決して負けないまま、愛する人と一緒に乗り越えようとしていた女性だ。助ける理由は必要なかったし、助けない理由もない。
「可能なら明日にでも、必ず」
そうして急ごしらえの脱出劇が、ひそかに始まった。




